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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.03.15,Thu



 端的に言おう。小野不由美はあまりにエロを描かなすぎだ。『東亰異聞』なんかは色っぽい作品だそうだから描けないわけではないのだろうが、この『屍鬼』は題材が題材である。これは欠点と言われて仕方なかろう。生活空間に満ちた倦怠感、濃厚な死の香り、そして噴出する暴力--------これらを描く素材として、作者はこの小説において「ムラ」と「吸血鬼」を選び、飢えとも渇きともつかぬ衝動を描出しようとしたようだ。しかしもし性的なものを描くつもりが毛頭無かったのだとしたら、この選択は根本的にまちがっていたと言わざるをえない。

 勘違い無きように言っておくが、べつに行為としてのセックスを書けと言っているわけでは全くない。わたしがここで言っているのは、キャラクタの造形としぐさと言葉のなかに、言い換えればその存在にエロチシズムがあるかどうか、あるいは風と土と建物の描写のなかに性の熱気と冷気が感じられるかという問題である。あの吸血鬼少女には若干ロリータな色気があると言えないこともないが、それにしても薄すぎる。薄すぎる。

 歴史をひもとけば、吸血鬼を題材にした有名作品は多く色濃いエロチシズムを持っている。ドラキュラしかり、カーミラしかり、それは物語が語られるその基調に背景音楽のように流れていたのである。やわらかい肌がぷつんと破けてあたたかい液体が流れ出す光景を、異国の城に立ちこめる不透明なびろうどの暗闇を、グロテスクな断末魔の喘ぎを人びとが思い浮かべるとき、それらのイメージは息詰まるような欲望に充ち満ちていたはずだ。なぜなら、吸血鬼というものはそれじたい、少なくとも現在に連なるイメージにかんする限り、まさに性と闇とを間接的に連想させる記号のコラージュだったからである。
 そもそもジャンルとしての「ゴシック」は、厳格な性道徳が確立されていくその時代その場所で花開いたものだった。人間生活の性の側面を公的領域では徹底的に隠蔽する価値観が支配的になるなかで、そこからこぼれ落ちるけれどもどうしても人間の感情や生活から切り離せないものの表象が、「ゴシック」、つまり中世的(かつ時として異教的)というジャンルのなかにいっしょくたに詰め込まれたのである。したがって、それはパブリックでクリーンな合理性とは正反対なもののごちゃ混ぜで、古めかしい伝統、血統、異界/不合理の誘惑と恐怖、エキセントリックな熱情などといった要素と並んで、もう切り離しがたく密接にエロと結びついていたのだ。吸血鬼小説に代表される怪奇ブームを支えていたのは、セクシャルな表象そのものへのフェティッシュな欲求だった。

 こんな事を言うと、『屍鬼』はそういう西洋的なゴシックとは別物なんですよ、というひとが出てくるかもしれない。しかし「日本的」に「異形」をとらえてみたところで、それはまた別なかたちで不可分に性とかかわってくるだろう--------近世以前のからっとした(しかしやはりどこか歪んだ)性倫理にせよ、たとえば岩井志麻子に出てくるような汗と汚物にまみれた底なし沼にせよ。(岩井のねばっこさはとても現代的な代物であろうが、「土俗」としての説得力は兼ね備えている。)
 誤解を避けるために言っておくが、セックスの表象そのものは闇とも恐怖とも無関係でさしつかえない--------むしろそうあるべきだ。しかし逆は違う。闇と恐怖の造形を、闇を闇たらしめ、恐怖を恐怖たらしめたその社会的な排除と差異化の力を暴露するものとして描くのは、表現者の責務である。なぜなら、いまなおわれわれはその力の呪縛の中に生きているからだ。『屍鬼』においてその連綿たる表象の背景が失われている理由は多分に、作者が「吸血鬼」を実体的な種族raceとして捉えていることにあるだろう。吸血鬼にだって色々居るんだよ、でも一度火が燃え上がったらその種族に属するものは皆殺しにされてしまう、集団化した人間はかくも恐ろしい、とかそういうことを、小野不由美は現実社会のメタファとして描こうとしたように思える。

 おそらく小野不由美は優等生すぎるのだ。「吸血鬼」という存在に付されたエロティシズムと自分勝手な欲望とをミーハー的に受け入れることが、彼女には出来なかったのだろう。だがそのために、魔物をつくりだし排除をうみだす歴史的・社会的な仕組みについての洞察はむしろ失われ、同時に死も生も神もなにやら絵に描いた餅のようになってしまったのである。
 だいたいにおいて、この小説ちと人間の体臭と空気の湿度・密度が薄すぎではないか。たとえばあの主人公的な立場の坊さん、彼などはすみずみにいたるまでまったく体臭が感じられない。言葉づかいのせいか?少年同士、嫁姑といった人間関係もあまりにも単線的に描かれすぎていて、エゴイスティックな欲求とコンプレックスと羨望とが混じり合う様子はあまり伝わってこない。そのために、数百頁に及ぶ冗長な描写にもかかわらず、前半における人びとの欺瞞と倦怠感と、後半で噴出するファッショな排他的暴力とがうまく折り合わず、なにやらちぐはぐな印象になってしまったのではないか。


 ・・・気づけばなんだかめたくそに書いてしまったが、それも小野不由美がそれなりにまともな小説を書く人だという認識があってこそ。わたしも十二国記は好きです。

(18.Mar.2006)






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