本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.06.18,Sun
あいも変わらずダラダラ『それから』読んでます。いま半分です。遅いな!
(「それから」読書記録1はコチラ)
なんだか色々な発見があって面白い。その大半は、漱石というのがこういう人間であったのか。という発見だ。そして漱石の小説とはこんな小説であったのか。という発見。
先日綺麗すぎて印象が薄いと書いた三千代だが、がぜん独特の雰囲気というか「色彩」のようなものを帯びてきた。たとえば主人公・代助のところを訪れる一場面。長すぎるので引用はしないが・・・ああ疲れたと持参した花を洋卓の上に投げ出し、水が欲しいと直接言わず代助の飲んでいたコップを指さす三千代。慌てて別の水を取りに行く代助。帰ってきてみれば三千代は水の入った盆を抱えている。鈴蘭の活けられていた器の水をすくって飲んでしまったのだ、という場面である。代助の飲んだあとの水を指さす、その何とも言えぬ色気。花器の水をすくって飲むという、そのポエティック。夢十夜の第一夜に登場する「女」を思い出した。あれは百合であったと思うが、花と女を重ねることで女のしなやかさと透明感と色気を出すというところ。ついでに言えばちょっと読んでて恥ずかしくなるような少女趣味な感じも一緒。
梅子などとは違って、三千代の造形はほとんど視覚的なもので成り立っているなあと思う。この小説における三千代という人物は、彼女の姿かたちであり、彼女のいる情景であり、彼女のしぐさでありふるまいである。ふるまいとはいえ、社会的な思想と共にある「行動」ではない。しぐさとか表情に近い意味での、ふるまい。
思えば『三四郎』においても主人公が惹かれる女は、ひたすらに視覚的・動画的描写を積み上げることで描かれていた。そして実のところ 惚れた。とか 惹かれた。とかいう現象においては確かにそういう要素が強い力をもつ。それは、ちまたの恋愛タームにおける「外見」というものときわめてよく似ているが、何かが決定的に違う要素である。というより、ちまたで「外見」という要素が言及されるとき、そこに結びついているとても重要な何かがたいてい捨象されているのだと思う。たぶん、言葉にするのが非常に難しい何かであるために。
柄谷行人が初期の漱石論『畏怖する人間』で、漱石の根底には理性の届き得ぬ領域で自分を支配してくる「自然」への恐怖があると書いていたけれど、おそらくこの三千代や『三四郎』の美禰子という女たちと、彼女らに向く主人公のベクトルそのものも、柄谷の言う「自然」に対応するものとして考えることができるだろう。「女」は光や池や花といった自然ないし「情景」と交差し、その一部となっている。漱石が典型的に近代人だなあと思うのは、そこで感覚的なものを女(かつ惹かれる対象としての女、すなわち情欲)という領域に隔離するところだ。自然とか感覚的なものは理性と二分法的に対置させられて、主体の「彼岸」として置かれる。
と書くとすごいおさまりがつきやすいし どっかで聞いた論っぽいのだが、たとえば代助は「理性の人」と繰り返されている一方で、すごく感覚的というか「神経」の人間なのだよね。突然花の色と香りが刺激的で耐えられなくなったり とか。そのへん何というか面白いなあ。
ところで
「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。
「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ差し出して、透かして見せた。
「毒でないったって、もし二日も三日も経った水だったらどうするんです」
いや、毒だと思ったんですがスズラン。違ったでしょうか。
(「それから」読書記録1はコチラ)
なんだか色々な発見があって面白い。その大半は、漱石というのがこういう人間であったのか。という発見だ。そして漱石の小説とはこんな小説であったのか。という発見。
先日綺麗すぎて印象が薄いと書いた三千代だが、がぜん独特の雰囲気というか「色彩」のようなものを帯びてきた。たとえば主人公・代助のところを訪れる一場面。長すぎるので引用はしないが・・・ああ疲れたと持参した花を洋卓の上に投げ出し、水が欲しいと直接言わず代助の飲んでいたコップを指さす三千代。慌てて別の水を取りに行く代助。帰ってきてみれば三千代は水の入った盆を抱えている。鈴蘭の活けられていた器の水をすくって飲んでしまったのだ、という場面である。代助の飲んだあとの水を指さす、その何とも言えぬ色気。花器の水をすくって飲むという、そのポエティック。夢十夜の第一夜に登場する「女」を思い出した。あれは百合であったと思うが、花と女を重ねることで女のしなやかさと透明感と色気を出すというところ。ついでに言えばちょっと読んでて恥ずかしくなるような少女趣味な感じも一緒。
梅子などとは違って、三千代の造形はほとんど視覚的なもので成り立っているなあと思う。この小説における三千代という人物は、彼女の姿かたちであり、彼女のいる情景であり、彼女のしぐさでありふるまいである。ふるまいとはいえ、社会的な思想と共にある「行動」ではない。しぐさとか表情に近い意味での、ふるまい。
思えば『三四郎』においても主人公が惹かれる女は、ひたすらに視覚的・動画的描写を積み上げることで描かれていた。そして実のところ 惚れた。とか 惹かれた。とかいう現象においては確かにそういう要素が強い力をもつ。それは、ちまたの恋愛タームにおける「外見」というものときわめてよく似ているが、何かが決定的に違う要素である。というより、ちまたで「外見」という要素が言及されるとき、そこに結びついているとても重要な何かがたいてい捨象されているのだと思う。たぶん、言葉にするのが非常に難しい何かであるために。
柄谷行人が初期の漱石論『畏怖する人間』で、漱石の根底には理性の届き得ぬ領域で自分を支配してくる「自然」への恐怖があると書いていたけれど、おそらくこの三千代や『三四郎』の美禰子という女たちと、彼女らに向く主人公のベクトルそのものも、柄谷の言う「自然」に対応するものとして考えることができるだろう。「女」は光や池や花といった自然ないし「情景」と交差し、その一部となっている。漱石が典型的に近代人だなあと思うのは、そこで感覚的なものを女(かつ惹かれる対象としての女、すなわち情欲)という領域に隔離するところだ。自然とか感覚的なものは理性と二分法的に対置させられて、主体の「彼岸」として置かれる。
と書くとすごいおさまりがつきやすいし どっかで聞いた論っぽいのだが、たとえば代助は「理性の人」と繰り返されている一方で、すごく感覚的というか「神経」の人間なのだよね。突然花の色と香りが刺激的で耐えられなくなったり とか。そのへん何というか面白いなあ。
ところで
「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。
「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ差し出して、透かして見せた。
「毒でないったって、もし二日も三日も経った水だったらどうするんです」
いや、毒だと思ったんですがスズラン。違ったでしょうか。
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時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
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