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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by - 2024.11.01,Fri
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.06.22,Thu
『それから』読了。
(これまでの『それから』日記はコチラコチラ
後半の怒濤のような展開に引き込まれるというか、むしろ呆気にとられながら一気に読み通す。いや少し急すぎる気がしたよ。
「漱石ってこういう文章書く人だったんだあ・・・」という感慨はありながらも、それでも前半はまだわたしが漱石の文章としてイメージしていたものと大きく異なってはいなかった。主人公を含めた登場人物のすべてから、そして主人公をとりまく社会状況や情景のすべてから一定の距離を取り、それらをほのかな滑稽さと情緒を込めて描く厭世的な文章(このイメージはもっぱらわたしが「文鳥」とか『三四郎』から得たものなのだろうな。『こころ』も劇的ではあったけれど、どこか対象との距離感が強くあった気がするんだよなあ(気だけ?))。それが先日書いた三千代とのエピソード以降、破滅感を濃厚に漂わせたドラマティカリーにロマンチックな展開と描写に。代助が平岡に「酷い酷い」と詰め寄る場面では呆然としましたよ。いつのまにここまで来たんだ代助!
全体的な感想としては、漱石さんちょっとずるいとか、ラストをああいうふうに切るのはなかなか凄いなあとか、ちとロマンス感が強すぎて困惑するとか、色々あるのだけども、まとまってからまた(廃墟感漂う)ブクログにでも書こうかと思う。とりあえず今日は、些細ではあるけれども印象に残った点を。

感心した点は、そのラブロマンス突っ切った展開においても、文章に粘っこい「ベタベタさ」を感じないところ。たとえば、後半のひとつの山であろう、三千代と代助の対談。二人が「覚悟」に突入する場面です。正直言って、こういうシーンを至極真面目に、ユーモアや皮肉をまったく挟まずに、かつ強い緊張感を漂わせながら描きうるということにわたしは感心した。だってこういう場面って当事者があまりに真剣で心千切れんばかりで、そして時として自分自身にぶくぶく酔ってしまっていながら、傍からすればそれがまったくもって滑稽にしか映らないという、そういうものではありませんか。いやわたしはそれが恋愛というものに根本的につきまとう哀しさだと思っていたんだ。
しかしこの場面。やっぱりこそばゆくはあるし、復讐という言葉を用いることで「今更」な告白をする罪悪感を示してみせようとする代助のずるさはまあ置いておくとして、三千代の言葉や仕草がやたらに、こう、鮮烈だ。

三千代は猶泣いた。代助に返事をするどころではなかった。袂からハンケチを出して顔へ当てた。(中略)代助は椅子を三千代の方へ摺り寄せた。「承知してくださるでしょう」と耳の傍で云った。三千代は、まだ顔を蔽っていた。しゃくり上げながら、
「余りだわ」と云う声がハンケチの中で聞こえた。


この「あんまりだわ」という台詞がとても良いのです。(なんて主観的) こういう場面すら見事に描いてみせるというのは、まずもって著者の美学の産物なのだろうと思う。過剰に芝居がかった「酔い」が、おそらく意識的にそぎ落とされているからなのだろうな。
でもやっぱりなんか漱石ずるいんだよなあ。作品としてとても好きって言えないんだよなあ。まあそのへんはまた今度。



ところでこんなものを読み始めてしまいました

The Da Vinci Code


おお!友よ。ポピュラリズムに堕したわたしを、蔑すんでおくれ!罵しっておくれ。
昨日、The Da Vinci Codeと『それから』と、もう一冊人類学の本を1時間おきくらいにかわりばんこに読んでいたわたしは自分で自分のことをつくづくアホだと思った。(なんでこんなことしてんだ)いや、でもダヴィンチコードなかなか興味深いですよ。こう、いやなんつか色々な意味で。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.06.19,Mon
これカテゴリbooksかな。微妙だな。

Project Gutenbergは著作権の切れた様々なテクスト(文学・哲学・科学等々)をネット上で公開しているサイト。英語あるいは英語に翻訳されたものが大部分を占めるのが難と言えるかも知れないが、けっこう豊富に揃っているので、たまにお世話になっている。あとコナン・ドイル、シェイクスピア、グリムやアンデルセンの童話なんかでいくつかサウンド・ファイルもあるので、軽いリスニング教材にも使えるんじゃないかと思う(てかたまに使ってる)。まあ約400の音声ファイルのうち人間が読んでるのは30〜40程度で、350以上を占めるのはコンピューター音声なんだが・・・後者はリスニング教材と言うよりシュールなテクノBGMといった趣。
(トップページのSitemapを下の方にちょっと引っぱると、Online book catalogueという項目の中にAudio EBooksってのがあります。そこからサウンドファイル一覧に行けます。ファイルは全部MP3でDL可能)


