本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.05.23,Wed
Goodbye Bafana(2007)を見てきました。もう一週間以上も前ですが・・・。
それというのも、近所の映画館では週に一回学生割引で2.5ポンドの日があるからです。ポンド高のこのご時世、なにもかもが高いUKだが、映画だけはやっぱりひたすら安い。日本の割引価格の約半額だもんな・・・
1994年、27年の投獄生活の後、初の民主選挙で南アフリカ共和国大統領に選ばれた黒人解放運動指導者、ネルソン・マンデラ。そのマンデラと一人の白人看守のあいだに長い時間をかけて育まれていく関係を、アパルトヘイトをめぐって激変する社会状況を背景に描いていく歴史ドラマ。当該の白人看守ジェームズ・グレゴリー本人が記した回想録Goodbye Bafana: Nelson Mandela, My prisoner, My friend(1995)が原作のようです。監督は『ペレ』のビレ・アウグスト。
以下、いつもながらに若干のネタバレあります。念のため。
感想としては、まあまあ・・・・でしょうか。
正直言うと思ったほどではなかった。期待が高すぎたのかもしれません。
あと、こないだ見た『善き人のためのソナタ』が人間の「変化」と「不変」の複雑さをうまく描いていたせいもあるかもしれない(わたしの印象はそうです)。それに比べ、陳腐なプロットでは勿論ないんですが、人間の変化がちょっとストレートすぎるかしら、という気がしました。
アパルトヘイト万歳で、「黒人は全員白人を皆殺しにしようとしてるテロリストだ」と言い放つような白人たちが、こう、最後近くになると「マンデラってすごい」という感じになっていき、ラストには釈放されたマンデラに大喝采を送る。そうした人間の変化そのものを疑うわけでは、まったくありません。ただ、なんで変わったのかなあと。単に周囲の政治状況が変わったからという理由なら、それを皮肉に描くこともできたと思うけど、別にそういうわけでもなさそうだし。主人公の奥さんの変化がとくによくわからんかった。
そのあたり、白人看守グレゴリーとマンデラのあいだの信頼や「よくわからない連帯感」みたいなものを描出するポイントになってきそうな背景が、いまひとつ活かされていなかったという印象とも重なってくる。
たとえばグレゴリーは黒人達が用いる現地言語ズールー語が話せる稀有な白人で、そもそもそれゆえにマンデラの近くに(白人政権側のスパイとして)配置されるのですね。この特技をのちのち逆に使って、見張りをしてると見せかけて発禁もんのマンデラのプロパガンダ紙について二人で討論したりするわけですけれども、いまひとつ、映画全体にインパクトを及ぼしていなかったような気がする。言語というのはただコミュニケーションの媒体というだけではなくて、人びとの感情とか記憶とか表現とかの敏感な領域に密着していて、それがゆえに抵抗のシンボルとなっていくわけでしょう。それがこの映画では、単なる秘密の会話の媒体になってしまっていた気がします。グレゴリーが現地言語を身につけた過程というのが、表題にもなっている黒人少年「バファナ」(ズールー語で「少年」を意味するらしい)との幼き日の交流であったという背景がせっかくあるのだから、もっとこう、言語の叙情性や記憶との結びつきみたいなものを活かせなかったか、と思う。
あと、やはり幼い頃に主人公が「バファナ」と遊んだ剣技みたいなやつですね。それでマンデラと対戦するシーンがあるのは事前に写真で知ってたので(下の写真がそれ)、少年時代の回想が出てきたときには「おおおおおおこれで後にマンデラと・・・」みたいな感じで、期待が非常に盛り上がったわけです(じっさいかっこいい剣技だった)。そのわりには、対マンデラ戦はなんかあっさり終わっちゃったという印象。マンデラが「われわれが共有しているのは言語だけではないようだな」とか言うんですけども、それで終わりかい、みたいな。
