本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.10.22,Mon
いや、おもしろいぞこれ
なんというか身近な面白さ。
『こころ』とかよりも、もっと卑近で、雑音の多い人物像とプロットの気がするが、それはそれなりの魅力がある。
『それから』より断然面白い。「人の生きざま」を主題に添えた小説の書き方が洗練されてきたということなのだろうか。知らんけど。いや、『猫』とか『三四郎』とかは、そういういかにも「近代小説」な主題より風刺っぽいコミカルな部分部分が前面に出てた気がするので。(『三四郎』は中期以降の作品への移行を示す、とか言われるようだが、自分の読後感としては全体の筋というよりは部分部分の、ちょっと滑稽な風刺っぽいエピソードのほうが強く印象に残っている)
しかしながら漱石の感性の現代性に脱帽。というよりも、当時1910年代の社会における人々の意識が、意外と現在の感覚に近いってことなのだろうか。
なんというか、当時の人々の「社会に生きる面倒くささ」だの「人と人との関係性の辛さと面倒くささ」だの「自分というものの面倒くささ」だのがものすっごく身近に感じられるという驚きと同時に、そうしたものを小説として書きあらわす、漱石の文学意識や文体も驚きなのだな。二層において、あまりに現代的なわけだ。描かれているものも、描きかたも。
ここ数年、「過去とは異国であり異文化である」が意識の内面にまで染みいってしまったのか、100年前の人々とこれだけの感性を共有しているというのは正直言って驚きだ。そうして、かえってこれは日本の小説だから驚きなのかもしれない・・・19世紀末の英独仏の小説とかなら、「自我」というものの感覚がわれわれの普段の感覚と似通ってても、驚きもせず普通に読んでしまう気がするし。皮肉なことだ。
あるいは、思い描いていたのより「低俗」な面白さである気もする。たとえば中盤のクライマックスの一つ。妻の心の内がわからず思い悩む兄から、彼女の貞操を試すために旅行に行って一晩二人で過ごしてくれと頼まれる主人公。馬鹿を言うなと一度は断ったものの、日帰りならと押し切られ、いつも冷笑を浮かべているだけで何を考えているのかさっぱりわからない嫂(あによめ)を連れて仕方なく遠出する主人公。奇しくも押し寄せる嵐に電車も電話も不通になり、二人は出先で一晩すごさざるをえないことに……
って、どこのハラハラドキドキだ、これ。そしてなんて俗っぽい盛り上がり方なんだ!でもスッゲーと思っちゃうの。
日本語の小説だと、こう制限を設けないといつまででも読んでしまうので、「風呂以外では読まない」と決めたのだが、半分を超えたあたりから収まりがつかなくなって、一気読みしてしまいました。でも残り50pを大学に置きっぱなしにしてきてしまったの……(青空文庫プリントアウト)オオオ……明日……明日を待て……
なんというか身近な面白さ。
『こころ』とかよりも、もっと卑近で、雑音の多い人物像とプロットの気がするが、それはそれなりの魅力がある。
『それから』より断然面白い。「人の生きざま」を主題に添えた小説の書き方が洗練されてきたということなのだろうか。知らんけど。いや、『猫』とか『三四郎』とかは、そういういかにも「近代小説」な主題より風刺っぽいコミカルな部分部分が前面に出てた気がするので。(『三四郎』は中期以降の作品への移行を示す、とか言われるようだが、自分の読後感としては全体の筋というよりは部分部分の、ちょっと滑稽な風刺っぽいエピソードのほうが強く印象に残っている)
しかしながら漱石の感性の現代性に脱帽。というよりも、当時1910年代の社会における人々の意識が、意外と現在の感覚に近いってことなのだろうか。
なんというか、当時の人々の「社会に生きる面倒くささ」だの「人と人との関係性の辛さと面倒くささ」だの「自分というものの面倒くささ」だのがものすっごく身近に感じられるという驚きと同時に、そうしたものを小説として書きあらわす、漱石の文学意識や文体も驚きなのだな。二層において、あまりに現代的なわけだ。描かれているものも、描きかたも。
ここ数年、「過去とは異国であり異文化である」が意識の内面にまで染みいってしまったのか、100年前の人々とこれだけの感性を共有しているというのは正直言って驚きだ。そうして、かえってこれは日本の小説だから驚きなのかもしれない・・・19世紀末の英独仏の小説とかなら、「自我」というものの感覚がわれわれの普段の感覚と似通ってても、驚きもせず普通に読んでしまう気がするし。皮肉なことだ。
あるいは、思い描いていたのより「低俗」な面白さである気もする。たとえば中盤のクライマックスの一つ。妻の心の内がわからず思い悩む兄から、彼女の貞操を試すために旅行に行って一晩二人で過ごしてくれと頼まれる主人公。馬鹿を言うなと一度は断ったものの、日帰りならと押し切られ、いつも冷笑を浮かべているだけで何を考えているのかさっぱりわからない嫂(あによめ)を連れて仕方なく遠出する主人公。奇しくも押し寄せる嵐に電車も電話も不通になり、二人は出先で一晩すごさざるをえないことに……
って、どこのハラハラドキドキだ、これ。そしてなんて俗っぽい盛り上がり方なんだ!でもスッゲーと思っちゃうの。
日本語の小説だと、こう制限を設けないといつまででも読んでしまうので、「風呂以外では読まない」と決めたのだが、半分を超えたあたりから収まりがつかなくなって、一気読みしてしまいました。でも残り50pを大学に置きっぱなしにしてきてしまったの……(青空文庫プリントアウト)オオオ……明日……明日を待て……
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.09.11,Tue
うわあああん
きもちいいいいいいい
きもちいいいいいいい
フ! ロ! 最高!!!
