本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2009.09.19,Sat
半角で"AA"とぐぐると、グーグルのロゴがアスキーアートっぽくなるというのが巷をにぎわせているようなので、やってみた
ならねえじゃん!
と憤慨したあと、もしかして思って再度挑戦。
なりました
グーグルジャパン限定でこのお遊びがあるみたいですね。最初に出なかったのは、グーグルUKでぐぐったからでした。
ならねえじゃん!
と憤慨したあと、もしかして思って再度挑戦。
なりました
グーグルジャパン限定でこのお遊びがあるみたいですね。最初に出なかったのは、グーグルUKでぐぐったからでした。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2009.09.09,Wed
とある日本のネット相談コーナーの質疑応答スレッドが面白そうだったので、ニヤニヤしながら見始めたが、そのうち見ていて非常に不快な気持ちになる。
まあ内容は、「自分のつきあっている人が研究職志望なのだけれども、結婚して大丈夫ですか」みたいなものだ。不快になったのは主として、それに対する答えのなかに、やたら偉そうなものが見られたため。「こんな状況がありますよ」とかって格差社会論の本を提供したりするならまだしも、その相手の人格や将来性について断言する口調のものに、非常に苛立った。
まあそりゃ、若手の研究者の未来がないということはよくわかる。私だってそれを実感として知っている。イギリスだってひどいが、日本はさらにひどい。とくに付き合う相手とか結婚相手として見たときに、不安があるというのは十分理解するし、それについては合理的な判断をしたほうがいいと思う。未来がはっきりしないのに結婚しちゃって、かつ自分が勤めをやめてしまうなどしたら、いざというときに養えなくなって大変になるのは相手の研究者のほうだし。
ただし、あの「私は有名大学常勤研究者の妻です。だから私は内情を知っています。だから私はその人の将来性について判断できます。ちなみに私の夫は大変優秀で、将来に不安はなく、頭がよいけれど私にはやさしく、完璧です」みたいな態度をとる人、どうにかならんもんなのかいな。こういう発言を見ると、発言の自信というか発言の権威っつうか、そういうものはどこから沸いてくるんだろうと心底不思議になるな。
以前、若い医師の知り合いがこぼしていたのを思い出す。その人の親戚の開業医の奥さんが、大学でこき使われている立場の、まだ駆け出しの医師であるその人に対し、とにもかくにも見下した態度をとるんだそうだ。その人(女性)は、「医者と結婚したら医者と同じだけえらくなると思う人がいるんだよねえ」と愚痴っていた。似たような感慨を今回わたしは抱いた、といったら、たくさんの敵を作るだろうか。
断っておくけれども、医師が偉いとは思わない。研究者が偉いとも思わない。彼らは概して「お勉強がおじょうず」だっただけで、受験勉強に勝ち残る技能など、本来ならば人間に必要とされるであろう多種多様な技能のうち、ごくわずかなものでしかない―最近までこの技能だけがずいぶん特権化されてきた事情こそあるけれども。
また、いわゆる「専業主婦の問題論」みたいなのにくみするつもりもない。「専業主婦」とカテゴライズされる人たちには、その人たちなりの大変さがあり、努力があり、彼女らは、彼女らだけが獲得しえた社会的な知識と技能と経験をもっている。彼女らのはたらきがなければ、これまでの日本社会は絶対的に回ってこなかったろう。わたしはフェミニストとしては落ちこぼれだけれども、彼女らを「優雅なご身分」呼ばわりして社会集団として批判するのはばかげていると思うし、そんなことはしたくないし、できることなら社会的な共闘体勢を組んでいきたい。
