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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by - 2024.05.17,Fri
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.03.15,Thu



 端的に言おう。小野不由美はあまりにエロを描かなすぎだ。『東亰異聞』なんかは色っぽい作品だそうだから描けないわけではないのだろうが、この『屍鬼』は題材が題材である。これは欠点と言われて仕方なかろう。生活空間に満ちた倦怠感、濃厚な死の香り、そして噴出する暴力--------これらを描く素材として、作者はこの小説において「ムラ」と「吸血鬼」を選び、飢えとも渇きともつかぬ衝動を描出しようとしたようだ。しかしもし性的なものを描くつもりが毛頭無かったのだとしたら、この選択は根本的にまちがっていたと言わざるをえない。

 勘違い無きように言っておくが、べつに行為としてのセックスを書けと言っているわけでは全くない。わたしがここで言っているのは、キャラクタの造形としぐさと言葉のなかに、言い換えればその存在にエロチシズムがあるかどうか、あるいは風と土と建物の描写のなかに性の熱気と冷気が感じられるかという問題である。あの吸血鬼少女には若干ロリータな色気があると言えないこともないが、それにしても薄すぎる。薄すぎる。

 歴史をひもとけば、吸血鬼を題材にした有名作品は多く色濃いエロチシズムを持っている。ドラキュラしかり、カーミラしかり、それは物語が語られるその基調に背景音楽のように流れていたのである。やわらかい肌がぷつんと破けてあたたかい液体が流れ出す光景を、異国の城に立ちこめる不透明なびろうどの暗闇を、グロテスクな断末魔の喘ぎを人びとが思い浮かべるとき、それらのイメージは息詰まるような欲望に充ち満ちていたはずだ。なぜなら、吸血鬼というものはそれじたい、少なくとも現在に連なるイメージにかんする限り、まさに性と闇とを間接的に連想させる記号のコラージュだったからである。
 そもそもジャンルとしての「ゴシック」は、厳格な性道徳が確立されていくその時代その場所で花開いたものだった。人間生活の性の側面を公的領域では徹底的に隠蔽する価値観が支配的になるなかで、そこからこぼれ落ちるけれどもどうしても人間の感情や生活から切り離せないものの表象が、「ゴシック」、つまり中世的(かつ時として異教的)というジャンルのなかにいっしょくたに詰め込まれたのである。したがって、それはパブリックでクリーンな合理性とは正反対なもののごちゃ混ぜで、古めかしい伝統、血統、異界/不合理の誘惑と恐怖、エキセントリックな熱情などといった要素と並んで、もう切り離しがたく密接にエロと結びついていたのだ。吸血鬼小説に代表される怪奇ブームを支えていたのは、セクシャルな表象そのものへのフェティッシュな欲求だった。

 こんな事を言うと、『屍鬼』はそういう西洋的なゴシックとは別物なんですよ、というひとが出てくるかもしれない。しかし「日本的」に「異形」をとらえてみたところで、それはまた別なかたちで不可分に性とかかわってくるだろう--------近世以前のからっとした(しかしやはりどこか歪んだ)性倫理にせよ、たとえば岩井志麻子に出てくるような汗と汚物にまみれた底なし沼にせよ。(岩井のねばっこさはとても現代的な代物であろうが、「土俗」としての説得力は兼ね備えている。)
 誤解を避けるために言っておくが、セックスの表象そのものは闇とも恐怖とも無関係でさしつかえない--------むしろそうあるべきだ。しかし逆は違う。闇と恐怖の造形を、闇を闇たらしめ、恐怖を恐怖たらしめたその社会的な排除と差異化の力を暴露するものとして描くのは、表現者の責務である。なぜなら、いまなおわれわれはその力の呪縛の中に生きているからだ。『屍鬼』においてその連綿たる表象の背景が失われている理由は多分に、作者が「吸血鬼」を実体的な種族raceとして捉えていることにあるだろう。吸血鬼にだって色々居るんだよ、でも一度火が燃え上がったらその種族に属するものは皆殺しにされてしまう、集団化した人間はかくも恐ろしい、とかそういうことを、小野不由美は現実社会のメタファとして描こうとしたように思える。

 おそらく小野不由美は優等生すぎるのだ。「吸血鬼」という存在に付されたエロティシズムと自分勝手な欲望とをミーハー的に受け入れることが、彼女には出来なかったのだろう。だがそのために、魔物をつくりだし排除をうみだす歴史的・社会的な仕組みについての洞察はむしろ失われ、同時に死も生も神もなにやら絵に描いた餅のようになってしまったのである。
 だいたいにおいて、この小説ちと人間の体臭と空気の湿度・密度が薄すぎではないか。たとえばあの主人公的な立場の坊さん、彼などはすみずみにいたるまでまったく体臭が感じられない。言葉づかいのせいか?少年同士、嫁姑といった人間関係もあまりにも単線的に描かれすぎていて、エゴイスティックな欲求とコンプレックスと羨望とが混じり合う様子はあまり伝わってこない。そのために、数百頁に及ぶ冗長な描写にもかかわらず、前半における人びとの欺瞞と倦怠感と、後半で噴出するファッショな排他的暴力とがうまく折り合わず、なにやらちぐはぐな印象になってしまったのではないか。


