忍者ブログ
本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
[46] [56] [53] [52] [49] [45] [44] [42] [41] [40] [55
Posted by - 2024.11.22,Fri
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.02.16,Fri
いや、ちょっと面白そうだなと思いまして。




ファンタジー論なんていうものはおそらくネット上にも星の数ほどあるんだろうけれど、そしてあんまり探したこともないんだけれども、こう、ヤフーメールをログアウトしたときになんでか知らんが必ずと言っていいほど表示されるオンラインファンタジーネトゲの広告だとか(たぶん一度だけクリックしてしまったことがあるためだと思われる。うっとうしいことこの上ない)、たまにいろんなブログやサイトのアマゾン広告で見るおびただしい「ファンタジー」っぽい小説だとか漫画だとかの表紙を見るに、「ファンタジー」っていったいなんなんでしょう。と思うことがたまにある。

おそらく「ファンタジー」に関心をもつ人々のなかでは高年齢層に属すると思われる(A)D&D経験者たちはえてして(AD&Dというゲームの性質とそのゲームに惹かれるという彼等の性質上)わりと分量のある、がっつりした、くそまじめな文体で濃ゆく真剣にギャグに身を投じた、頻繁にやりすぎ感すら漂う読み物から「異世界」感を構築していることが多いようで、そうした界隈では、登場人物の髪型と名前と目の色と服装だけ違うがそのほかはまったく同じ「運命的背景」とプロットの物語が、流星群到来時の夜空の流れ星のように現れてはなんの痕跡も残さず消えていく、といった現象はあまり見られないようである。ちなみにこの現象はあらゆる類のファンタジーにもうろくに何年も触れてないわたしが推測のみで和製ファンタジーをとりまく現状として想起するものである。いずれにせよ、前者のちょっと濃ゆいファンタジー支持層は、えてして後者の和製ファンタジーをパロパロにパロって呵々大笑の対象にしたりしているのだが、わたしはそういう呵々大笑に相対的に(ろくに知りもせんが)シンパシーを抱くこともある。まあ、たぶんそういう流れ星の作者も読者もはなから奥行きとかどうでもよくて、エッチゲーム(可愛く言ってみる)のキャラクターにリアリティが求められないのと同じなのだろうから、なにを言っても梨の礫なのだろうね、とも思うが。

ただし、同時に、前者の「濃い」ファンタジー支持者の文章に時としてみられる「オリジン至上主義」みたいなものに、ちょっと疑問を感じることもある。たとえばトールキン至上主義。
これはなにも、トールキンを「凄い」というのが悪いと言っているのではない。トールキンが構築した世界の奥行きというのは物凄いものであったのだろうと思うし、エルフ語ひとつをとっても、言語の歴史と形態についての言語学者トールキンの膨大な知識がそこには反映されているはずで、表面からは見えない「奥行き」をそこまでの深さで持たせるということは、並大抵の小説家にはできないはずだ。