で、上にも書いたように公開テクストの大部分は英語なんだけど、日本語テクストの項目があったので おお!と思って見てみた。そしたらふたっつだけありましたよ。

Akutagawa Ryunosuke, 1892-1927
Rashomon (Japanese)

Luther, Martin, 1483-1546
The Small Catechism of Martin Luther (Japanese)

・・・・?
まあ上のはいいんだ。芥川で『羅生門』と来たらこういかにも世界的に知られた日本文学の典型という感じだしなあ。あの黒澤のトリッキーな映画もあるしな。(内容が『藪の中』だからトリッキー ああ、イギリスでも黒澤好きな人けっこう多いです)
でもどうして二番目がマルチン・ルターなのかしら。布教の事情とかを考えると、文学作品よりも優先的にテクスト打ち込みボランティアが出てくるということなのか・・・このへん各種プロテスタント教会の布教活動がどんなかって良く知らないからなんとも言えんが・・・

ウィキの項目を読んでいたら、このProject Gutenberg、マイケル・ハートによって創始されたとか書いてあるから一瞬あの『帝国』のマイケル・ハートかと思って ええ?まじで!と思って英語版Wikipediaを見てみたら、綴りがちがった。(笑)Gutenbergの創始者の方はMichael Hartでありましたよ。(『帝国』のハートはHardt)
あとこのGutenbergは世界の他地域の同様のプロジェクトに圧力掛けたりもしてるらしい。なんかいかにもUSAって感じだなあ・・・(偏見スマヌ)

Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.06.18,Sun
あいも変わらずダラダラ『それから』読んでます。いま半分です。遅いな!
(「それから」読書記録1はコチラ
なんだか色々な発見があって面白い。その大半は、漱石というのがこういう人間であったのか。という発見だ。そして漱石の小説とはこんな小説であったのか。という発見。

先日綺麗すぎて印象が薄いと書いた三千代だが、がぜん独特の雰囲気というか「色彩」のようなものを帯びてきた。たとえば主人公・代助のところを訪れる一場面。長すぎるので引用はしないが・・・ああ疲れたと持参した花を洋卓の上に投げ出し、水が欲しいと直接言わず代助の飲んでいたコップを指さす三千代。慌てて別の水を取りに行く代助。帰ってきてみれば三千代は水の入った盆を抱えている。鈴蘭の活けられていた器の水をすくって飲んでしまったのだ、という場面である。代助の飲んだあとの水を指さす、その何とも言えぬ色気。花器の水をすくって飲むという、そのポエティック。夢十夜の第一夜に登場する「女」を思い出した。あれは百合であったと思うが、花と女を重ねることで女のしなやかさと透明感と色気を出すというところ。ついでに言えばちょっと読んでて恥ずかしくなるような少女趣味な感じも一緒。

梅子などとは違って、三千代の造形はほとんど視覚的なもので成り立っているなあと思う。この小説における三千代という人物は、彼女の姿かたちであり、彼女のいる情景であり、彼女のしぐさでありふるまいである。ふるまいとはいえ、社会的な思想と共にある「行動」ではない。しぐさとか表情に近い意味での、ふるまい。

思えば『三四郎』においても主人公が惹かれる女は、ひたすらに視覚的・動画的描写を積み上げることで描かれていた。そして実のところ 惚れた。とか 惹かれた。とかいう現象においては確かにそういう要素が強い力をもつ。それは、ちまたの恋愛タームにおける「外見」というものときわめてよく似ているが、何かが決定的に違う要素である。というより、ちまたで「外見」という要素が言及されるとき、そこに結びついているとても重要な何かがたいてい捨象されているのだと思う。たぶん、言葉にするのが非常に難しい何かであるために。

柄谷行人が初期の漱石論『畏怖する人間』で、漱石の根底には理性の届き得ぬ領域で自分を支配してくる「自然」への恐怖があると書いていたけれど、おそらくこの三千代や『三四郎』の美禰子という女たちと、彼女らに向く主人公のベクトルそのものも、柄谷の言う「自然」に対応するものとして考えることができるだろう。「女」は光や池や花といった自然ないし「情景」と交差し、その一部となっている。漱石が典型的に近代人だなあと思うのは、そこで感覚的なものを女(かつ惹かれる対象としての女、すなわち情欲)という領域に隔離するところだ。自然とか感覚的なものは理性と二分法的に対置させられて、主体の「彼岸」として置かれる。

と書くとすごいおさまりがつきやすいし どっかで聞いた論っぽいのだが、たとえば代助は「理性の人」と繰り返されている一方で、すごく感覚的というか「神経」の人間なのだよね。突然花の色と香りが刺激的で耐えられなくなったり とか。そのへん何というか面白いなあ。


ところで

 「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。
 「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ差し出して、透かして見せた。
 「毒でないったって、もし二日も三日も経った水だったらどうするんです」



いや、毒だと思ったんですがスズラン。違ったでしょうか。

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