本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.04.23,Wed
諸星大二郎の作品にしばしば共通して描かれるテーマ、あるいはビジョンのようなものに、「あの向こうの世界をひとめ見てみたい」というものがある。
主人公は外界から隔離された小さな世界のなかに住んでおり、伝承や、彼の世界を時折訪れる旅人の語りによって、その世界のさらに「向こう」が存在することをおぼろげながら知っている。ときには深い崖の向こうに、ときには切り立った山を越えた先に。ときには長く深い迷路を抜けたその先に。
小さな世界の中で彼は質素ながらも不便ない生活を送っているのだが、その伝え聞く「世界のあちら側」に焦がれてやまない。ある日、彼は決心し——あるいはまったくの偶然から——その「向こう」にいたる旅に足を踏み出すことになる。つらく困難で、ときには取り戻せない犠牲を払った旅の最後に、とうとう彼は「向こう」にたどり着く。数すくない例外作品を除き、崖を超えた先にはるかに広がるのは、ただ荒涼とした無が一面に支配する情景だ。
諸星が題材を変えつつくりかえしこのテーマを描き続けるのは、ときとして閉塞感とともにある「外を知りたい」という欲望が、人間精神の奥深くに根ざす経験であるからにほかならない。諸星のすぐれたところは、上記にも記したように、その「向こう」にめったに輝かしい世界を置かないところだろう。困難な旅の過程において人は行き着く先にあるものを知らず、「外」を知るためだけに多くの取り戻せない代償を払う。その旅程の果てに人が知るものは、「外」に広がっていた虚無であり、自分がかつて暮らしていた世界の、二度と手にし得ない豊かさであり、同時に、その旅程と生の経験そのものの大いなる皮肉である。そこに描かれているのは、「知らない」と「知る」のあいだに走る存在論的な亀裂であり、あるいは「知らなかったということを知る」という経験の重みである。神話にたいする諸星のゆたかな造詣によってか、描かれる世界はSF的な要素で形作られながらもすぐれて神秘的、寓話的であり、深みのある物語を構築している。
連作短編集『私家版魚類図譜』においても、そのテーマはそこここに見られている。冒頭の短編「深海人魚姫」はそのひとつ。超深海の海底でひっそりと暮らす人魚の一族の若い娘が、海の上の世界にあこがれ、ひとり水面をめざして泳ぎだす、という物語である。チューブワームの森や、海底にたゆたう「湖」(塩濃度の差のために周囲の海水から分かれている水たまり)、マグマに暖められて吹き出す熱水でカニを焼く(ゆでる?)場面など、常人には想像しがたい深海という世界を、生き生きと(かつユーモアたっぷりに)描き出しているさまは、さすがSF作家というところ。
深海という場所には沈黙のイメージがつきまとう。諸星版人魚姫は海にもぐってきた潜水艦の窓からかいま見えた男の顔に恋をするのだが、その出会いの場面を包む「無音」の感触が印象的だ。諸星作品には概して闇と影が濃いが——画面としても、物語の印象としても、である——そこに無音が加わることで、またいっそうの深みが生まれている。そうだ、深海は宇宙に似ているっていうもんな。
奇跡で締められるこの冒頭作品は、「その向こう」にある虚無を描く諸星作品の中では例外かと思いきや、続編となる最後の作品で、その奇跡はかりそめのもの(あるいは奇跡でありながら幸福を生み出しえなかったもの)であったことが語られる。人魚姫と彼女が恋した男がイルカとなって波間に消えていく最後は、ふたりの願いが叶えられるハッピーエンドとも見えるが、宮沢賢治の「よだかの星」と同様、死という結末のひとつの描き方であったとも見なせよう。それでも、そのような優しい描き方が選ばれたという意味で、他の虚無的な作品(当作品集で言えば「鮫人」、『私家版鳥類図譜』では「塔に飛ぶ鳥」など)よりはポジティブな物語といえる。
この短編集のなかでわたしが一番好きな作品は「魚が来た!」なんだけど、そのレビューは次回まわし。いや絶対書くもんね! ついでに、「外の世界」へのあこがれという一貫したテーマの中で、だが見いだされるかすかな変化のようなものについても、書きたいと思います。