 ・・・気づけばなんだかめたくそに書いてしまったが、それも小野不由美がそれなりにまともな小説を書く人だという認識があってこそ。わたしも十二国記は好きです。

(18.Mar.2006)






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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.02.16,Fri
いや、ちょっと面白そうだなと思いまして。




ファンタジー論なんていうものはおそらくネット上にも星の数ほどあるんだろうけれど、そしてあんまり探したこともないんだけれども、こう、ヤフーメールをログアウトしたときになんでか知らんが必ずと言っていいほど表示されるオンラインファンタジーネトゲの広告だとか(たぶん一度だけクリックしてしまったことがあるためだと思われる。うっとうしいことこの上ない)、たまにいろんなブログやサイトのアマゾン広告で見るおびただしい「ファンタジー」っぽい小説だとか漫画だとかの表紙を見るに、「ファンタジー」っていったいなんなんでしょう。と思うことがたまにある。

おそらく「ファンタジー」に関心をもつ人々のなかでは高年齢層に属すると思われる(A)D&D経験者たちはえてして(AD&Dというゲームの性質とそのゲームに惹かれるという彼等の性質上)わりと分量のある、がっつりした、くそまじめな文体で濃ゆく真剣にギャグに身を投じた、頻繁にやりすぎ感すら漂う読み物から「異世界」感を構築していることが多いようで、そうした界隈では、登場人物の髪型と名前と目の色と服装だけ違うがそのほかはまったく同じ「運命的背景」とプロットの物語が、流星群到来時の夜空の流れ星のように現れてはなんの痕跡も残さず消えていく、といった現象はあまり見られないようである。ちなみにこの現象はあらゆる類のファンタジーにもうろくに何年も触れてないわたしが推測のみで和製ファンタジーをとりまく現状として想起するものである。いずれにせよ、前者のちょっと濃ゆいファンタジー支持層は、えてして後者の和製ファンタジーをパロパロにパロって呵々大笑の対象にしたりしているのだが、わたしはそういう呵々大笑に相対的に(ろくに知りもせんが)シンパシーを抱くこともある。まあ、たぶんそういう流れ星の作者も読者もはなから奥行きとかどうでもよくて、エッチゲーム(可愛く言ってみる)のキャラクターにリアリティが求められないのと同じなのだろうから、なにを言っても梨の礫なのだろうね、とも思うが。

ただし、同時に、前者の「濃い」ファンタジー支持者の文章に時としてみられる「オリジン至上主義」みたいなものに、ちょっと疑問を感じることもある。たとえばトールキン至上主義。
これはなにも、トールキンを「凄い」というのが悪いと言っているのではない。トールキンが構築した世界の奥行きというのは物凄いものであったのだろうと思うし、エルフ語ひとつをとっても、言語の歴史と形態についての言語学者トールキンの膨大な知識がそこには反映されているはずで、表面からは見えない「奥行き」をそこまでの深さで持たせるということは、並大抵の小説家にはできないはずだ。

しかしながら一方で、いかにトールキンがモダン・ファンタジーの創始者といえども、「魔法」であるとか「異界」であるとか「妖物」であるとか、はたまた「英雄伝説」というものの歴史は、当然ながらトールキンとともに始まったわけではない。それはトールキン以前にも歴史の中で脈動し生きていたものであるし、あるいは現在においてすら、「ファンタジー小説」が影響を及ぼしえぬ領域で依然として生き続けているものかもしれないのだ。
聞いたところによるとトールキンは、はるか昔に偉大な力をもち畏敬と信仰の対象であった自然神たちが、近世・近代の歴史の中で矮小な妖精へと姿を変えていったことを遺憾とし、それまで「妖精」といえば想起されていたような小妖精(おそらくヴィクトリアンロマンチックな羽のはえたやつ)ではなく、ほとんど半神とも言える威厳ある最古の種族として、彼なりの「エルフ」というものの像を構築したという。
このあまりにも柳田國男に激似している発想に、地球の裏っがわと裏っがわで数千キロ離れていようとも、民俗学に関心をもつ人間というのはおんなじこと考えているもんなんだなあという驚きをわたしは禁じ得ないのだが、まあそんなわたしの驚きはこのさい置いておくとして、重要なのは、柳田國男における「民俗文化」の像は、ありうる無数の説と像のうちの、ただひとつでしかないということだ。その影響力の大きさを鑑みたとしても、柳田の思い描いた「遠野」は、当然の事ながら唯一絶対の「遠野」ではありえない。柳田がダイダラボッチについていかなる考察をしたところで、そうしてその考察がいかに見事なものであったところで、ダイダラボッチの名と現象は彼の論の中に閉じられることなく、その名を知り語る人々のあいだで、まぎれもなく生きていたはずである。
トールキン至上主義的な物言いのなかで気になるのは、まさにこの点である。いかにトールキンがすぐれた学者であり物語作家であったところで、トールキンの想定したエルフなりドワーフなりを「本来こうであるべきもの」と主張するのは、どこかおかしいということである。幻想=ファンタジーなるもの、ユートピアなるもの、異界への想像力なるものは、トールキンがその立脚者として想定されるジャンル、「モダンファンタジー」のなかに閉じられうるようなものでは全くない。むしろ逆である——つねに動態する想像力と語りの実践のなかに登場する要素に、不安定ながらかろうじて立脚するものとして「モダンファンタジー小説」があるのではないか。つまりは本末転倒なのである。

