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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.05.05,Mon



ふたたび諸星さん。またまたネタバレあるよ。つーかわたしのレビューはネタバレなしには書けないんだ。作品評価って正直に書こうとするとどうしてもそうならないか。いやサービス精神というか人の役に立つ物を書こうという努力がなさすぎるよという話?






 前回のエントリで、諸星大二郎に見られる「あの向こうをひとめ見たい」という欲望について記した。多くの場合、そうした作品はSF・ファンタジー・古代など、「どことも知れない世界」のなかに閉じられた小さな生活空間を設定し、そこで生まれ育った主人公に「あの向こう」を見る旅を辿らせるというものだ。そこにおいては読者もまた主人公と同じように「あの向こう」を知らない。切り立った崖の先に、長い洞窟を抜けた先に、どのような光景が広がっているのかを知らない。読者であるわたしたちは主人公と同様に、与えられた限られた情報の中で来るべき光景を夢想し、作者がしだいに開示していく謎にそのつど目を奪われ、旅路の終わりに目の前に広大に開けた「新しい世界」の前に声なく立ち尽くす。
 『私家版鳥類図譜』『私家版魚類図譜』にもこうした作品は顔を出している。記憶喪失の青年が世界の外の虚空にわけもなくひかれ、そこに飛ぶもの言わぬ蛮族の鳥少女に恋するなかでしだいに世界の外の記憶を取り戻していく「塔に飛ぶ鳥」は、やや改変が加えられているとはいえ、このカテゴリーに入れることができるだろう。この主人公もまた世界の外を知らない——忘れているために。自分が誰であるかを知らないことに思い悩んだ末に彼が思い出すのは、自分は世界を受け入れることができない人間であること、世界の中では生きられないこと。同時に、世界の外の虚空という、自分が生きることのできる唯一の場所に「意味」はないということである。

 こうした物語の舞台は、しかし『鳥類図譜』『魚類図譜』のいくつかの作品にあっては、寓話的に創られたどこかの異世界から、この現実の——あるいは現実の延長線上にある——世界へとシフトしていく。「鳥を売る人」「深海人魚姫」「魚が来た!」「深海に還る」がそれである。これらの作品に共通するものは、読者であるわれわれが、主人公が追い求める「向こう」を知っているということだ。追い求めるものを・その果てを知らない主人公たちが、「知らない」がゆえに歩きまどう道筋を、われわれは「知っている」立場から見守る。たとえば「鳥を売る人」における舞台は現在の文明が荒廃した未来都市における地中のコミュニティ。登場人物たちが知る世界は自分たちの村と、どこまでも続く入り組んだ機械迷宮のみ。彼らはその機械迷宮の外も知らず、土も空も風も日の光も知らない。多くの「自然な」生物は失われてしまい、人々は「鳥」というものが何であるのかも知らない。その翼がなんのためについているのかも。
 前エントリで取り上げた「深海人魚姫」もそうだ。われわれは彼女が暮らす深海の生活世界を知らないが、彼女が憧れてやまない「水上の世界」はいやというほど知っている。ひょっとして、その水上の世界がそれほどまでの憧れには値しないかもしれないことも、みなわれわれは知っているのだ。
 
 基本的なプロットになんら影響を与えない些細な点であるように見えて、実はこの違いは大きい。作者の作り上げた異世界を舞台にした作品にあって、わたしたちは「学び」「知る」プロセスを主人公とともに経験する。だけれども今述べたような作品群にあっては、わたしたちは彼らを外部から見下ろすだけだ。あたかも、閉ざされた箱の中で悩み惑うこびとをその箱の口からのぞき見るかのごとく。

 断るべくもないが、これは酷薄な視線だ。諸星は彼らの「知らなさ」をユーモラスに愛すべきものとして描いているが、皮一枚のところでこの視線は単なる「上から目線」に転化する。このどうあっても傲慢でしかありえない視点から、「上から目線」をよくも克服した物語を描き上げたなあ、とわたしが思った作品が「魚が来た!」なのである。

 「魚が来た!」は先に述べた「鳥を売る人」の続編で、その舞台は地下深い機械迷宮。主人公の少年はある日奇妙なものを見つけ、持って帰って物知りのお兄さんに見せる。お兄さんが「それ」を水の中に入れると、「それ」はしっぽを動かして泳ぎだす。どうやらこれは「魚」と呼ばれるもの、いや正しくは「魚」と呼ばれる生き物のロボットらしい。ロボット魚をつかって見よう見まねの「釣り」で遊んでいた少年たちは、うっかり逃がしてしまった魚を追って、地下迷宮を辿っていく。その先に行きついた「海」で少年たちが見たものは……。
 こんなあらすじの短編である。
 
 わたしがこの作品を見事だと思ったのは、最後の最後で波を蹴ってページいっぱいに躍り出た巨大魚が、本物の魚ではなかったことだ。「魚」を追い求めて迷宮を迷い歩く少年たちが最後に目にするものに、作者はロボットの魚を置いたのである。
 少年たちは「魚を見た」という満足に胸をいっぱいにして、また機械迷宮に閉ざされた小さな町へと帰っていく。彼らに向かって、わたしたちはいとも簡単に言うことができる——「だがそれは本当の魚ではない」と。本当の魚がなんであるのかを、われわれは「知っている」からだ。その生臭さ、鱗の感触、水に濡れた目玉、その肉の味をわれわれは知っているからで、それはけしてロボット魚がもちえないものなのである。
 だけれども少年たちが見たのは本当に、本当の魚ではなかったのか? 鱗がねじで止められ、目玉が金属で出来ていて、生の筋肉のしなやかさをもたないガタガタしたあの巨大魚は、本当に魚ではなかったのだろうか?

 わたしがここで言っているのは、ポストモダンな言説にちょっとかぶれた感じで語られる、「現実と虚構のあいだに区別などない」「想い描いたものはすべて現実である」という、あの浅薄な物言いのようなことではない。さも頭がよさそうなふりをして語られるあの物言いは、そのじつ、人が思考停止するのを正当化する怠惰な議論にすぎない。(ポストモダーン臭のただよう議論がしばしば毛嫌いされるのは、それがあまりにも安易にすべての思考を停止しているように見えるからじゃないかと思う。)
 これが怠惰で頭の悪い議論であるのは、その物言いの背後に何も無いからだ。ただお決まりの台詞をどこにでも通用するかのように述べ立てているだけだから、底が浅い。だけれども、「にせもの」が「本物」になり、虚構が現実になるためには——あるいは現実が現実でありつづけるためには——その背後に「何か」が必要だ。「魚が来た」という作品は、その「何か」を描きえた作品なのだとわたしは思う。主人公が自分が見知った世界の「外」にあるものを学び、自分の身体をもってそれを追い求め、そして出会うという経験と物語こそが、この作品においてはその「何か」だった。
 
 そこからひるがえってわたしたちが知ることがひとつある。「あの向こうにある世界」を見るために人が辿る旅路の先に知るものは、そのはてにある虚構や虚空や現実だけではない。それと密接に結びついているけれども、それだけではないものだ。こうした問いでよく返されるのは、わたしたちが知るのは「自分」なのだという答えだ。だが、その答えはあまりにも漠然としすぎている。だからわたしはこう言いたい。その道程のはてにわたしたちが初めて知るのは、自分がいかなる旅路を辿ってきたのかであり、その旅路から虚空に生み落とされたひとつの意味なのである、と。





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