というわけで、最近、風呂桶のある環境に引っ越した。
風呂桶に浸かるのは、実に1年ぶり近い。
ちなみにその風呂、イギリスでよく見る「建物が古いがゆえの風呂」。すなわち、シャワー導入以前にしつらえられたまま延々と残っている風呂で、したがってシャワー無し。
ちなみに、イギリスだけでなく欧米では大概そうなのだろうと思うが、イギリスの風呂というものは日本の風呂桶環境に慣れきった身にしてみれば不便この上ない。洗い場がないからだ。この不便さ、ユニットバスつきのワンルームアパートに暮らしたことのある人ならばよくわかるだろう。
しかしその不便さを踏まえてなおかつ、湯に浸かる快楽というのはたとえようがないものであることを、私は1年ぶりに確認したわけだ。
洗い場つきの風呂をもつ皆さんは、このエントリを読んだらぜひその幸せを噛みしめてほしい。仕込みに湯につかり、髪だの体だのを洗うというしちめんどくさい作業のあとに、好きなだけ茹だってフィニッシュという、このメリハリの効いた王道プロセス!この、自分がかつてそうとは知らずに享受していた幸せの、なんともたとえようのないことよ。
(ちなみに、私は風呂を洗う作業は好きなくせに、風呂で自分の体の諸々を洗う作業が何故だかとても嫌いである。いや、洗っていますよ。臭くないよ)
そんなわけで風呂の快楽を再発見した私は、その「風呂の楽しみ」をより充実させるべく、「風呂読書」なるものをも開始した。
ちなみに、これ日本にいたときには滅多にやっていなかった。一度、本を買ったその日に風呂の中に落としてぐちょぐちょにして以降は、ブックオフで100円で買った季節遅れの読み捨て雑誌をたまにめくっていた程度である(ちなみに落とした本は『ハウルの動く城』)
なお、私は現在もまだ英語小説を読むにあたって辞書がかたわらに必要な人間である。さすがに風呂に電子辞書を持ち込む気にはなれない。風呂にポチャンと落とそうものなら、風呂に入ったら染めた髪の染料が落ちちゃって二枚目たらし男としての自信を喪失したハウルどころの騒ぎではなくなるが、粗忽な私が二・三回風呂に入って大事なものを落とさずに済むとも思えない。加えて私は悔しさや悲しみを物質化させた緑色のぬるぬるを体中から出すこともできないので、やり場のない怒りが体の中に蓄積されていくばかりの結果になるのは間違いないとも予想された。したがって、読むなら辞書のいらない日本語の文章にしよう、そしてどうせなら読み損ねていた「古典」に挑戦しようというわけである。
そんなわけで、青空文庫の出番!
いやあ、便利な時代になったものです。いざとなればポイ捨てできる裏紙に印刷して風呂で読むなんざ作者の方々には失礼な気もするのは、事実なのですが。うう、ごめんなさい。
で、その風呂読書で最初に選んだのが、田山花袋『蒲団』。
二回ほど風呂に入って読み終わりました。
感想は‥‥うーん
きもちいいいいいいい
きもちいいいいいいい
フ! ロ! 最高!!!
というわけで、最近、風呂桶のある環境に引っ越した。
風呂桶に浸かるのは、実に1年ぶり近い。
ちなみにその風呂、イギリスでよく見る「建物が古いがゆえの風呂」。すなわち、シャワー導入以前にしつらえられたまま延々と残っている風呂で、したがってシャワー無し。
ちなみに、イギリスだけでなく欧米では大概そうなのだろうと思うが、イギリスの風呂というものは日本の風呂桶環境に慣れきった身にしてみれば不便この上ない。洗い場がないからだ。この不便さ、ユニットバスつきのワンルームアパートに暮らしたことのある人ならばよくわかるだろう。
しかしその不便さを踏まえてなおかつ、湯に浸かる快楽というのはたとえようがないものであることを、私は1年ぶりに確認したわけだ。
洗い場つきの風呂をもつ皆さんは、このエントリを読んだらぜひその幸せを噛みしめてほしい。仕込みに湯につかり、髪だの体だのを洗うというしちめんどくさい作業のあとに、好きなだけ茹だってフィニッシュという、このメリハリの効いた王道プロセス!この、自分がかつてそうとは知らずに享受していた幸せの、なんともたとえようのないことよ。
(ちなみに、私は風呂を洗う作業は好きなくせに、風呂で自分の体の諸々を洗う作業が何故だかとても嫌いである。いや、洗っていますよ。臭くないよ)
そんなわけで風呂の快楽を再発見した私は、その「風呂の楽しみ」をより充実させるべく、「風呂読書」なるものをも開始した。
ちなみに、これ日本にいたときには滅多にやっていなかった。一度、本を買ったその日に風呂の中に落としてぐちょぐちょにして以降は、ブックオフで100円で買った季節遅れの読み捨て雑誌をたまにめくっていた程度である(ちなみに落とした本は『ハウルの動く城』)
なお、私は現在もまだ英語小説を読むにあたって辞書がかたわらに必要な人間である。さすがに風呂に電子辞書を持ち込む気にはなれない。風呂にポチャンと落とそうものなら、風呂に入ったら染めた髪の染料が落ちちゃって二枚目たらし男としての自信を喪失したハウルどころの騒ぎではなくなるが、粗忽な私が二・三回風呂に入って大事なものを落とさずに済むとも思えない。加えて私は悔しさや悲しみを物質化させた緑色のぬるぬるを体中から出すこともできないので、やり場のない怒りが体の中に蓄積されていくばかりの結果になるのは間違いないとも予想された。したがって、読むなら辞書のいらない日本語の文章にしよう、そしてどうせなら読み損ねていた「古典」に挑戦しようというわけである。
そんなわけで、青空文庫の出番!