主人公は外界から隔離された小さな世界のなかに住んでおり、伝承や、彼の世界を時折訪れる旅人の語りによって、その世界のさらに「向こう」が存在することをおぼろげながら知っている。ときには深い崖の向こうに、ときには切り立った山を越えた先に。ときには長く深い迷路を抜けたその先に。
小さな世界の中で彼は質素ながらも不便ない生活を送っているのだが、その伝え聞く「世界のあちら側」に焦がれてやまない。ある日、彼は決心し——あるいはまったくの偶然から——その「向こう」にいたる旅に足を踏み出すことになる。つらく困難で、ときには取り戻せない犠牲を払った旅の最後に、とうとう彼は「向こう」にたどり着く。数すくない例外作品を除き、崖を超えた先にはるかに広がるのは、ただ荒涼とした無が一面に支配する情景だ。
諸星が題材を変えつつくりかえしこのテーマを描き続けるのは、ときとして閉塞感とともにある「外を知りたい」という欲望が、人間精神の奥深くに根ざす経験であるからにほかならない。諸星のすぐれたところは、上記にも記したように、その「向こう」にめったに輝かしい世界を置かないところだろう。困難な旅の過程において人は行き着く先にあるものを知らず、「外」を知るためだけに多くの取り戻せない代償を払う。その旅程の果てに人が知るものは、「外」に広がっていた虚無であり、自分がかつて暮らしていた世界の、二度と手にし得ない豊かさであり、同時に、その旅程と生の経験そのものの大いなる皮肉である。そこに描かれているのは、「知らない」と「知る」のあいだに走る存在論的な亀裂であり、あるいは「知らなかったということを知る」という経験の重みである。神話にたいする諸星のゆたかな造詣によってか、描かれる世界はSF的な要素で形作られながらもすぐれて神秘的、寓話的であり、深みのある物語を構築している。
連作短編集『私家版魚類図譜』においても、そのテーマはそこここに見られている。冒頭の短編「深海人魚姫」はそのひとつ。超深海の海底でひっそりと暮らす人魚の一族の若い娘が、海の上の世界にあこがれ、ひとり水面をめざして泳ぎだす、という物語である。チューブワームの森や、海底にたゆたう「湖」(塩濃度の差のために周囲の海水から分かれている水たまり)、マグマに暖められて吹き出す熱水でカニを焼く(ゆでる?)場面など、常人には想像しがたい深海という世界を、生き生きと(かつユーモアたっぷりに)描き出しているさまは、さすがSF作家というところ。
深海という場所には沈黙のイメージがつきまとう。諸星版人魚姫は海にもぐってきた潜水艦の窓からかいま見えた男の顔に恋をするのだが、その出会いの場面を包む「無音」の感触が印象的だ。諸星作品には概して闇と影が濃いが——画面としても、物語の印象としても、である——そこに無音が加わることで、またいっそうの深みが生まれている。そうだ、深海は宇宙に似ているっていうもんな。
奇跡で締められるこの冒頭作品は、「その向こう」にある虚無を描く諸星作品の中では例外かと思いきや、続編となる最後の作品で、その奇跡はかりそめのもの(あるいは奇跡でありながら幸福を生み出しえなかったもの)であったことが語られる。人魚姫と彼女が恋した男がイルカとなって波間に消えていく最後は、ふたりの願いが叶えられるハッピーエンドとも見えるが、宮沢賢治の「よだかの星」と同様、死という結末のひとつの描き方であったとも見なせよう。それでも、そのような優しい描き方が選ばれたという意味で、他の虚無的な作品(当作品集で言えば「鮫人」、『私家版鳥類図譜』では「塔に飛ぶ鳥」など)よりはポジティブな物語といえる。
この短編集のなかでわたしが一番好きな作品は「魚が来た!」なんだけど、そのレビューは次回まわし。いや絶対書くもんね! ついでに、「外の世界」へのあこがれという一貫したテーマの中で、だが見いだされるかすかな変化のようなものについても、書きたいと思います。
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怠け者のちいさなやもりですが色々ぶつぶつ言うのは好きなようです。
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
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