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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.09.11,Tue
 うわあああん




 きもちいいいいいいい






 きもちいいいいいいい







 フ! ロ!  最高!!!








 というわけで、最近、風呂桶のある環境に引っ越した。
 風呂桶に浸かるのは、実に1年ぶり近い。
 ちなみにその風呂、イギリスでよく見る「建物が古いがゆえの風呂」。すなわち、シャワー導入以前にしつらえられたまま延々と残っている風呂で、したがってシャワー無し。
 ちなみに、イギリスだけでなく欧米では大概そうなのだろうと思うが、イギリスの風呂というものは日本の風呂桶環境に慣れきった身にしてみれば不便この上ない。洗い場がないからだ。この不便さ、ユニットバスつきのワンルームアパートに暮らしたことのある人ならばよくわかるだろう。
 しかしその不便さを踏まえてなおかつ、湯に浸かる快楽というのはたとえようがないものであることを、私は1年ぶりに確認したわけだ。

 洗い場つきの風呂をもつ皆さんは、このエントリを読んだらぜひその幸せを噛みしめてほしい。仕込みに湯につかり、髪だの体だのを洗うというしちめんどくさい作業のあとに、好きなだけ茹だってフィニッシュという、このメリハリの効いた王道プロセス!この、自分がかつてそうとは知らずに享受していた幸せの、なんともたとえようのないことよ。
 (ちなみに、私は風呂を洗う作業は好きなくせに、風呂で自分の体の諸々を洗う作業が何故だかとても嫌いである。いや、洗っていますよ。臭くないよ)


 そんなわけで風呂の快楽を再発見した私は、その「風呂の楽しみ」をより充実させるべく、「風呂読書」なるものをも開始した。
 ちなみに、これ日本にいたときには滅多にやっていなかった。一度、本を買ったその日に風呂の中に落としてぐちょぐちょにして以降は、ブックオフで100円で買った季節遅れの読み捨て雑誌をたまにめくっていた程度である(ちなみに落とした本は『ハウルの動く城』)

 なお、私は現在もまだ英語小説を読むにあたって辞書がかたわらに必要な人間である。さすがに風呂に電子辞書を持ち込む気にはなれない。風呂にポチャンと落とそうものなら、風呂に入ったら染めた髪の染料が落ちちゃって二枚目たらし男としての自信を喪失したハウルどころの騒ぎではなくなるが、粗忽な私が二・三回風呂に入って大事なものを落とさずに済むとも思えない。加えて私は悔しさや悲しみを物質化させた緑色のぬるぬるを体中から出すこともできないので、やり場のない怒りが体の中に蓄積されていくばかりの結果になるのは間違いないとも予想された。したがって、読むなら辞書のいらない日本語の文章にしよう、そしてどうせなら読み損ねていた「古典」に挑戦しようというわけである。

 そんなわけで、青空文庫の出番!

 いやあ、便利な時代になったものです。いざとなればポイ捨てできる裏紙に印刷して風呂で読むなんざ作者の方々には失礼な気もするのは、事実なのですが。うう、ごめんなさい。

 で、その風呂読書で最初に選んだのが、田山花袋『蒲団』。


 二回ほど風呂に入って読み終わりました。




 感想は‥‥うーん




 うーん。
 日本における「自然主義小説」なるものの一例を、実際に通して読み、「はあ、こういうものか」と思った。そういう意味で、勉強にはなりました。

 実のところ、事前に予想していたのとは大分違った。恥ずかしいことですが、自分は日本文学についてあまり詳しくないので(西欧文学についても詳しくありませんが)、偏見やら思い違いを多く抱えているようです。『蒲団』については、実は、淡々とした筆致でかつ赤裸々に性生活を描いたエロ小説かと思っていたんだ(いやッ、それだから選んだわけではありません!言い訳のようですが、本当です!)だって、しつこいようですがヰタ・セクスアリスにだって、

そのうち自然主義ということが始まった。(中略)金井君は自然派の小説を読む度(たび)に、その作中の人物が、行住坐臥(ざが)造次顛沛(てんぱい)、何に就けても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外(はず)れて性欲に冷澹(れいたん)であるのではないか、特に frigiditas とでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った。(中略)小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない。


 って書いてあるんだもの。あ、金井君はヰタ・セクスアリスの主人公ですね。まあでもこんな文章を見れば、ふつふつと内奥で煮えたぎり、途切れることなく浮かび出でては沈むことのない性欲のようなものをよっぽど感じさせるのが自然派文学なんだなと思うじゃないか。

