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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.04.16,Mon
 ヴィクトリア朝後期の1888年、ロンドンの下町イースト・エンドにおいて、10週間のあいだに5人の女性が次々と殺される事件が起こった。遺体はいずれも喉を真一文字に裂かれており、犠牲者の一部は身体の一部を切りとられ、また最後の犠牲者はもとの体の原型をとどめないまでに無惨にバラバラにされた状態で見つかった。

 その間、警察や新聞会社には連続殺人犯を名乗る数多くの手紙が送りつけられたが、多くはイタズラと思われるそのなかに、警察しか知らないはずの情報を記したものがあった:
 「次の仕事じゃご婦人の耳を切りとって警官様に送りつけてやるよ、ちょっとしたお楽しみにな、え?」
 その手紙の消印の翌日に発見された遺体は、確かに片耳を切りとられていたのである。警察はがぜんその手紙に注目しはじめた。赤いインクで記されたその手紙にはこう署名されていた——「Jack the Ripper」



 最終的には迷宮入りし、真実が闇の中となったこの「切り裂きジャック」事件は、その謎めいた結末のためもあってか世界でもっとも有名な連続殺人事件のひとつとなっており、数多くの小説や映画やドラマがこの事件を題材として取り上げてきたようである(ちなみに英語版Wikipediaの"Jack the Ripper fiction"という項目で、この事件をフィーチャーしたフィクション作品のリストが見られる。いっぱいあるねー・・・)。今をときめく男優ジョニー・デップが主演した『フロム・ヘル』 (2001)もこの事件を脚色したストーリーである。あれはジョニー・デップがカッコヨカッタのと、下町女性のドレスが揺れるデコルテと黒いレースで色っぽかったほかは大して見るべくもない映画であったが、とりあえずそれは余談である。

 なおさらに余談となるが、映画From Hellの原作はアラン・ムーアとエディ・キャンベルによるグラフィック・ノベル(コミック)である。ちなみにアラン・ムーアはThe League of the Extraordinary Gentlemen、すなわちショーン・コネリーが出た同名映画・邦題『リーグ・オブ・レジェンド』(2003年)の原作者でもある。)


 また今日のイギリスでは、「切り裂きジャック」という語はメディア等で頻繁に比喩やジョークとして使用されてもいる。もしかしたら読者の方々も、昨年12月にイングランドのサフォークで起こった連続殺人事件のさい、メディアが「現代の切り裂きジャック」という言葉を頻用したのを覚えているかもしれない。両事件ともに性サービス業にかかわる女性たち、いわゆる「売春婦prostitutes」が犠牲者となっていたことが、その理由でもあった。




 さて、今回のエントリでわざわざこんなものを取り上げるのは、ほかでもない。日曜日の昼近くにようやく目をこすりながら起きてBBCラジオをつけたらば、"The Things We Forgot to Remember"という番組がやっていて、それがこの切り裂きジャックを扱っていて、さらにはそれがむやみに興味深い番組だったせいである。

 ここからReal Playerで聞けます。30分の番組。

 このさして長くもない番組が狙っていたのは、切り裂きジャック事件をガイダンスすることではない。さらに、「もしもこの番組を切り裂きジャックが誰だったのかをめぐる新シリーズだと思われているならば、申し訳ないがあなたをがっかりさせることになる」——番組の冒頭ではそう語られてもいる。この番組がとりあげたのは、むしろ切り裂きジャック事件に人々が熱狂し震撼し恐怖した、その背後にいかなる社会構造と経済構造と歴史のダイナミズムがあったのか、そのなかで社会にいかなる「感情」が満ち満ちていたのかという関心である。その顔も、姿も、実在の真偽すら知らないまま、誰もがセンセーショナルに言及しつづけた「切り裂きジャック」。その「人物」ないしその影が、当該時代をいかなるものとして示しているのか——それは何のメタファーなのか——、すなわちそういう関心である。


 ある歴史的事件について、その「真相」をあらたに語り直すのではなく、関連する人物、場所、その他の要素の表象が交錯するひとつの言説として事件をとらえ、それらの背後にある社会経験との総体の中に、「時代」を見ようとする——。これがけして単純な試み、単純な物の見方でないことはすぐにわかるだろう。もちろん歴史を語り直すという意味では同じなのだが、「語るための素材」と「語ろうとするもの」の関係が前者と後者ではずいぶん違う。
 もちろん、この後者だって、歴史学あるいは一部の文芸批評のなかではここ20年くらいで見慣れた手法となったように言われている。だが、そうは言ってもまっとうな研究として実践できる研究者はそれほど多くない。ましてや、広く一般に受け入れられている歴史観でもないだろう。それが日曜のお昼1時からお茶の間むけに放送される歴史番組の手法であったということに、わたしは少し驚いたのだった。
 

