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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.07.27,Thu



ぱらぱらとめくってみた。

アボリジニの人々が、牧場で一人の白人が死んだ事件について、大地が白人に懲罰を与えたのだという歴史分析をおこなったとき、それを何かのメタファーとしてとらえるのを「却下する」こと。ここで言われているのは、「ああこの寓意的な語りは、彼らの社会と白人との接触の経験、植民地経験というものが、その凄惨さと引力とをもって彼らの文化の一部となっていく、その一例なんだ」とかいう、ちょっと気を許せばわたしがやってしまいそうな解釈を却下すること、だ。いやそういう解釈知もあってもいいが、「それだけじゃないですよね」ということ。「すべてはメタファーである」んではなくて、「メタファーなどない」。アボリジニの長老が、1966年にケネディ大統領が彼らの場所にやってきたと言う。長老達は訴える。「イギリスからやってきたあいつらにひどいめにあってるんだ。」ケネディは彼らに協力を申し出る。イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよと。我々歴史学者は、20C後半にもなって米国がイギリス相手に戦争したことなんかないと「知っている」。だが、「——ケネディ大統領は、本当にアボリジニに出会っていないんでしょうかね。」

わたしが取っ組み合いをしなくてはならないことが書いてある。取っ組み合いをしたうえで、たぶん五歩距離をとった別の方向から見なくてはならないようなこと。あるいは五歩の距離を保った上で別の方向に顔を向けなくてはならないようなこと。語り手自身が昨日も今日も変わらず一貫して史実とか世界観として「信じて」いるわけではない歴史。そんな歴史を語る。そこに歴史の実践がある。そういうこともあるんではないかということ。それがこの著者の見ている方向なのか、まったく逆なのか、あるいは微妙な距離でねじれの位置にあるのか、それすらもまだわからない。そもそも史実として信じるって了解するってなんなんだ。そもそもわたしが史実として了解していること、していないことってなんだ。わたしはまずそこを述べていかねばならないのだ。
あの日あの道を歩きながら知人の話を聞いていて突如として沸き起こった、そして今はもうわたしのものとして感じられない歴史は、はたしてなんなのか。たとえばそういったこと。
いずれにせよあやうい方向ではある。

「歴史の再魔術化」は、わたしが漠然と考えていたこととクロスする。クロスすることは確かだが、どこまで近いのかは、わからない。わたしのビジョンがあまりにもぼんやりした蜃気楼のようなものであって、未構築だからだ。

しっかりしろと自分に言い聞かせる。



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まめやもり - mameyamori

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