それでも、わたしが敬意をもつ彼女たちの経験と技能と知識は、「わたしの夫は社会的に偉い人です。だからわたしには発言権があります」というような態度では断じてない。それは単なるミドルクラス・ハイクラス意識の丸出しにすぎない(すなわち、アッパー・ミドルとの婚姻によって、自分自身の職業・経験がどうあれ、自動的に階級のはしごを上れる=自分も社会的に「エラい」人になる、という信念だ)。そしてまた、そうした態度に見られるのは、格差社会構造の絶対的肯定でしかない。
つーかねーこういうネット相談みたいな発言の責任を問われない場においては、いつだってみんな「同性の見方をする」傾向にあるんだけど、そのとき「男が男の肩を持つ」やりかたと、「女が女の肩をもつ」やりかたには、一般的にみて興味深い差があるよな。えてして男性は「女すべての性悪説」をとる傾向にある。これは基本的に、男のための大衆言説やフィクションが、「女のいない世界」をひとつの理想としてきたこととも呼応する。ホモソーシャルなフィクション世界では、お色気サービスをおこない、場の雰囲気をやわらげる女、すなわちある種の「なぐさめとしての性的サービスを役割とする女」もよく登場したけれど、同時に「男だけのピュアなロマン主義」をまちがいなくひとつの理想世界として描いてきたのだ。この傾向のなか、現実に失恋した誰かを慰めるときなんかも、男は「女という存在は信用できない」という言説価値の上にたって、「女なんてそんなもんだよ。早くあきらめなよ」的な対応をするんじゃないかと思うんだ。
いっぽうで女性はといえば、あくまで同性の肩をもち、相手の異性を批判することについては同じなんだけど、そのときに「ちなみに私の伴侶はそういう男ではない。だからあなたの相手はダメ男。あきらめて別なのを探せ」的な態度をとりがちだと思いませんか。これは女の大衆言説やフィクションが、結局「男のいない世界」をパワフルなジャンルとして生み出しえてこなかったことと呼応しているんだと思う。そういうものを生み出そうとした人はつねにいたけれど、なぜだか多くの女性の支持をえるにはいたらなかった。そうした背景のなか、女は「男すべての性悪説」をとらない。むしろ、「世の中にはいい男と悪い男がおり、いい男を探し出すことこそが理想である」的な価値観を土台にしてものをしゃべる。女の世界には強固な対幻想が見られて、やっぱり「ベストなつがいさえ見つければ幸せになる」的な発想があると思うのだよね。その発想をおしすすめると、現社会状況内で結婚というかたちでそれを実現しようとする人にたいしては、「わたしはいい男を見つけた成功者としてアドバイスする。あんたの今の男はダメだ。これからがんばれ」的な発言になるのかね。
そんなわけで、うっぷんをこんなところに吐き出したのち、博士論文の修正作業に戻る。こんな質疑応答コーナーを見てないで、はやくやるべきことをやれ! というのが、結論。(ダメダメ)
まあ内容は、「自分のつきあっている人が研究職志望なのだけれども、結婚して大丈夫ですか」みたいなものだ。不快になったのは主として、それに対する答えのなかに、やたら偉そうなものが見られたため。「こんな状況がありますよ」とかって格差社会論の本を提供したりするならまだしも、その相手の人格や将来性について断言する口調のものに、非常に苛立った。
まあそりゃ、若手の研究者の未来がないということはよくわかる。私だってそれを実感として知っている。イギリスだってひどいが、日本はさらにひどい。とくに付き合う相手とか結婚相手として見たときに、不安があるというのは十分理解するし、それについては合理的な判断をしたほうがいいと思う。未来がはっきりしないのに結婚しちゃって、かつ自分が勤めをやめてしまうなどしたら、いざというときに養えなくなって大変になるのは相手の研究者のほうだし。
ただし、あの「私は有名大学常勤研究者の妻です。だから私は内情を知っています。だから私はその人の将来性について判断できます。ちなみに私の夫は大変優秀で、将来に不安はなく、頭がよいけれど私にはやさしく、完璧です」みたいな態度をとる人、どうにかならんもんなのかいな。こういう発言を見ると、発言の自信というか発言の権威っつうか、そういうものはどこから沸いてくるんだろうと心底不思議になるな。