 だが、そうした素材と対象が云々とかいう議論は置いておくとしても、なお、番組はいろいろな意味で興味深く聞けると思う。以下に概要を示してみるが・・・

 まず論じられるのは、現在「切り裂きジャック」として周知のところとなっている事件のほかにも、1880年代当時のロンドンの新聞は、似たような残虐事件、猟奇事件、性犯罪の報道に溢れていたということである。そうした報道からは、当時の社会全体に満ちていた得体の知れない恐怖がうかがえるのであり、「切り裂きジャック」はそれを端的に象徴する格好のキャラクターだった。だが、「彼」が象徴していたもうひとつの側面がある——「こんな野蛮人の恐ろしい蛮行が、この【大英】帝国の中心で起こるなんて」と、あるリスペクタブルな(中産以上の階級の)女性が新聞紙上で語るとき、その「野蛮人」と「蛮行」は、切り裂きジャック本人を指し示すと同時に、漠然と「それ以外の何か」あるいは「それが象徴する集団・空気」を示していたかも知れない、というのである。

 前もって言ってしまえば、この番組のねらいは、漠然と恐怖されたその何かを、「起こったかも知れない革命」と結びつけることにある。その語るところによれば、折しもフランス革命からちょうど100年が経過しており、当時のイギリスでは社会革命の必要性を説く動きが力を増してきていた、という。当然ながらその地盤には、産業革命の本格的な進展と同時に進んだおそるべき貧富の格差が存在した。また1880年にはひどい不況があり、失業率は跳ね上がっていた。そうして切り裂きジャック事件が起こったイースト・エンドのホワイトチャペル地区は、ロンドンでも最も貧しい地域のひとつ、すなわち社会格差のひずみがもっとも可視的に感じ取られる地域だったというのである。

 実のところ切り裂きジャック事件に先立っては、こうした格差にあらがういくつもの行動やデモが起きていた。フェビアン協会の社会主義者らが行ったデモがトラファルガー・スクエアにて警官隊とひどく衝突した事件は、こうした社会の動きをよく知らしめるものだが、この「血の日曜日」は1887年、すなわち切り裂きジャック事件のたった1年前に起こったものである。またラディカル・モブ(過激派の群衆)がいたるところで形成され、動いていた——1886年2月には、バッキンガム宮殿からたった数ヤード離れた場所で、群衆が高級クラブを襲撃するという事件が起こっている。——「もちろん現代に生きる我々は、革命が現実には起こらなかったことを知っている。だが革命の空気が、たしかにそこにはあったのだ」

 そんななかで起きた「切り裂きジャック事件」は、まず第一に、バーナード・ショウやウィリアム・モリスといった社会主義者らによっては、「このまま社会の腐敗が続けばどうなるか」という危機のイメージとして言及された、という。さらに中産階級以上の人間にとっては、逆に、政治的熱狂のなかで自分たちに刃向かう下層群衆に対する恐怖を象徴してもいたのだという。
 切り裂きジャック事件でしばしば言及されることのひとつは、事件を捜査する警察の無能である。そうして、実のところホワイトチャペル地区は、もっとも治安の悪い地域として、そうしてラディカル・モブの巣窟として、警官隊と住民とがしばしば衝突を起こす地域でもあった。「警官」は、イースト・エンダーズにとっては圧政の、そして上流階級の人間にとってはモブを抑えられない無能な行政の、二重の表象だったと番組は主張する。

 (以下は有名な風刺週刊誌である『パンチ』に掲載された風刺絵。目隠しをされ、おろおろしている中央のが警官である。背後に「殺人MURDER」という張り紙が見える。また、周囲の下層民がひどく怪物的な姿で描かれているのにも気づかれることと思う)
「無能な警官」
Punch, 22 Sep 1888, from
Wikipedia



 「切り裂きジャック」は一方では、社会格差拡張への警鐘を鳴らすものであり、経済的・社会的ヒエアルキーの最下層に押し込められた人々の辛苦を象徴するものでもあった。他方で一部の人々にとっては、無政府革命あるいは労働者革命を起こし階級的秩序をひっくりかえそうとする人々の、あるいは自分たちをただひたすらに攻撃してくる、血に飢えた、おそるべき「野蛮人=貧民労働者」の象徴でもあった。貧困の絶望と恐怖と、社会を変えようとする光と熱気と、恨みと、そうした動きへの他方からの恐怖がゴチャゴチャに入り交じるなか、センセーショナルな「切り裂きジャック」の像が、事件自体のお蔵入りのかたわらで繰り返し繰り返し語られたというのである。

 「社会的抵抗というものは、その経験をともにせず、その環境と文脈を知らない人間にとっては、時として理解するのが困難なものである。1880年代という時代を振り返るとき、ひとつの人物像がくっきりと我々の記憶に残っている——70日間の恐怖を社会に与えた一人の人物をわれわれは思い出す。だがその一方で、その影に滞留していた何十年にも及ぶ人々の苦しみと、暴動、革命の恐怖、そうしたものは忘れ去られてしまった」(部分訳)