いやあ、便利な時代になったものです。いざとなればポイ捨てできる裏紙に印刷して風呂で読むなんざ作者の方々には失礼な気もするのは、事実なのですが。うう、ごめんなさい。
で、その風呂読書で最初に選んだのが、田山花袋『蒲団』。
二回ほど風呂に入って読み終わりました。
感想は‥‥うーん
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.09.05,Wed
突然だが、オペラというものは、一般にどのようなイメージを持たれているのだろうか。
とっつきにくい、年寄り向け、お金持ちっぽい、マニア向け、思想的、非大衆的……
ほかにはなんだろう。いずれにせよ、皮肉がかった意味あいで「高尚なご趣味ですねえ」と言われるような、オペラって一般的にはそんなジャンルだろうと思う。
まあ古典音楽(クラシック)、いや古典芸術はみんなそんなイメージではある。しかし、たといクラシックをそれなりに聞く人間であっても、オペラというのはどこかハードルの高い印象があるのではないか。
かく言うわたしも、オペラにはとんと無知である。まあそれは、わたしがクラシックで知っている領域などごく限られているというだけの話だが。たまにジャケットの分類では「クラシック」となっているCDを聞いたり買ったりすることもあるが、そのほとんどがバイオリン、チェロ、ギター、ピアノ、チェンバロといった弦楽器・鍵盤楽器の器楽曲。少し範囲を広げても、せいぜい弦楽四重奏なんかの室内楽や、コンチェルト(協奏曲)程度である。クラシック好きなら聞かなあかんでしょ、みたいな扱いである交響曲というジャンルすら、あまり良く知らない。
そもそも声楽曲には中学高校の音楽の時間以外ではほとんど触れたことがなく、知っているのはシューベルトの「ます」だの「野ばら」だの「菩提樹」だの、その程度である。あんた一体何歳なのという感じだが、そんなわけなので、オペラ音楽には実を言うとあまり興味がない。
だから、友人の家に遊びに行ったときに、その友人が「これ見てみろって」とDVDを再生しはじめたりするまでは、まともに通しで見ることすらなかったのである。
つまるところ、その日5時間かけて二本のオペラをぶっ通しで見ることになったわけだが、結論、
オペラがみんな高尚で高度に芸術的だなんて 大嘘
いや本当に。
見たオペラがフレンチ・オペラだったってのもあるのかもしれないけどね。ドイツのオペラだったらもっと哲学的・「文学的」なのかもしれないんだけどね……いや知らないけどね……
上記の友人は、実はフレンチ・オペラの研究論文で博士号を取ろうとしている院生である。その日見せてくれたオペラは、フランスの19世紀の作曲家でジュール・マスネーという人。「タイスの瞑想曲」を作曲した人というと、「ああー」と思いあたる人もいるだろうか。
「タイスの瞑想曲」Midiファイル
(リンクはばけさんという方のサイトのページへ直通)
現在はバイオリンで演奏されることが多く、有名演奏家のバイオリン小曲集などには5割以上の確率で収録されているこの「瞑想曲」だが、オリジナルはその名も『タイス』という名のオペラの一曲である。
しかしこのマスネーという人、存命時にはワーグナーと並ぶと言われるほどの人気を誇ったものの、時代を経るにつれて次第に忘れ去られ、現在ではくだんの「瞑想曲」を除き、その曲を知る人もほとんどいなくなってしまった。フランスですら今ではあまり聞かれないんだそうです。
ちなみに友人によると、マスネーは非常に叙情的というか、わかりやすくロマンチックで官能的sensualな曲を書く人なんだそうだ。当時の人気の理由もそこにあったのだとか。ところが彼の死後、音楽界はより高尚で哲学的な音楽(それこそワーグナーとか)をよしとする傾向が強くなっていったので、マスネーは次第に評価されなくなっていったというのが、彼の持論らしい。
ちなみに「瞑想曲」がかかるシーンで、友人は「ほらすごい肉感的なメロディでしょ、これはタイス(注:オペラに登場する娼婦)が欲望の世界から神の道に足を踏み入れるきっかけの場面のはずなんだけど、あまりに官能的な曲だもんで、本当にここでタイスが改心してるのかどうか怪しいって議論があるんだよね」と言っていた。
しかしまあ、どんな曲が官能的かって言うのも難しい話ではありますわな。昔あるCD解説かウェブサイトかなんかで、「この美しいメロディはまさしくタイスが聖なる信仰に目ざめる場面にふさわしい」とか書いてるの見たことあるぞ。
……MIDI聞いた方、どう思われます?これ官能的かなあ、それとも宗教的かなあ。
ちなみに友人には「まあ、信仰っていうのは時にすっごく官能的だったり性的だったりするもんじゃない?」と答えておきました(よく知らないけど……)。「いや本当にそうだよ」と彼は言ってましたがね。
そんでもって、長々と書きましたが、今日のエントリの主題は『タイス』ではありません。その日見たオペラのもう一本、
『ヴェルテル』であります。
——そうです、あの、かのゲーテの『若きウェルテルの悩み』です!