こんなことを言うと、毎回毎回なんか映画を批判するたび「演出がドラマチックすぎて萎える」とか言ってるのはどうなったんだオイという話なわけですけれども、べつにドドオオオンという盛り上がりを期待しているわけではないのです。わたしにとって印象ぶかい映画というのは、一つの台詞、ひとつのしぐさ、ひとつのシーンが、その場面場面のコンテクストおよび映画全体のコンテクストのなかで、さまざまな意味合いとメッセージをともなって浮き上がってくるようなものだと思うのです。まあ、有り体な言い方ですが、短距離長距離斜め直線背後上下、さまざまな角度からの解釈に開かれているような映画、ということです。そういう多様な解釈を許す「伏線」が精巧に張られているかどうか、という言い方もできると思う。べつに推理小説的な伏線のことを言っているわけではありません、ここでは。たとえば上の「われわれの共有しているもの云々」という台詞だって、「共有しているもの」が皮肉なもの真摯なもの、些細なもの深刻なもの含めさまざまな事物をさすように演出できたんじゃないだろうかとか、そういうことです。
まあ、この映画ではそういう撮り方があんまりなかったなという気がする。だから、二人の間の感情の絡み合いの盛り上がりがなく、歴史状況が少しずつ変わっていく20余年の事実関係を、これといってどこの時期にフォーカスするでもなく、ひたすら淡々と追っていく映画になったような気がします。
もちろん、これは実在の人間の回想録を原作にした映画なのであって、「現実には伏線が必ずしも回収されるわけではないし、劇的にことが運ぶわけでもない」という意見もあるでしょう。だけども、前述した言葉とか幼年時代の剣技のことを考えても、一つ一つのふれあいにインパクトをもたせるような、そういう撮り方ができる素材はむしろ原作にも揃っていたんじゃないか?と思うのです。いや、原作を読んでないので確たる事は言えませんが。
個人に起こる内的な変化に明確なきっかけがあるという思いこみは、たしかにある種の幻想なんであって、それは自分個人の人生を思い返してみてもすぐわかることとは思う。だけども、それでもわれわれは、フィクショナルな・あるいは(狭い意味での)ノンフィクショナルな物語のなかに、そうした「きっかけ」を見いだしたいと願うのものでしょう。なぜなら変化の「きっかけ」をそこに見いだすことなくしてわれわれは「変化」それじたいを認識できないからで、つまりはその願いというのは、「人は変わりうるんだ」「社会は変わりうるんだ」と感じたい、そういう願いなのではなかろうか。
そも、物語というのは人間のなにがしかの経験を、凝縮された、寓意的な、比喩的な/修辞的な、したがって現実とは異なるかたちで見せてくれるもので、そういう意味では「現実にはありえっこない」ドラマを描いたすべての作品がそれだけで陳腐だとは言えないと、わたしは思います。完璧なスーパーリアリズムの物語というのが物語表現として不可能であることは、「客観的な歴史的事実だけを並べたクロニクル」が不可能であるのと同じレベルの話です(物語は人間の主観的な感情と結びついてはじめて物語になるのだ、たといそれが不条理の物語だとしても)。それは回想された現実の過去とて変わらない。だとすれば重要なのは、物語のフォーカスのしかたになるんだと思うのです。どういう感情に、どういう立場に、どういう変化と場面にフォーカスをするのか。そういう演出というか再構成でオリジナリティをもたせることは、実在の回想録に原作を置いていたって不可能ではないと思うんだがなあ。難しいかなあ。(難しいかもなあ ←弱気)
以上なんとなく悪い点ばかり列挙してしまいましたが、そこまで悪い映画ではないです。人によっては評価する人もいるのではないかと思います。たとえば印象的だったのは、初めてマンデラにガラス越しでない家族との面会が許される場面。それまでつねに堂々とし毅然としていたマンデラが家族の待つ部屋のドアの前に立ちつくし、まるで怯えているかのような表情で、震えながら「ミスター・グレゴリー、わたしは妻に20年触れていない」と言う台詞があって、それがキました。
(まあ、歴史上はこのあとマンデラは連れ合いさんと離婚するんですが・・・)
あとはなんだかどうでもいい感想っぽくなりますが(笑)、マンデラ(つかマンデラ役の俳優)がとてもかっこよかったです。喋り方とか、歩き方とか。
あと看守グレゴリーの奥さん役の人が非常に可愛かった。でも25年とかの年月を射程にいれながらずっと同じ俳優を使ってる無理が、この奥さんに一番顕著に出ていた(笑)あの顔で50すぎのおばさんだったら化け物です。最後まで20代後半かせいぜい30代前半に見えてました。