 以上、番組の概要である(長くなりすぎた・汗)。しかし、ここまで辛抱強くも呼んでくださった方々が、この番組の立場がエキサイティングなものだと思ってくれればいいと願う(汗)。というかこの番組、オリジナルになる本とか論文とかあるのかもしれないなあ。てか、本来ならすでに抑えとかなければならない有名なものだったりするかも(汗)


 まあ批判点を記すとすれば、30分の番組なので、そこまでしっかりとトピックが描きこまれていたわけではない、ということか。この番組しか聞いていない聴衆の一人としては、よくも悪くも「面白そうなアイディア/見方の提示」にすぎないなあ、と思わざるをえない部分もある。

 たとえば、当時の社会が貧困の絶望と革命への熱狂、それゆえの階級間の恐怖と憎しみに満ちていたというのは確かなのだろう。だが、そうした政治的主体の形成と、「切り裂きジャック」という固有の事件とのあいだに緊密な関係があるかどうかは、また別の話である。むしろ、当時のイギリス社会におけるゴシック文学、恐怖文学、犯罪文学のはやりを思えば、「切り裂きジャック」への熱狂はそういう文脈でより理解できるものであろう。
 (レ・ファニュ『カーミラ』1872年、スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏』1886年、最初のホームズ物「緋色の研究」1887年、ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』1891年、ストーカー『ドラキュラ』1897年など)。
 そういうオカルチックな興味関心そのものが、どれだけ社会的ラディカリズムと結びついているのかという点に関して言えば、その結びつきを説得的に論じた研究があるとは聞いたことがない。ウィリアム・モリスや『タイムマシン』のウェルズなどはたしかに社会主義思想を濃厚に有しているが、彼らのファンタジーやSFと、娯楽オカルトの間には、いまだ論じわけるべき一線があるように思える。

 しかしながら、上記のゴシックやオカルトのなかで「異国的・性的・野蛮」として恐怖の対象ともなった(あこがれの対象であり美の象徴でもあるのだが)帝国支配下の「異人」の表象が、どのようにしてロンドンの下町の貧民すなわち「内なる野蛮人」の表象へと逆投影されたのか、という点に関しては、いろいろと面白い視点がありそうな気がする。レ・ファニュ、ワイルド、ストーカーはいずれもアイルランド出身であるし、ホームズ以前のドイルの異界冒険譚や、『闇の奥』のコンラッドとの親交についても興味深いものがあるが、彼らが書いたような犯罪もの・オカルトものはもっぱらあきらかな「異人」を登場させる。そういう意味で、「内なる野蛮人」の姿を赤裸々にあぶりだす「切り裂きジャック」事件は、それら「外なる異人」との共通性や差異の点において、なお注目すべきところがあるのかもしれない。


 最後に——。この番組を通じてやはりわたしがもっとも驚いたのは、しつこいが「こういう番組が休日の昼間のお茶の間ラジオで教養番組として流れるんだ」ということであった。しかしそれは、先に述べたような手法うんぬんの話だけではない。単純に、「センセーショナルな事件の背後に、貧困層の苦しみがあり、革命の萌芽があった。それらは今となっては忘れ去られている」というメッセージがそこで流れることに驚いたのだ。階級構造と資本制に対する批判と、政治的・社会的な抵抗の熱意を忘れまいとする姿勢が、そのメッセージにおいて明確だからである。センセーショナリズムと、現前として存在する階級格差と、各地で起こる政治行動と。これらはすべてUKの現在的な現象でもある。あるいは、少なくとも現在的な現象になりうる。
 むろん、番組の中に現在社会への言及があったわけではない(もともと、過去と現在との安易な同一視は避けるべきものだ)。だが、たとえば格差社会化が急速に進む現在の日本の政治・経済状況において、似たような番組が流れうるだろうか? NHKがこのようなものを作るだろうか? 昨今大阪において、野宿労働者に対する行政の仕打ちがどんどんひどくなっていくのを見るに、そうしてNHKと政府の癒着を見るに、とてもそうは思えないのだ。
 またもう一点、興味深いことがあるとすれば、この番組はマスメディアによる残虐事件の報道を、「事件をありのままに報道しているかどうか」というレベルではなく、そこで用いられるひとつひとつの言葉、ひとつひとつのイメージが、社会の不安を反映すると同時に煽るものと見なしていたこと。端的にいえば、ひどく自己言及的な姿勢なのだ(笑)。こういう姿勢は、報道が追う責任と機能について自覚的でなければ出てこない。それでいてあのBBCの普段の扇情的な報道はなんなんだ、という気がしないでもないが・・・

 BBCの報道姿勢はそれじたい色々と批判すべきところはあるとは思うけれども、こうした番組を耳にすると、やはり度量の広い報道機関だなあと、しばしば感じざるをえない。

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