…………肉感的で大衆的な音楽を書く作曲家が『若きウェルテルの悩み』?
と、ここまでくればもう内容が読めた方がいるかもしれない。その通り、オペラが高尚なんて嘘っぱちとわたしが思ったのは、マスネーのその『ヴェルテル』オペラが、昼メロドラマも真っ青のドロドロ三角関係をベッタベタに描き上げた作品だったからである。つーか、原作読んだ人ならわかると思うが、
である。
実のところ、これはマスネーの翻案だけでなく、このオペラを演ったプロダクションの演出にも多く起因する。DVDジャケを見ればわかるように、ゲーテの原作(そして多分、マスネーの翻案も)が18世紀を舞台にしているのに対して、このオペラでは捻りが加えられて、舞台が20世紀半ばのドイツに設定されている。そしてヒロイン・ロッテはレトロなツーピースのスーツに身を包み、カールさせた金髪ショートと真っ赤な口紅くっきり眉毛、カフェの一席で気だるげに視線を流すという、ハリウッド・レトロ・クラシック女優のような趣きになっているわけだ。もうこれだけで、可憐で優しくも気高い天使かつ慈母のような雰囲気を最初から最後までひたすら発散させていた原作の完璧少女・ロッテとはまるきり別人である。つーか原作は基本的に、恋する青年ウェルテルがしたためた書簡小説の体裁で書かれているので、盲目的な恋慕の対象として置かれるロッテが、純粋完全無欠の存在として描かれるのも無理はないのだ。原作には、ウェルテル以外の視線も主観もほとんど存在しない。そして原作物語の骨格とは、まさしく、そのプラトニックな恋慕にとらわれた主観が募りに募って苦悩に至り、一人の若者の命を奪うにいたるまでのプロセスにほかならない。ゆえにロッテの人物造型が異なれば、作品全体がまったく別物になるのに不思議はないのだ。
しかしなあ、イライラすると煙草をやけ吸いしたりブランデーをやけ飲みしたりするロッテだよ!いやあ凄いよ。ちょっと感心しちゃったよ。
ちなみに『若きウェルテルの悩み』は三角関係の小説と言われることもあるようだが、基本的に原作では「三角関係」なるものはほとんど描かれない。ヒロイン・ロッテは婚約者アルベルトと結婚する将来にとくに不満も違和感も感じていないし、アルベルトよりウェルテルに心動かされる描写なんてのも、記憶によればほとんど出てこない。基本は、「あたしたち、いいお友達でいましょうね!」なる天真爛漫な態度のはずである。
そうして婚約者たるアルベルトはアルベルトで、前半はウェルテルにも寛大だし、後半だってウェルテルに嫉妬するというよりは、「もう身を固めてもいい年なのに、いつまでもフラフラしたまま、婚約者のある女性にべたべた近づくなんて」という社会倫理的な「呆れ」と「説教」を感じさせる接し方だったような気がするぞ。アルベルトはつねに堂々としていた——いや、むしろ憎悪や嫉妬にとらわれる「必要がない」のだ。きちんとした仕事と立場と家庭をもつアルベルトは、自分が正しい人間であるということ、ロッテが自分のものであるということに、微塵も疑いをもっていない。
したがって、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』の主題とは、若き情熱・悩める主観と、厳格でリスペクタブルな社会道徳との対立であって、繊細な感受性をもつ一途な若者が後者との折り合いをつけられずに自滅していく過程であったはずだ。事実、ウェルテルが詩人で芸術家肌であるのに対し、アルベルトはいかにもビジネスマンといった感じの描かれ方だった。そこにあるのは「芸術」と「社会的に立派であること」との古典的な対立図式であって、ウェルテルとアルベルトはそれぞれの価値を体現した人物であり、ロッテは詩人の視線のかなたに置かれる恋慕の対象であり、つまり、つまり、けっして愛憎と嫉妬と戦略にまみれるどろどろの恋愛劇ではなかったはずなのだ。
いや、ウェルテル読んだの高校の時なので実は記憶曖昧なんですけどね・・・ついさっき、検索して知るまでアルベルトとロッテは最後まで結婚してないと思いこんでたし・・・いや、でもね・・・(言い訳)
まあそれはいいとして(咳払い)、わたしがこのオペラで見たハリウッド・レトロ・ロマン風の『ヴェルテル』では、三角関係の構図がとってもとっても、ワカリヤスイものになっていた。ロッテはあきらかにアルベルトに退屈しており、まぎれもなくウェルテルに恋している。彼女は「不倫の恋に心乱されつつ社会道徳を裏切る不貞な自分に苦悩する人妻」として内面描写される。そうしてウェルテルは、情熱的にロッテに思いのたけを打ち明けつづけ、すきあらば抱きしめたりキスしようとしたりする危険な色男である。また、アルベルトは心ここにあらずのロッテを「結婚」という形式的な枠にすがって引き留めようとする、地位はあるが魅力に欠ける男であり、ウェルテルにボウボウと薄暗い嫉妬の炎を燃やしている。言ってみれば、このオペラでのアルベルトの役割は、『ハッピー・マニア』における貴子とほぼ同一である。
……って、おおい!しっかりしろアルベルト!