以前、若い医師の知り合いがこぼしていたのを思い出す。その人の親戚の開業医の奥さんが、大学でこき使われている立場の、まだ駆け出しの医師であるその人に対し、とにもかくにも見下した態度をとるんだそうだ。その人(女性)は、「医者と結婚したら医者と同じだけえらくなると思う人がいるんだよねえ」と愚痴っていた。似たような感慨を今回わたしは抱いた、といったら、たくさんの敵を作るだろうか。
断っておくけれども、医師が偉いとは思わない。研究者が偉いとも思わない。彼らは概して「お勉強がおじょうず」だっただけで、受験勉強に勝ち残る技能など、本来ならば人間に必要とされるであろう多種多様な技能のうち、ごくわずかなものでしかない―最近までこの技能だけがずいぶん特権化されてきた事情こそあるけれども。
また、いわゆる「専業主婦の問題論」みたいなのにくみするつもりもない。「専業主婦」とカテゴライズされる人たちには、その人たちなりの大変さがあり、努力があり、彼女らは、彼女らだけが獲得しえた社会的な知識と技能と経験をもっている。彼女らのはたらきがなければ、これまでの日本社会は絶対的に回ってこなかったろう。わたしはフェミニストとしては落ちこぼれだけれども、彼女らを「優雅なご身分」呼ばわりして社会集団として批判するのはばかげていると思うし、そんなことはしたくないし、できることなら社会的な共闘体勢を組んでいきたい。
それでも、わたしが敬意をもつ彼女たちの経験と技能と知識は、「わたしの夫は社会的に偉い人です。だからわたしには発言権があります」というような態度では断じてない。それは単なるミドルクラス・ハイクラス意識の丸出しにすぎない(すなわち、アッパー・ミドルとの婚姻によって、自分自身の職業・経験がどうあれ、自動的に階級のはしごを上れる=自分も社会的に「エラい」人になる、という信念だ)。そしてまた、そうした態度に見られるのは、格差社会構造の絶対的肯定でしかない。
つーかねーこういうネット相談みたいな発言の責任を問われない場においては、いつだってみんな「同性の見方をする」傾向にあるんだけど、そのとき「男が男の肩を持つ」やりかたと、「女が女の肩をもつ」やりかたには、一般的にみて興味深い差があるよな。えてして男性は「女すべての性悪説」をとる傾向にある。これは基本的に、男のための大衆言説やフィクションが、「女のいない世界」をひとつの理想としてきたこととも呼応する。ホモソーシャルなフィクション世界では、お色気サービスをおこない、場の雰囲気をやわらげる女、すなわちある種の「なぐさめとしての性的サービスを役割とする女」もよく登場したけれど、同時に「男だけのピュアなロマン主義」をまちがいなくひとつの理想世界として描いてきたのだ。この傾向のなか、現実に失恋した誰かを慰めるときなんかも、男は「女という存在は信用できない」という言説価値の上にたって、「女なんてそんなもんだよ。早くあきらめなよ」的な対応をするんじゃないかと思うんだ。
いっぽうで女性はといえば、あくまで同性の肩をもち、相手の異性を批判することについては同じなんだけど、そのときに「ちなみに私の伴侶はそういう男ではない。だからあなたの相手はダメ男。あきらめて別なのを探せ」的な態度をとりがちだと思いませんか。これは女の大衆言説やフィクションが、結局「男のいない世界」をパワフルなジャンルとして生み出しえてこなかったことと呼応しているんだと思う。そういうものを生み出そうとした人はつねにいたけれど、なぜだか多くの女性の支持をえるにはいたらなかった。そうした背景のなか、女は「男すべての性悪説」をとらない。むしろ、「世の中にはいい男と悪い男がおり、いい男を探し出すことこそが理想である」的な価値観を土台にしてものをしゃべる。女の世界には強固な対幻想が見られて、やっぱり「ベストなつがいさえ見つければ幸せになる」的な発想があると思うのだよね。その発想をおしすすめると、現社会状況内で結婚というかたちでそれを実現しようとする人にたいしては、「わたしはいい男を見つけた成功者としてアドバイスする。あんたの今の男はダメだ。これからがんばれ」的な発言になるのかね。