主人公をやっていたジョゼフ・ファインズという俳優ですが、かのレイフ・ファインズの末弟なんですね。たしかにちょっと似ている。レイフのほうが少し二枚目だろうか。このジョゼフ、『恋に落ちたシェークスピア』でシェークスピア役をやったとかで、わたしあれ新聞からもらった無料チケットで映画館で見たハズなんですが、砂粒ほども記憶に残っていません。夏目漱石やミラン・クンデラが好きなことを考えれば恋愛物語はけして嫌いではないはずだし、恋愛漫画もまったく読まないわけではないのに、どうして恋愛映画はダメなのだろう。不思議だ・・・。
・ウェブサイト「映画生活」関連ページ → ★
正直言うと思ったほどではなかった。期待が高すぎたのかもしれません。
あと、こないだ見た『善き人のためのソナタ』が人間の「変化」と「不変」の複雑さをうまく描いていたせいもあるかもしれない(わたしの印象はそうです)。それに比べ、陳腐なプロットでは勿論ないんですが、人間の変化がちょっとストレートすぎるかしら、という気がしました。
アパルトヘイト万歳で、「黒人は全員白人を皆殺しにしようとしてるテロリストだ」と言い放つような白人たちが、こう、最後近くになると「マンデラってすごい」という感じになっていき、ラストには釈放されたマンデラに大喝采を送る。そうした人間の変化そのものを疑うわけでは、まったくありません。ただ、なんで変わったのかなあと。単に周囲の政治状況が変わったからという理由なら、それを皮肉に描くこともできたと思うけど、別にそういうわけでもなさそうだし。主人公の奥さんの変化がとくによくわからんかった。
そのあたり、白人看守グレゴリーとマンデラのあいだの信頼や「よくわからない連帯感」みたいなものを描出するポイントになってきそうな背景が、いまひとつ活かされていなかったという印象とも重なってくる。
たとえばグレゴリーは黒人達が用いる現地言語ズールー語が話せる稀有な白人で、そもそもそれゆえにマンデラの近くに(白人政権側のスパイとして)配置されるのですね。この特技をのちのち逆に使って、見張りをしてると見せかけて発禁もんのマンデラのプロパガンダ紙について二人で討論したりするわけですけれども、いまひとつ、映画全体にインパクトを及ぼしていなかったような気がする。言語というのはただコミュニケーションの媒体というだけではなくて、人びとの感情とか記憶とか表現とかの敏感な領域に密着していて、それがゆえに抵抗のシンボルとなっていくわけでしょう。それがこの映画では、単なる秘密の会話の媒体になってしまっていた気がします。グレゴリーが現地言語を身につけた過程というのが、表題にもなっている黒人少年「バファナ」(ズールー語で「少年」を意味するらしい)との幼き日の交流であったという背景がせっかくあるのだから、もっとこう、言語の叙情性や記憶との結びつきみたいなものを活かせなかったか、と思う。
あと、やはり幼い頃に主人公が「バファナ」と遊んだ剣技みたいなやつですね。それでマンデラと対戦するシーンがあるのは事前に写真で知ってたので(下の写真がそれ)、少年時代の回想が出てきたときには「おおおおおおこれで後にマンデラと・・・」みたいな感じで、期待が非常に盛り上がったわけです(じっさいかっこいい剣技だった)。そのわりには、対マンデラ戦はなんかあっさり終わっちゃったという印象。マンデラが「われわれが共有しているのは言語だけではないようだな」とか言うんですけども、それで終わりかい、みたいな。
こんなことを言うと、毎回毎回なんか映画を批判するたび「演出がドラマチックすぎて萎える」とか言ってるのはどうなったんだオイという話なわけですけれども、べつにドドオオオンという盛り上がりを期待しているわけではないのです。わたしにとって印象ぶかい映画というのは、一つの台詞、ひとつのしぐさ、ひとつのシーンが、その場面場面のコンテクストおよび映画全体のコンテクストのなかで、さまざまな意味合いとメッセージをともなって浮き上がってくるようなものだと思うのです。まあ、有り体な言い方ですが、短距離長距離斜め直線背後上下、さまざまな角度からの解釈に開かれているような映画、ということです。そういう多様な解釈を許す「伏線」が精巧に張られているかどうか、という言い方もできると思う。べつに推理小説的な伏線のことを言っているわけではありません、ここでは。たとえば上の「われわれの共有しているもの云々」という台詞だって、「共有しているもの」が皮肉なもの真摯なもの、些細なもの深刻なもの含めさまざまな事物をさすように演出できたんじゃないだろうかとか、そういうことです。