そんなわけで、これを見ていたわたしは、このあんまりにも情念メロドラマーンな演出に開いた口がふさがらなかったわけだが、見方を変えれば、類似のプロットからここまで違った物語が導きえたというのは、それはそれで興味深い。もちろんオペラではかなりの台詞改変・場面改変が行われているのだが(まあ、ウェルテルの一人語りだけじゃオペラとしては舞台が成り立たないからね)、部分部分に原作の台詞を使ってもいたのだ。さらに、ちょっと退廃的なロッテや、嫉妬深いアルベルトといったキャラの演出も、実は台詞以外の演技や小道具使いによって演出されている。このへんからも、オペラそのものではなくプロダクション独自の個性があるんだろうなと感じる。
たとえば、物語のクライマックスでウェルテルがアルベルトに使いをよこし、旅に行くから護身用に銃を貸してくれと言ってくる場面。原作では、アルベルトはウェルテルがそれをなんに使うのかなど考えもせず、友人の頼み事に単純に親切に答える(少なくともウェルテルはそう解釈したんじゃなかったっけ)。ところがオペラバージョンでは、アルベルトはあきらかに、ウェルテルがなにか破滅的なことに拳銃を使おうとしているのを悟っている。その上で、残酷で憎しみに満ちた表情ともったいぶった仕草でもって、あえてウェルテルに銃を貸してやるのだ。妻を奪われそうな男が、嫉妬のあまり恋敵の男を消し去ろうと画策する、そういう場面なのである。
この場面は一例にすぎない。全体的にこの演出バージョンは、原作の文章にもごくごくかすかに出てきて、だがけして主要な要素ではなかった「ロッテのウェルテルへの心の揺れ」や、「アルベルトの不安や疑い、嫉妬」を、最大限に極大化して主要な軸にしているわけなのだ。
つまりこの演出バージョンでの『ヴェルテル』は、キャラクターの理解、キャラ同士の関係性や感情のもつれの理解、物語の主題の理解、どれも原作小説の印象とは完全にかけ離れているのだが、それがあまりに首尾一貫してメロドラマーンな全体を構成しているために、見ているうちに「……あ、もしかしてこれも一つの解釈としてありかも」という気になってきてしまうのだ。
すげえ。ある意味すげえよ。
別の言葉で言えば、それはゲーテ作品のオペラ化というよりは、原作がほとんど描かなかった、あるいは原作がまったく興味を示さなかった、だが読みようによっては「そこにあったかもしれないもの」(感情・関係・場面)にひたすら情熱を注ぎ、まったく異なる解釈・視点・物語を読み出す作品だったのだ。
……文字通り、ゲーテ小説の二次創作である。
そうして、二次創作が原作よりずうっと「型どおり」のストーリーラインやキャラクタになっているという意味でも、たぶんアニメや小説や漫画における原作と二次創作との関係と一緒……と言ったら二次創作作家さんたちに怒られるかしら。
いや、でもそういう「型どおり」の作品を、首尾一貫した説得力で作れるというのは、ひとつの能力ではあると思った上でこう書いているわけだ。だって、このオペラの完成度はある意味では高かったもん。なんというか、職人芸、ね。
そうして面白いのは、ここまで印象が違うのに、原作もこのオペラも双方、「情熱」と「社会的倫理」との間の二項対立的な衝突の物語として読める、ということだ。つーか、このオペラは『若きウェルテルの悩み』というよりは『熟女ロッテの悩み』って感じだった。二つの間で苦悩してるのがあきらかにロッテなんだもん。
逆に、このオペラを見ることで、原作が基本要素だけを取り出してみれば単なる情念ドラマにもなりうる典型的な設定を使ってるんだなあ、というのがよくわかりました。小説の、あの精神性志向みたいな感じは、みんな文体とか物語の進め方とかの表面や細部に起因するものなのね。
しかしまあ、そうは言っても、腹か胸を撃ち抜いたくせにしつこくいつまでも意識があり、血まみれでロッテとベッドの上で抱き合うウェルテル(さすがに濡れ場ではないが)を見てると、多少なりとも呆れてしまったのは否めない。だって、
「時計が12時を打ちます!ロッテ、ロッテ、さようなら。さようなら!」
そう叫び、ウェルテルが拳銃でみずから頭を撃ち抜き一人で死んでいく、原作のクライマックスのインパクトは、読後○○○年経ってもやっぱり忘れがたかったんで。
いや、実は撃ち所が悪く、数時間血まみれで苦しみ続け、発見された時には頭から脳漿を流しながらまだ痙攣してたとかいうやたらリアルで凄惨な描写も原作にはなぜか付いているんだけどね……
DVDを見せてくれた友人(原作読んでない)には、見ている間中「これ別もん、完全に別もん」を繰り返してしまいました。わかっております、こういうオリジナル至上主義的発言って、オリジナル知らない人にはうざいんだよね。すみませんでした。
かつ、「これ、音楽はかなり評価高いんだよ。どう思った?」と聞かれて、「話の内容に気とられて音楽聞いてなかった」と答えた自分……。さすがに友人も呆れていた。オペラ見せがいのない奴で、すまん。