そんなわけで、うっぷんをこんなところに吐き出したのち、博士論文の修正作業に戻る。こんな質疑応答コーナーを見てないで、はやくやるべきことをやれ! というのが、結論。(ダメダメ)
Posted by まめやもり - mameyamori - 2009.08.02,Sun
はてなの人気記事にあった
「女の体で笑うということ」
わたしは普段ブログまわりということをほぼしないので、人気ブログもまったく知らないのだけれど、これはfont-daさんという人のブログらしい。けっこうおもしろかったので、これを読んで思ったことなど。
女は女であるがゆえに、喜劇役者として絶対に演じられないものがあるというのは、わたしも昔から思ってきたことだった。ある種のぶっ飛んだ「おかしさ」のなかには、男性にしか許されていないものがある。それは、歴史的に作られてきた「女であること」の社会定義と、そのある種の「おかしさ」の性質が、根本的に矛盾するからである。「女」の存在を感じさせるものがその笑いの中に少しでも混じると、「おかしさ」の質が変化してしまうのだ。
もちろん、女が女であるがゆえに演じることのできる「おかしさ」だって、もちろんある。だが演じられる「笑い」の領域が、絶対的に、男と女ではズレている(重なってもいるが)。
で、この点とは関係ないんだけど、もうひとつ興味深かったのが、ココナッツと能動性・受動性のくだり。長くなるけれども、わたしが連想的に思いついたことも含めて、書き出してみよう。
こう書いて、font-daさんが引用しているのはヲタケンさんの以下の文。
このヲタケンさんの文、ぱっと見は、「女は悪魔だ!男を性の快楽の罪に誘惑する悪魔の手先だ!」とかいう西洋中世キリスト教な価値観とほぼおんなしというか(いやよく知らんけど)、歴史のなかで無数にくりかえされてきたレトリックであって、さして取り上げる必要もないように見える。だけども、この部分に対してfont-daさんが以下のように書いていて、わたしはちょっとおもしろいなと思ったのだ。
たしかに、引用文が「受動的な被害者の男」という立ち居地で書かれているのは、興味深い。なぜなら能動性をもたない「犠牲者」「被害者」として自分を描き出すことは、一種のリスクをともなうからだ。端的に言うと、「自分で行動する能力がない」という批判を引き出しかねない。そしてこれは、これまで支配的だった価値観からしてみれば、女よりも男にとって、より避けたい批判だったはずである。マスキュリニティと能動性、フェミニティと受動性は、歴史的に見ても結びつきの強い組み合わせだからだ。だとすれば、自分のマスキュリニティを危険にさらしてさえ、こうした「被害者としての男」という自己表象の戦略をとるのはどうしてなのか、という疑問が起こる。
結論から言えば、わたしはこのココナツのたとえ話に、「性が自分の(男の)ものでなくなることの自覚と恐怖」を感じ取ったのだ。直感的な印象として、そう感じた。んで、なんでだろうと考えてみた。
よく考えてみると、性と能動性と男女の問題は、きわめて複雑にできあがっている。伝統的な価値観においては、「性的なもの」とは「女」のことだった。女という「存在論的に性と結びついた存在」が現れることによって、「性の問題」が男の世界に現出するのである。男という概念は男として単独で存在しえるが、女という概念は男との関係性のなかでしか存在しえない。乱暴に言い換えると、主人公は主人公として物語の中で単一で存在しうるが、「主人公の想い人」は、主人公がいなければ存在しえない。これと同じ理屈である。
口をすっぱくしていっておくが、ここでわたしが述べているのは個人としての男とか女ではない。個人としての女が物語の主人公になれるとか、なれないとか、そういうことでは全くない。歴史的に、男という概念、女という概念が、上のような構造にあった。それを言っているにすぎない。