 この田山花袋の『蒲団』、あらゆる美化を廃して露骨なる描写でもって性を書いたものだとか言われるようだが、そうした説明を聞いて事前に思い浮かべた印象と、実際に読んで「確かにその説明の通りだ」と感じる印象との間には、大きなギャップがあるように思う。
 はてな・ダイアリーなんかの一行説明では、この小説は「女弟子が去ったあと、その蒲団をクンクンする話」とあって、これもまったくその通りだ。しかし、「露骨」なるものが何をさすのか、「性」なるものが何をさすのかに関して言えば、このラスト——若い女弟子が着古した夜着の垢の汚れに顔をおしつけ、その臭いを嗅ぎながら彼女の思い出に浸り泣きむせぶという、現代の感覚ではわかりやすく「変態的」で印象的なくだり——だけが重要なのではないと思う。むしろ重要なのは、そこまで延々ダラダラと書かれた、ある意味「ばっかじゃねえの」と思える主人公(三十路の文学者)の煩悶である。若くてピチピチしててハイカラで美人な二十歳そこそこの弟子にベタ惚れのくせに、行動を起こさない自分の弱気を、「師匠と弟子」という立場につきまとう社会倫理だかなんだかに縋って正当化し、それでいて内心、夫に従順な「旧式の女」である妻をさんざ若い弟子と比較して馬鹿にし、弟子に恋人ができれば酒を飲んで、妻に愚痴るわ、妻が作ってくれたお膳を蹴ってひっくり返すわ。あげくのはてに弟子が男とあやまちを犯したというので故郷に連れ戻されれば、引き離された運命を想い、弟子の残した蒲団に染みついた体臭を嗅いで咽び泣く。

 なお、ここで重要なのは、上のあらすじは何も私が一読者の観点から独自な解釈をしたものではない、ということだ。小説に書かれている通りの情けなさ、駄目さ、醜さ、だらしなさを、そっくりそのまま纏めただけの話である。上のような主人公のアホ加減は、素直に読んだだけでどんな読者にもダイレクトに伝わってくるはずだ。

 つまるところ、この小説が「露骨」に描き出したのは、着物の垢の臭いを嗅ぐ谷崎『痴人の愛』的な変態性癖についてではない。「男の論理」の身勝手さ、年の離れた娘への横恋慕の滑稽さ、世間体を気にしつつもドロドロと嫉妬を燃やす浅ましさ。こうした主人公の行為・態度の描写の総体こそが、この小説における「露悪主義」であり、「赤裸々に描かれた性」である。

 そう、この小説の文体は、飾りがないとか、そのままを書いているとか、美化していないとか、そういう話で済むものではない。むしろ意識的に「醜化」する形で書かれているのだ。これは、『蒲団』が作者本人の経験をもとにした作品であるということを考えると興味深い。いや、むしろこうした「醜化」は、自分自身を対象とするのでなければ意味がない行為だろう。花袋はこの小説を通じ、自己自身を露悪的・卑小に描くという行為を、その意図が読者に透けて見えるほどのあからさまな筆致で行っているのだ。
 ある意味、自意識の極致にある作品と言っていい。

 したがってこの作品はきわめて日記的だ。自分の過去の経験を愚かなものとして顧み、その愚かな自分を超越的に嘲笑う自我を、あるいは過去の愚かな自分に超越的な場所から同情する自我を、自分の中に確保する。べつだん珍しい行為ではない——過去から現在に連なる自我をたもつのに必要な行為である。異なるのは、多くの人は通常、日記というクローズドの文章のなかでそれをやるのだということだ。理性的な人間であろうとするためには自分を省みる行為は必要だが、その内省が露悪的な形態をとると、単なる自慰になる。そうして自慰というのは別にやって悪いもんでも、やって罪悪感を感じるべきもんでもないが、通常他人がいないところでやるもんである。
 それを花袋は、小説でやったのだ。その一部始終の証人を、小説読者に求めたというわけだ。

 おそらく、この小説を読んだ読者の半数以上は、主人公に対し「こいつアホか」と思うだろう。残り半分のうち三割くらいは、その惨めさ、情けなさにシンパシーを感じるかもしれない。ちなみに私は双方の感情を抱いた。そうして、これらの感想を抱くことによって、一読者としての私はまんまと花袋の罠にはまったと言っていい。花袋が時雄という主人公を——すなわちかつての自分を——自分から引きはがしつつも哀れみながら見るその視線に、知らず知らずのうちに同化させられてしまっているからだ。

 言ってみれば、いや言うまでもなく、この小説は「チラ裏」である。自己への軽蔑と憐憫を書き記した、現在における「客観的自我」をたもつための自慰の記録だ。
 結局、文学者の筆の力が常人と異なるとすれば、そうした自慰の記録をもってなお、「チラ裏乙」でスルーされるのではなく、他者が読むに値する作品として認められるということなのだろう。

 結論から言えば、私にとっては、さほど好きなタイプの小説ではない。冒頭に(いや冒頭じゃないけど)「勉強になった」と書いたのは、そのためだ。それでも、露悪趣味と自慰を他人の目に晒しうる形態で書くためには絶妙の文体の塩梅というものが必要だ。そのひとつの例を見せてもらったような気がする。




 感心とも、呆れともつかない息をぼわっと吐いて、とりあえず風呂を出る。次は誰のを読もうかなあ。
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