あ、これ全部書いたあとで、こちらのページにマスネーの『ヴェルテル』について詳しい説明があるの見つけました。こうして見ると、わたしの見たハリウッド・レトロ・ロマン風バージョンは、やっぱりマスネーのオペラをより極端に演出した感じみたいですね。興味のある人は、ごらんあれ。
とっつきにくい、年寄り向け、お金持ちっぽい、マニア向け、思想的、非大衆的……
ほかにはなんだろう。いずれにせよ、皮肉がかった意味あいで「高尚なご趣味ですねえ」と言われるような、オペラって一般的にはそんなジャンルだろうと思う。
まあ古典音楽(クラシック)、いや古典芸術はみんなそんなイメージではある。しかし、たといクラシックをそれなりに聞く人間であっても、オペラというのはどこかハードルの高い印象があるのではないか。
かく言うわたしも、オペラにはとんと無知である。まあそれは、わたしがクラシックで知っている領域などごく限られているというだけの話だが。たまにジャケットの分類では「クラシック」となっているCDを聞いたり買ったりすることもあるが、そのほとんどがバイオリン、チェロ、ギター、ピアノ、チェンバロといった弦楽器・鍵盤楽器の器楽曲。少し範囲を広げても、せいぜい弦楽四重奏なんかの室内楽や、コンチェルト(協奏曲)程度である。クラシック好きなら聞かなあかんでしょ、みたいな扱いである交響曲というジャンルすら、あまり良く知らない。
そもそも声楽曲には中学高校の音楽の時間以外ではほとんど触れたことがなく、知っているのはシューベルトの「ます」だの「野ばら」だの「菩提樹」だの、その程度である。あんた一体何歳なのという感じだが、そんなわけなので、オペラ音楽には実を言うとあまり興味がない。
だから、友人の家に遊びに行ったときに、その友人が「これ見てみろって」とDVDを再生しはじめたりするまでは、まともに通しで見ることすらなかったのである。
つまるところ、その日5時間かけて二本のオペラをぶっ通しで見ることになったわけだが、結論、
オペラがみんな高尚で高度に芸術的だなんて 大嘘
いや本当に。
見たオペラがフレンチ・オペラだったってのもあるのかもしれないけどね。ドイツのオペラだったらもっと哲学的・「文学的」なのかもしれないんだけどね……いや知らないけどね……
上記の友人は、実はフレンチ・オペラの研究論文で博士号を取ろうとしている院生である。その日見せてくれたオペラは、フランスの19世紀の作曲家でジュール・マスネーという人。「タイスの瞑想曲」を作曲した人というと、「ああー」と思いあたる人もいるだろうか。
「タイスの瞑想曲」Midiファイル
(リンクはばけさんという方のサイトのページへ直通)
現在はバイオリンで演奏されることが多く、有名演奏家のバイオリン小曲集などには5割以上の確率で収録されているこの「瞑想曲」だが、オリジナルはその名も『タイス』という名のオペラの一曲である。
しかしこのマスネーという人、存命時にはワーグナーと並ぶと言われるほどの人気を誇ったものの、時代を経るにつれて次第に忘れ去られ、現在ではくだんの「瞑想曲」を除き、その曲を知る人もほとんどいなくなってしまった。フランスですら今ではあまり聞かれないんだそうです。
ちなみに友人によると、マスネーは非常に叙情的というか、わかりやすくロマンチックで官能的sensualな曲を書く人なんだそうだ。当時の人気の理由もそこにあったのだとか。ところが彼の死後、音楽界はより高尚で哲学的な音楽(それこそワーグナーとか)をよしとする傾向が強くなっていったので、マスネーは次第に評価されなくなっていったというのが、彼の持論らしい。
ちなみに「瞑想曲」がかかるシーンで、友人は「ほらすごい肉感的なメロディでしょ、これはタイス(注:オペラに登場する娼婦)が欲望の世界から神の道に足を踏み入れるきっかけの場面のはずなんだけど、あまりに官能的な曲だもんで、本当にここでタイスが改心してるのかどうか怪しいって議論があるんだよね」と言っていた。
しかしまあ、どんな曲が官能的かって言うのも難しい話ではありますわな。昔あるCD解説かウェブサイトかなんかで、「この美しいメロディはまさしくタイスが聖なる信仰に目ざめる場面にふさわしい」とか書いてるの見たことあるぞ。
……MIDI聞いた方、どう思われます?これ官能的かなあ、それとも宗教的かなあ。
ちなみに友人には「まあ、信仰っていうのは時にすっごく官能的だったり性的だったりするもんじゃない?」と答えておきました(よく知らないけど……)。「いや本当にそうだよ」と彼は言ってましたがね。
そんでもって、長々と書きましたが、今日のエントリの主題は『タイス』ではありません。その日見たオペラのもう一本、
『ヴェルテル』であります。
——そうです、あの、かのゲーテの『若きウェルテルの悩み』です!
…………肉感的で大衆的な音楽を書く作曲家が『若きウェルテルの悩み』?