んでもって、さして詳しく知っているわけでもないんだけれど、中世ヨーロッパのキリスト教の世界でも、性の問題は「女の誘惑」(厳密に言えば、子どもなどの「男になりきっていない者」による誘惑も含む)としてとらえられてきた、はずだ。女の誘惑に負けて性におぼれることは罪であり、女はその罪をそそのかす悪魔だった。そう書くと、上のたとえ話のなかの、ワガママを言って男同士のハーモニーを崩し、トラブルを起こす「ココナッツ」とおんなじもののように見える。だが、ここで気をつけておきたいのは、女の言葉にしたがって性のトラブルを起こすのは、まず男にとって、「自己をもたない情けなさ」であり、「堕落」であり、悪魔の手に落ちることだった。ようは、それは男の弱さであって、正々堂々といばって言えるようなことではなかったのだ。
このココナッツの話は、何千年もの歴史のなかで何度も言われてきたこととまったく同じレトリックを繰り返しているように見える。だが、実のところ大きなちがいがある。上に述べた西洋中世キリスト教社会では、女に欲情して射精しちまったからと言って、「おれは被害者だ!」なんぞと女にクレームをつけることは、できなかっただろう。せいぜい「おれはなんて弱い人間なんだ」と自虐的になるだけである。
なぜなら、女や性的な誘惑は「悪魔的なもの」であって、彼らが悪なのは当然であったからだ。それは変えることができないし、悪魔にむかって「おまえはひどいやつだ。加害者だ。責任をとれ」と言ってみたところで、無意味きわまりない。だとすれば、罪を負い、責任を負うべきは、「自我をもつはずの人間」である、当の男本人にほかならない。だから、「私は誘惑に負けて射精した」という声明は、罪の告白にはなっても、被害者としての異議申し立てにはなりえなかったのだ。
では、ココナッツの話に見られる現象とはなんなのか。なぜ、この人はあえて「受動的な被害者」として男を描き出そうとし、それが異議申し立てとして成り立つのか? それは端的に、女が「わけのわからん悪魔」あるいは「あっさり悪魔の手先になる、よくわからん弱いもの」ではなくなって、男と同じように罪を負い、責任を負うべき「人間」になったからである。ある意味では、女は人間として、男と同じ地平に立ったのだ。それによって、はじめて「女という集団」が「男という集団」に対する加害者として糾弾されうるようになったのである。
ただし、自分が被害を受けたと認識し主張することは、自分の力の弱さを認識し、暴露することでもある。ものごとを自分の意思のとおりに進められない、他人の意思のもとに置かれなければならないという、立場上の弱さを暴露することだ。だからこそ、わたしはココナツの話に恐怖の響きを感じとる。
たとえば西洋中世的な悪魔と性の価値観であれば、人間にとっての性の問題は、あくまで男のものだろう。女は性や誘惑と不可分に結びついた存在ではあるけれども、性的な関係をもつかどうか最終的に決めるのは、男であり、男の意志力である。ここで女は自分自身の「意思」をもたないから(悪魔の言いなりになっているにすぎない)、男が他人の「意思」によって無理やり射精させられることは、ない。だが、被害者・加害者の関係が成立する地平上に立つということは、男が女の意思によって、無理やり性的関係をもたされかねない位相に立つということである。性の決定権が、奪われるということだ。
ココナッツの話の「男=性の被害者」論に、漠然とした焦燥を感じるのは、こうした理由からなのではないか。女に「誘い受け」されることによって、男の意思ではなく女の意思によって(性的な)ものごとが進められることへの恐れ。
ひるがえって考えてみよう。女向けジャンル(小説・映画・漫画)は「女の主体性」への憧れを描きながら、同時に「でも攻めは男であってほしい」というズルい(かつヌルい)願望も再生産しつづけてきた。それによって生まれたのが「誘い受けする女」という表象であり、役割であり、キャラである。そういう意味では、ココナッツの話に見え隠れする恐怖からもうひとつ見えてくるものは、伝統的な女ジャンルの願望が現在の社会において(トラブルや恐怖をともないながら)成就されつつあるという兆しなのかもしれない。ウヘェ。