まあ、この映画ではそういう撮り方があんまりなかったなという気がする。だから、二人の間の感情の絡み合いの盛り上がりがなく、歴史状況が少しずつ変わっていく20余年の事実関係を、これといってどこの時期にフォーカスするでもなく、ひたすら淡々と追っていく映画になったような気がします。
もちろん、これは実在の人間の回想録を原作にした映画なのであって、「現実には伏線が必ずしも回収されるわけではないし、劇的にことが運ぶわけでもない」という意見もあるでしょう。だけども、前述した言葉とか幼年時代の剣技のことを考えても、一つ一つのふれあいにインパクトをもたせるような、そういう撮り方ができる素材はむしろ原作にも揃っていたんじゃないか?と思うのです。いや、原作を読んでないので確たる事は言えませんが。
個人に起こる内的な変化に明確なきっかけがあるという思いこみは、たしかにある種の幻想なんであって、それは自分個人の人生を思い返してみてもすぐわかることとは思う。だけども、それでもわれわれは、フィクショナルな・あるいは(狭い意味での)ノンフィクショナルな物語のなかに、そうした「きっかけ」を見いだしたいと願うのものでしょう。なぜなら変化の「きっかけ」をそこに見いだすことなくしてわれわれは「変化」それじたいを認識できないからで、つまりはその願いというのは、「人は変わりうるんだ」「社会は変わりうるんだ」と感じたい、そういう願いなのではなかろうか。
そも、物語というのは人間のなにがしかの経験を、凝縮された、寓意的な、比喩的な/修辞的な、したがって現実とは異なるかたちで見せてくれるもので、そういう意味では「現実にはありえっこない」ドラマを描いたすべての作品がそれだけで陳腐だとは言えないと、わたしは思います。完璧なスーパーリアリズムの物語というのが物語表現として不可能であることは、「客観的な歴史的事実だけを並べたクロニクル」が不可能であるのと同じレベルの話です(物語は人間の主観的な感情と結びついてはじめて物語になるのだ、たといそれが不条理の物語だとしても)。それは回想された現実の過去とて変わらない。だとすれば重要なのは、物語のフォーカスのしかたになるんだと思うのです。どういう感情に、どういう立場に、どういう変化と場面にフォーカスをするのか。そういう演出というか再構成でオリジナリティをもたせることは、実在の回想録に原作を置いていたって不可能ではないと思うんだがなあ。難しいかなあ。(難しいかもなあ ←弱気)
以上なんとなく悪い点ばかり列挙してしまいましたが、そこまで悪い映画ではないです。人によっては評価する人もいるのではないかと思います。たとえば印象的だったのは、初めてマンデラにガラス越しでない家族との面会が許される場面。それまでつねに堂々とし毅然としていたマンデラが家族の待つ部屋のドアの前に立ちつくし、まるで怯えているかのような表情で、震えながら「ミスター・グレゴリー、わたしは妻に20年触れていない」と言う台詞があって、それがキました。
(まあ、歴史上はこのあとマンデラは連れ合いさんと離婚するんですが・・・)
あとはなんだかどうでもいい感想っぽくなりますが(笑)、マンデラ(つかマンデラ役の俳優)がとてもかっこよかったです。喋り方とか、歩き方とか。
あと看守グレゴリーの奥さん役の人が非常に可愛かった。でも25年とかの年月を射程にいれながらずっと同じ俳優を使ってる無理が、この奥さんに一番顕著に出ていた(笑)あの顔で50すぎのおばさんだったら化け物です。最後まで20代後半かせいぜい30代前半に見えてました。
主人公をやっていたジョゼフ・ファインズという俳優ですが、かのレイフ・ファインズの末弟なんですね。たしかにちょっと似ている。レイフのほうが少し二枚目だろうか。このジョゼフ、『恋に落ちたシェークスピア』でシェークスピア役をやったとかで、わたしあれ新聞からもらった無料チケットで映画館で見たハズなんですが、砂粒ほども記憶に残っていません。夏目漱石やミラン・クンデラが好きなことを考えれば恋愛物語はけして嫌いではないはずだし、恋愛漫画もまったく読まないわけではないのに、どうして恋愛映画はダメなのだろう。不思議だ・・・。
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時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
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