と、ここまでくればもう内容が読めた方がいるかもしれない。その通り、オペラが高尚なんて嘘っぱちとわたしが思ったのは、マスネーのその『ヴェルテル』オペラが、昼メロドラマも真っ青のドロドロ三角関係をベッタベタに描き上げた作品だったからである。つーか、原作読んだ人ならわかると思うが、
はっきり言わなくても別物
である。
実のところ、これはマスネーの翻案だけでなく、このオペラを演ったプロダクションの演出にも多く起因する。DVDジャケを見ればわかるように、ゲーテの原作(そして多分、マスネーの翻案も)が18世紀を舞台にしているのに対して、このオペラでは捻りが加えられて、舞台が20世紀半ばのドイツに設定されている。そしてヒロイン・ロッテはレトロなツーピースのスーツに身を包み、カールさせた金髪ショートと真っ赤な口紅くっきり眉毛、カフェの一席で気だるげに視線を流すという、ハリウッド・レトロ・クラシック女優のような趣きになっているわけだ。もうこれだけで、可憐で優しくも気高い天使かつ慈母のような雰囲気を最初から最後までひたすら発散させていた原作の完璧少女・ロッテとはまるきり別人である。つーか原作は基本的に、恋する青年ウェルテルがしたためた書簡小説の体裁で書かれているので、盲目的な恋慕の対象として置かれるロッテが、純粋完全無欠の存在として描かれるのも無理はないのだ。原作には、ウェルテル以外の視線も主観もほとんど存在しない。そして原作物語の骨格とは、まさしく、そのプラトニックな恋慕にとらわれた主観が募りに募って苦悩に至り、一人の若者の命を奪うにいたるまでのプロセスにほかならない。ゆえにロッテの人物造型が異なれば、作品全体がまったく別物になるのに不思議はないのだ。
しかしなあ、イライラすると煙草をやけ吸いしたりブランデーをやけ飲みしたりするロッテだよ!いやあ凄いよ。ちょっと感心しちゃったよ。
ちなみに『若きウェルテルの悩み』は三角関係の小説と言われることもあるようだが、基本的に原作では「三角関係」なるものはほとんど描かれない。ヒロイン・ロッテは婚約者アルベルトと結婚する将来にとくに不満も違和感も感じていないし、アルベルトよりウェルテルに心動かされる描写なんてのも、記憶によればほとんど出てこない。基本は、「あたしたち、いいお友達でいましょうね!」なる天真爛漫な態度のはずである。
そうして婚約者たるアルベルトはアルベルトで、前半はウェルテルにも寛大だし、後半だってウェルテルに嫉妬するというよりは、「もう身を固めてもいい年なのに、いつまでもフラフラしたまま、婚約者のある女性にべたべた近づくなんて」という社会倫理的な「呆れ」と「説教」を感じさせる接し方だったような気がするぞ。アルベルトはつねに堂々としていた——いや、むしろ憎悪や嫉妬にとらわれる「必要がない」のだ。きちんとした仕事と立場と家庭をもつアルベルトは、自分が正しい人間であるということ、ロッテが自分のものであるということに、微塵も疑いをもっていない。
したがって、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』の主題とは、若き情熱・悩める主観と、厳格でリスペクタブルな社会道徳との対立であって、繊細な感受性をもつ一途な若者が後者との折り合いをつけられずに自滅していく過程であったはずだ。事実、ウェルテルが詩人で芸術家肌であるのに対し、アルベルトはいかにもビジネスマンといった感じの描かれ方だった。そこにあるのは「芸術」と「社会的に立派であること」との古典的な対立図式であって、ウェルテルとアルベルトはそれぞれの価値を体現した人物であり、ロッテは詩人の視線のかなたに置かれる恋慕の対象であり、つまり、つまり、けっして愛憎と嫉妬と戦略にまみれるどろどろの恋愛劇ではなかったはずなのだ。
いや、ウェルテル読んだの高校の時なので実は記憶曖昧なんですけどね・・・ついさっき、検索して知るまでアルベルトとロッテは最後まで結婚してないと思いこんでたし・・・いや、でもね・・・(言い訳)
まあそれはいいとして(咳払い)、わたしがこのオペラで見たハリウッド・レトロ・ロマン風の『ヴェルテル』では、三角関係の構図がとってもとっても、ワカリヤスイものになっていた。ロッテはあきらかにアルベルトに退屈しており、まぎれもなくウェルテルに恋している。彼女は「不倫の恋に心乱されつつ社会道徳を裏切る不貞な自分に苦悩する人妻」として内面描写される。そうしてウェルテルは、情熱的にロッテに思いのたけを打ち明けつづけ、すきあらば抱きしめたりキスしようとしたりする危険な色男である。また、アルベルトは心ここにあらずのロッテを「結婚」という形式的な枠にすがって引き留めようとする、地位はあるが魅力に欠ける男であり、ウェルテルにボウボウと薄暗い嫉妬の炎を燃やしている。言ってみれば、このオペラでのアルベルトの役割は、『ハッピー・マニア』における貴子とほぼ同一である。
……って、おおい!しっかりしろアルベルト!