まあ、ヲタケンという人が言っている「ねぇほらあたしをみてもっとほめてもちあげてちやほやして」ていう丸見えの願望がうざいとか、特殊技能もないのに乳房とまんこついてるというだけの理由で(一時だけだろうが)人気をもってく同業者にはイライラするとかいう感情は、理解できないでもないんだけど。
「女の体で笑うということ」
わたしは普段ブログまわりということをほぼしないので、人気ブログもまったく知らないのだけれど、これはfont-daさんという人のブログらしい。けっこうおもしろかったので、これを読んで思ったことなど。
女は女であるがゆえに、喜劇役者として絶対に演じられないものがあるというのは、わたしも昔から思ってきたことだった。ある種のぶっ飛んだ「おかしさ」のなかには、男性にしか許されていないものがある。それは、歴史的に作られてきた「女であること」の社会定義と、そのある種の「おかしさ」の性質が、根本的に矛盾するからである。「女」の存在を感じさせるものがその笑いの中に少しでも混じると、「おかしさ」の質が変化してしまうのだ。
もちろん、女が女であるがゆえに演じることのできる「おかしさ」だって、もちろんある。だが演じられる「笑い」の領域が、絶対的に、男と女ではズレている(重なってもいるが)。
で、この点とは関係ないんだけど、もうひとつ興味深かったのが、ココナッツと能動性・受動性のくだり。長くなるけれども、わたしが連想的に思いついたことも含めて、書き出してみよう。
ネット上で、懐かしいような文章を書いている人がいた。ヲタケンさんといい、ニコニコ動画で活動している人らしい。全裸になって、笑いをとり、人気を集めている。彼は、ニコニコ動画の生放送で、女性が性的なポーズをとって注目を集めていることに対し、次のように書く。
こう書いて、font-daさんが引用しているのはヲタケンさんの以下の文。
そういった点において女性の身体という武器をつかって視聴者を勝ち取るやり方は卑怯ではあり、糾弾くらいはできようが締め出すことはできないと思う。なぜならニコニコ動画はもはやDMMチャンネルとの連携が示すように性的要素を併せ持つ動画サイトになったからだ。オレがどんなに裸で笑いを引き出そうとしても、見た目のいいオンナが裸になればいくらでも精液が引き出せる。運営サイドにとって笑いと精液とどちらがカネになるかといえば厳密にいえば精液だと思うが、ガキのザーメンと一緒に金は流れてこない。だからニコニコ動画はエロコンテンツをいくらつけようとも儲からない。オレはそう思う。あと匿名で意思表示ができるコメントがある限り2ちゃんねるの呪縛からは逃れられない。これを乗り越えて一般層の支持を得るにはどうすればいいのか。オレは自分の事業でこれを打破することを考える。
別にフェミニズムを敵に回すわけでもないし、オレは女は大好きだが、いつだって争いを起こす原因は女からだ。女が何の気なしにとった行動ひとつで世界が揺れたことも歴史が変わったこともある。オスにとってメスは宝物だ。大事な宝物をめぐってオスは争う。それだけなら理屈はこんなにも簡単なのに、厄介なことにそのメスというのは自我をもってやがる。自らの意思をもち、そして行動する。それが周りのオスを狂わせる。無人島に仲良いオスが2人漂着したとしよう。持ち物は2人合わせてココナッツ1つ。分け合っておいしくたべようと思いきやそのココナッツがオトコAに「あたしAにしか食べられたくないの」とかのたまいやがる。Bは面白くないけど仕方が無いから魚を取りに行く。また別のとき、共同で家を作ろうとする。するとココナッツがまたクチを開く。「ねぇ、アタシの殻をむいて!もっと殻むいて! Bと家を作るよりアタシの手入れをして!」こうしてAとBの仲に亀裂が入る。大事なもの2つに挟まれて擦り減る神経、そんな状態おかまいなしにと迫る現実。言動の端をつまみとって本来10ある事実のうち3しか見ずに他人の領域に踏み込むずうずうしさ。黙して嵐が過ぎるのを待つべし。どうせそのうち晴れる。件の嵐ももう去りかけだ。人の噂も見事75日。