しかしながら一方で、いかにトールキンがモダン・ファンタジーの創始者といえども、「魔法」であるとか「異界」であるとか「妖物」であるとか、はたまた「英雄伝説」というものの歴史は、当然ながらトールキンとともに始まったわけではない。それはトールキン以前にも歴史の中で脈動し生きていたものであるし、あるいは現在においてすら、「ファンタジー小説」が影響を及ぼしえぬ領域で依然として生き続けているものかもしれないのだ。
聞いたところによるとトールキンは、はるか昔に偉大な力をもち畏敬と信仰の対象であった自然神たちが、近世・近代の歴史の中で矮小な妖精へと姿を変えていったことを遺憾とし、それまで「妖精」といえば想起されていたような小妖精(おそらくヴィクトリアンロマンチックな羽のはえたやつ)ではなく、ほとんど半神とも言える威厳ある最古の種族として、彼なりの「エルフ」というものの像を構築したという。
このあまりにも柳田國男に激似している発想に、地球の裏っがわと裏っがわで数千キロ離れていようとも、民俗学に関心をもつ人間というのはおんなじこと考えているもんなんだなあという驚きをわたしは禁じ得ないのだが、まあそんなわたしの驚きはこのさい置いておくとして、重要なのは、柳田國男における「民俗文化」の像は、ありうる無数の説と像のうちの、ただひとつでしかないということだ。その影響力の大きさを鑑みたとしても、柳田の思い描いた「遠野」は、当然の事ながら唯一絶対の「遠野」ではありえない。柳田がダイダラボッチについていかなる考察をしたところで、そうしてその考察がいかに見事なものであったところで、ダイダラボッチの名と現象は彼の論の中に閉じられることなく、その名を知り語る人々のあいだで、まぎれもなく生きていたはずである。
トールキン至上主義的な物言いのなかで気になるのは、まさにこの点である。いかにトールキンがすぐれた学者であり物語作家であったところで、トールキンの想定したエルフなりドワーフなりを「本来こうであるべきもの」と主張するのは、どこかおかしいということである。幻想=ファンタジーなるもの、ユートピアなるもの、異界への想像力なるものは、トールキンがその立脚者として想定されるジャンル、「モダンファンタジー」のなかに閉じられうるようなものでは全くない。むしろ逆である——つねに動態する想像力と語りの実践のなかに登場する要素に、不安定ながらかろうじて立脚するものとして「モダンファンタジー小説」があるのではないか。つまりは本末転倒なのである。

端的に例を挙げよう——たとえば西洋のある地域において、日常的な語りとジョークのなかにえたいの知れない小妖精を登場させる人々がいたとしよう。そのとき、「なんとまあ、嘆かわしい、古き神々はここまで零落したのか、本来の雄々しい神々は、もうトールキンとその後継者のハイ・ファンタジーの中にしかいないのだな」と言うのはあまりに馬鹿げている、ということだ。

まあ、そういう疑問を昨今携えるわたしは、そんなわけで「ファンタジー論」というのにちょっと興味があるわけだ。ということで、いまさらながらに冒頭に紹介した本の話に戻るのだが、気になるのはこんな偉そうに長々と文章を書いてきておきながら、わたしは実はろくにファンタジーを読んでいないということだ。
評論というのは読むのにも書くのにも、その前に元ネタをきっちりと読んでいることが重要なんだとわたしは思っている。読むだけならまだ罪悪感があるくらいで害はないのだが、問題なのは書くときだ。
「感想文」と「評」には漠然としながらにして無数なる分水嶺があると思うのだが、その一つは、評の対象である作品のみならず、関連する作品群についての幅広い造詣があるかないかというものである。「うわっこんなところでこんなコレとあんなコレを並んで論じるかよ」みたいな驚きは、まあ評を読む楽しみのひとつではあるわけなのだけれど(わりと俗っぽい部類に入る評の書き方・読み方であるけれども)、そういうのも、通常「関連作品」として挙げられるものを大体程度網羅した上で、さらにそれ以外のジャンルをも俯瞰できるだけの読み込みと知識があるから深みが出るのであって。
あっと驚くアイディアと強引さで有名作品に切り込みを入れるような感じのものも時には良いのだけれど(斉藤美奈子なんか?)、言ってることの全体から、ちらりちらりと見える単語から、「おーこの評者かなり幅広くもの読んでそうだなあ」と感じさせる評が、わたしは好きなのである。

そんなわけでまた話が脱線したような気がするが、言いたかったことはつまり、評を書くのはもちろんのこと読むのにだって背景知識はあるに超したことはないので、わざわざ国際追加料金を払ってこんな本を買うよりも、興味があるんならファンタジーを読めよと。そういう話だったわけです。
PR
Comments
Post a Comment
Name :
Title :
E-mail :
URL :
Comments :
Pass :   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
TrackBack URL
TrackBacks
CALENDER
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
SEARCH THIS BLOG
Since_12Apr07
ABOUT ME
HN:
まめやもり - mameyamori

怠け者のちいさなやもりですが色々ぶつぶつ言うのは好きなようです。
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。

A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
TRACKBACKS
BAR CODE FOR MOBILE
Template by mavericyard*
Powered by "Samurai Factory"
忍者ブログ [PR]