そんなわけで、これを見ていたわたしは、このあんまりにも情念メロドラマーンな演出に開いた口がふさがらなかったわけだが、見方を変えれば、類似のプロットからここまで違った物語が導きえたというのは、それはそれで興味深い。もちろんオペラではかなりの台詞改変・場面改変が行われているのだが(まあ、ウェルテルの一人語りだけじゃオペラとしては舞台が成り立たないからね)、部分部分に原作の台詞を使ってもいたのだ。さらに、ちょっと退廃的なロッテや、嫉妬深いアルベルトといったキャラの演出も、実は台詞以外の演技や小道具使いによって演出されている。このへんからも、オペラそのものではなくプロダクション独自の個性があるんだろうなと感じる。
たとえば、物語のクライマックスでウェルテルがアルベルトに使いをよこし、旅に行くから護身用に銃を貸してくれと言ってくる場面。原作では、アルベルトはウェルテルがそれをなんに使うのかなど考えもせず、友人の頼み事に単純に親切に答える(少なくともウェルテルはそう解釈したんじゃなかったっけ)。ところがオペラバージョンでは、アルベルトはあきらかに、ウェルテルがなにか破滅的なことに拳銃を使おうとしているのを悟っている。その上で、残酷で憎しみに満ちた表情ともったいぶった仕草でもって、あえてウェルテルに銃を貸してやるのだ。妻を奪われそうな男が、嫉妬のあまり恋敵の男を消し去ろうと画策する、そういう場面なのである。
この場面は一例にすぎない。全体的にこの演出バージョンは、原作の文章にもごくごくかすかに出てきて、だがけして主要な要素ではなかった「ロッテのウェルテルへの心の揺れ」や、「アルベルトの不安や疑い、嫉妬」を、最大限に極大化して主要な軸にしているわけなのだ。
つまりこの演出バージョンでの『ヴェルテル』は、キャラクターの理解、キャラ同士の関係性や感情のもつれの理解、物語の主題の理解、どれも原作小説の印象とは完全にかけ離れているのだが、それがあまりに首尾一貫してメロドラマーンな全体を構成しているために、見ているうちに「……あ、もしかしてこれも一つの解釈としてありかも」という気になってきてしまうのだ。
すげえ。ある意味すげえよ。
別の言葉で言えば、それはゲーテ作品のオペラ化というよりは、原作がほとんど描かなかった、あるいは原作がまったく興味を示さなかった、だが読みようによっては「そこにあったかもしれないもの」(感情・関係・場面)にひたすら情熱を注ぎ、まったく異なる解釈・視点・物語を読み出す作品だったのだ。
……文字通り、ゲーテ小説の二次創作である。
そうして、二次創作が原作よりずうっと「型どおり」のストーリーラインやキャラクタになっているという意味でも、たぶんアニメや小説や漫画における原作と二次創作との関係と一緒……と言ったら二次創作作家さんたちに怒られるかしら。
いや、でもそういう「型どおり」の作品を、首尾一貫した説得力で作れるというのは、ひとつの能力ではあると思った上でこう書いているわけだ。だって、このオペラの完成度はある意味では高かったもん。なんというか、職人芸、ね。
そうして面白いのは、ここまで印象が違うのに、原作もこのオペラも双方、「情熱」と「社会的倫理」との間の二項対立的な衝突の物語として読める、ということだ。つーか、このオペラは『若きウェルテルの悩み』というよりは『熟女ロッテの悩み』って感じだった。二つの間で苦悩してるのがあきらかにロッテなんだもん。
逆に、このオペラを見ることで、原作が基本要素だけを取り出してみれば単なる情念ドラマにもなりうる典型的な設定を使ってるんだなあ、というのがよくわかりました。小説の、あの精神性志向みたいな感じは、みんな文体とか物語の進め方とかの表面や細部に起因するものなのね。
しかしまあ、そうは言っても、腹か胸を撃ち抜いたくせにしつこくいつまでも意識があり、血まみれでロッテとベッドの上で抱き合うウェルテル(さすがに濡れ場ではないが)を見てると、多少なりとも呆れてしまったのは否めない。だって、
「時計が12時を打ちます!ロッテ、ロッテ、さようなら。さようなら!」
そう叫び、ウェルテルが拳銃でみずから頭を撃ち抜き一人で死んでいく、原作のクライマックスのインパクトは、読後○○○年経ってもやっぱり忘れがたかったんで。
いや、実は撃ち所が悪く、数時間血まみれで苦しみ続け、発見された時には頭から脳漿を流しながらまだ痙攣してたとかいうやたらリアルで凄惨な描写も原作にはなぜか付いているんだけどね……
DVDを見せてくれた友人(原作読んでない)には、見ている間中「これ別もん、完全に別もん」を繰り返してしまいました。わかっております、こういうオリジナル至上主義的発言って、オリジナル知らない人にはうざいんだよね。すみませんでした。
かつ、「これ、音楽はかなり評価高いんだよ。どう思った?」と聞かれて、「話の内容に気とられて音楽聞いてなかった」と答えた自分……。さすがに友人も呆れていた。オペラ見せがいのない奴で、すまん。
あ、これ全部書いたあとで、こちらのページにマスネーの『ヴェルテル』について詳しい説明があるの見つけました。こうして見ると、わたしの見たハリウッド・レトロ・ロマン風バージョンは、やっぱりマスネーのオペラをより極端に演出した感じみたいですね。興味のある人は、ごらんあれ。
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時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
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Please excuse my poor English -- I am still under training
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