ニコニコ生放送も女が性という武器を振りかざして乱入してからずいぶんと様変わりした。出会い系になったとかのスレもたった。ガキがちちくりあって子作りしてガイアとアゲハになるのは勝手にやってればいい。文化の衰退、人間関係の崩壊に女の存在は欠かせない。そう思いながら明日はDreamy Delirium当日。今回は脱がないことにするよ!あぁ会社帰りだから着替えが無いんだとかそういう裏話はどうでもいい。打ち上げはうまいビールが飲みたい。ザンギがあればもっといい。
引用もとはこちら
このヲタケンさんの文、ぱっと見は、「女は悪魔だ!男を性の快楽の罪に誘惑する悪魔の手先だ!」とかいう西洋中世キリスト教な価値観とほぼおんなしというか(いやよく知らんけど)、歴史のなかで無数にくりかえされてきたレトリックであって、さして取り上げる必要もないように見える。だけども、この部分に対してfont-daさんが以下のように書いていて、わたしはちょっとおもしろいなと思ったのだ。
ここにある「精液を引き出す」という表現は、何を指すのだろうか。フェミニズム的にいえば、女性の身体を見て欲情し、自慰により精液を噴出させるのは、男性自身の主体的行為である。しかし、彼はそれを「精液を引き出す」という女性の能動態で書く。このとき射精は、女性の積極的な働きにより、(なかば無理やりに)導き出されているのだ。男性は、女性に欲情するのではなく、欲情させられる。この被害者としての位置取りが、文章全体のトーンを作っている。
たしかに、引用文が「受動的な被害者の男」という立ち居地で書かれているのは、興味深い。なぜなら能動性をもたない「犠牲者」「被害者」として自分を描き出すことは、一種のリスクをともなうからだ。端的に言うと、「自分で行動する能力がない」という批判を引き出しかねない。そしてこれは、これまで支配的だった価値観からしてみれば、女よりも男にとって、より避けたい批判だったはずである。マスキュリニティと能動性、フェミニティと受動性は、歴史的に見ても結びつきの強い組み合わせだからだ。だとすれば、自分のマスキュリニティを危険にさらしてさえ、こうした「被害者としての男」という自己表象の戦略をとるのはどうしてなのか、という疑問が起こる。
結論から言えば、わたしはこのココナツのたとえ話に、「性が自分の(男の)ものでなくなることの自覚と恐怖」を感じ取ったのだ。直感的な印象として、そう感じた。んで、なんでだろうと考えてみた。
よく考えてみると、性と能動性と男女の問題は、きわめて複雑にできあがっている。伝統的な価値観においては、「性的なもの」とは「女」のことだった。女という「存在論的に性と結びついた存在」が現れることによって、「性の問題」が男の世界に現出するのである。男という概念は男として単独で存在しえるが、女という概念は男との関係性のなかでしか存在しえない。乱暴に言い換えると、主人公は主人公として物語の中で単一で存在しうるが、「主人公の想い人」は、主人公がいなければ存在しえない。これと同じ理屈である。
口をすっぱくしていっておくが、ここでわたしが述べているのは個人としての男とか女ではない。個人としての女が物語の主人公になれるとか、なれないとか、そういうことでは全くない。歴史的に、男という概念、女という概念が、上のような構造にあった。それを言っているにすぎない。
んでもって、さして詳しく知っているわけでもないんだけれど、中世ヨーロッパのキリスト教の世界でも、性の問題は「女の誘惑」(厳密に言えば、子どもなどの「男になりきっていない者」による誘惑も含む)としてとらえられてきた、はずだ。女の誘惑に負けて性におぼれることは罪であり、女はその罪をそそのかす悪魔だった。そう書くと、上のたとえ話のなかの、ワガママを言って男同士のハーモニーを崩し、トラブルを起こす「ココナッツ」とおんなじもののように見える。だが、ここで気をつけておきたいのは、女の言葉にしたがって性のトラブルを起こすのは、まず男にとって、「自己をもたない情けなさ」であり、「堕落」であり、悪魔の手に落ちることだった。ようは、それは男の弱さであって、正々堂々といばって言えるようなことではなかったのだ。