端的に例を挙げよう——たとえば西洋のある地域において、日常的な語りとジョークのなかにえたいの知れない小妖精を登場させる人々がいたとしよう。そのとき、「なんとまあ、嘆かわしい、古き神々はここまで零落したのか、本来の雄々しい神々は、もうトールキンとその後継者のハイ・ファンタジーの中にしかいないのだな」と言うのはあまりに馬鹿げている、ということだ。

まあ、そういう疑問を昨今携えるわたしは、そんなわけで「ファンタジー論」というのにちょっと興味があるわけだ。ということで、いまさらながらに冒頭に紹介した本の話に戻るのだが、気になるのはこんな偉そうに長々と文章を書いてきておきながら、わたしは実はろくにファンタジーを読んでいないということだ。
評論というのは読むのにも書くのにも、その前に元ネタをきっちりと読んでいることが重要なんだとわたしは思っている。読むだけならまだ罪悪感があるくらいで害はないのだが、問題なのは書くときだ。
「感想文」と「評」には漠然としながらにして無数なる分水嶺があると思うのだが、その一つは、評の対象である作品のみならず、関連する作品群についての幅広い造詣があるかないかというものである。「うわっこんなところでこんなコレとあんなコレを並んで論じるかよ」みたいな驚きは、まあ評を読む楽しみのひとつではあるわけなのだけれど(わりと俗っぽい部類に入る評の書き方・読み方であるけれども)、そういうのも、通常「関連作品」として挙げられるものを大体程度網羅した上で、さらにそれ以外のジャンルをも俯瞰できるだけの読み込みと知識があるから深みが出るのであって。
あっと驚くアイディアと強引さで有名作品に切り込みを入れるような感じのものも時には良いのだけれど(斉藤美奈子なんか?)、言ってることの全体から、ちらりちらりと見える単語から、「おーこの評者かなり幅広くもの読んでそうだなあ」と感じさせる評が、わたしは好きなのである。

そんなわけでまた話が脱線したような気がするが、言いたかったことはつまり、評を書くのはもちろんのこと読むのにだって背景知識はあるに超したことはないので、わざわざ国際追加料金を払ってこんな本を買うよりも、興味があるんならファンタジーを読めよと。そういう話だったわけです。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.07.27,Thu



ぱらぱらとめくってみた。

アボリジニの人々が、牧場で一人の白人が死んだ事件について、大地が白人に懲罰を与えたのだという歴史分析をおこなったとき、それを何かのメタファーとしてとらえるのを「却下する」こと。ここで言われているのは、「ああこの寓意的な語りは、彼らの社会と白人との接触の経験、植民地経験というものが、その凄惨さと引力とをもって彼らの文化の一部となっていく、その一例なんだ」とかいう、ちょっと気を許せばわたしがやってしまいそうな解釈を却下すること、だ。いやそういう解釈知もあってもいいが、「それだけじゃないですよね」ということ。「すべてはメタファーである」んではなくて、「メタファーなどない」。アボリジニの長老が、1966年にケネディ大統領が彼らの場所にやってきたと言う。長老達は訴える。「イギリスからやってきたあいつらにひどいめにあってるんだ。」ケネディは彼らに協力を申し出る。イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよと。我々歴史学者は、20C後半にもなって米国がイギリス相手に戦争したことなんかないと「知っている」。だが、「——ケネディ大統領は、本当にアボリジニに出会っていないんでしょうかね。」

わたしが取っ組み合いをしなくてはならないことが書いてある。取っ組み合いをしたうえで、たぶん五歩距離をとった別の方向から見なくてはならないようなこと。あるいは五歩の距離を保った上で別の方向に顔を向けなくてはならないようなこと。語り手自身が昨日も今日も変わらず一貫して史実とか世界観として「信じて」いるわけではない歴史。そんな歴史を語る。そこに歴史の実践がある。そういうこともあるんではないかということ。それがこの著者の見ている方向なのか、まったく逆なのか、あるいは微妙な距離でねじれの位置にあるのか、それすらもまだわからない。そもそも史実として信じるって了解するってなんなんだ。そもそもわたしが史実として了解していること、していないことってなんだ。わたしはまずそこを述べていかねばならないのだ。
あの日あの道を歩きながら知人の話を聞いていて突如として沸き起こった、そして今はもうわたしのものとして感じられない歴史は、はたしてなんなのか。たとえばそういったこと。
いずれにせよあやうい方向ではある。

「歴史の再魔術化」は、わたしが漠然と考えていたこととクロスする。クロスすることは確かだが、どこまで近いのかは、わからない。わたしのビジョンがあまりにもぼんやりした蜃気楼のようなものであって、未構築だからだ。

しっかりしろと自分に言い聞かせる。



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