このココナッツの話は、何千年もの歴史のなかで何度も言われてきたこととまったく同じレトリックを繰り返しているように見える。だが、実のところ大きなちがいがある。上に述べた西洋中世キリスト教社会では、女に欲情して射精しちまったからと言って、「おれは被害者だ!」なんぞと女にクレームをつけることは、できなかっただろう。せいぜい「おれはなんて弱い人間なんだ」と自虐的になるだけである。
なぜなら、女や性的な誘惑は「悪魔的なもの」であって、彼らが悪なのは当然であったからだ。それは変えることができないし、悪魔にむかって「おまえはひどいやつだ。加害者だ。責任をとれ」と言ってみたところで、無意味きわまりない。だとすれば、罪を負い、責任を負うべきは、「自我をもつはずの人間」である、当の男本人にほかならない。だから、「私は誘惑に負けて射精した」という声明は、罪の告白にはなっても、被害者としての異議申し立てにはなりえなかったのだ。
では、ココナッツの話に見られる現象とはなんなのか。なぜ、この人はあえて「受動的な被害者」として男を描き出そうとし、それが異議申し立てとして成り立つのか? それは端的に、女が「わけのわからん悪魔」あるいは「あっさり悪魔の手先になる、よくわからん弱いもの」ではなくなって、男と同じように罪を負い、責任を負うべき「人間」になったからである。ある意味では、女は人間として、男と同じ地平に立ったのだ。それによって、はじめて「女という集団」が「男という集団」に対する加害者として糾弾されうるようになったのである。
ただし、自分が被害を受けたと認識し主張することは、自分の力の弱さを認識し、暴露することでもある。ものごとを自分の意思のとおりに進められない、他人の意思のもとに置かれなければならないという、立場上の弱さを暴露することだ。だからこそ、わたしはココナツの話に恐怖の響きを感じとる。
たとえば西洋中世的な悪魔と性の価値観であれば、人間にとっての性の問題は、あくまで男のものだろう。女は性や誘惑と不可分に結びついた存在ではあるけれども、性的な関係をもつかどうか最終的に決めるのは、男であり、男の意志力である。ここで女は自分自身の「意思」をもたないから(悪魔の言いなりになっているにすぎない)、男が他人の「意思」によって無理やり射精させられることは、ない。だが、被害者・加害者の関係が成立する地平上に立つということは、男が女の意思によって、無理やり性的関係をもたされかねない位相に立つということである。性の決定権が、奪われるということだ。
ココナッツの話の「男=性の被害者」論に、漠然とした焦燥を感じるのは、こうした理由からなのではないか。女に「誘い受け」されることによって、男の意思ではなく女の意思によって(性的な)ものごとが進められることへの恐れ。
ひるがえって考えてみよう。女向けジャンル(小説・映画・漫画)は「女の主体性」への憧れを描きながら、同時に「でも攻めは男であってほしい」というズルい(かつヌルい)願望も再生産しつづけてきた。それによって生まれたのが「誘い受けする女」という表象であり、役割であり、キャラである。そういう意味では、ココナッツの話に見え隠れする恐怖からもうひとつ見えてくるものは、伝統的な女ジャンルの願望が現在の社会において(トラブルや恐怖をともないながら)成就されつつあるという兆しなのかもしれない。ウヘェ。
まあ、ヲタケンという人が言っている「ねぇほらあたしをみてもっとほめてもちあげてちやほやして」ていう丸見えの願望がうざいとか、特殊技能もないのに乳房とまんこついてるというだけの理由で(一時だけだろうが)人気をもってく同業者にはイライラするとかいう感情は、理解できないでもないんだけど。
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