本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.11.04,Sat
ようやっと書いたシャーロット・ランプリング主演のHeading Southのレビュー。日本公開されるのかわからないけれど、ランプリング好きにはかなり来る映画ではないかと思います。
わたしはこの映画でスゲーと思った口ですが。
「北の先進国」と「南の途上国」とのあいだの経済力の権力関係と、セックスの権力関係とがディスガスティングな形で交錯した地点に、セックス・ツアーという現象がある。以前は日本のサラリーマンの団体さんが群れを成して東南アジアなんかに買春ツアーに出かける話なんかも話題になっていた。最近話も聞かなくなったし、その実態がどうだったかも良く知らないのだが、現在でもきっと色々な形で同様の行為が行われているのだろうと思う。もうずいぶんと前、自分の過去の不良っぽい行為を暴露する独特の恥じらいみたいのを漂わせながら、夏にタイに行ってまたひとつ大人になっちゃいました★みたいなことを、自慢げに言ってた男がいたのを思い出す。そのときわたしがぼんやり思ったのは、円の威光をふりかざしてチープな値段で女を買ったということを男が勲章にできる摩訶不思議な社会文化の中に自分は生きてんだなということだった。
では、安い金でセックス・サービスつきのバカンスを楽しむために「南」の国に出かける——その現象において、男女の立場が転倒したらどうなるのか。
映画館のフライヤーでこの映画のことを知ったとき、わたしは瞬時に見にいこうと決めた。「先進国」の男が「途上国」に女を買いに行くという現象は、あまりにブレのない権力構図であるだけに、「南北関係」とか人種や性にまつわる規範がそこでどういうふうに組み合わさっているのか、その複雑な仕組みがなかなか見えにくい。だがそれらの要素の一つを転倒させてみることで、なにか新しいものが見えるのではないかと思われたのである。
結果から言えばこの手法は、いくつもの要素のうちとりわけ転倒された要素の規範について、その内奥をあらわにするものだと言える。端的に言えばこの映画の場合、買う性と買われる性を転倒させ、「買わざるを得ない女たち」、すなわち女でないのに女であろうとする女たちを描くことで、何が、いかなる存在が、社会においては女と見なされているのかを逆照射的にあぶりだすことになったのである。
そう、この映画が描いたのは、(女を買う男が時にそうでありうるように)天真爛漫に屈託なく、あるいは好奇心から性的サービスを買う女たちではない。結局のところ、「男」と「女」というふたつの表象は、たやすくひっくり返りえない非対称な関係にあるのだ。通常の買う性と買われる性とが転倒するとき、「なぜ女が買わなくてはならないのか」という問いがつねにつきまとってきてしまうのである。
そうした問いを支えているのは、まずひとつに、普通の女は(男と違って)金で買わねばならないほど逼迫した性欲を抱えていないという神話なのだが、それだけではない。「買う女」のイメージとして強くあるものとは、「金を出さねば女として相手にされない、愛されない」女なのだ。そしてその「相手にしてもらえない」理由、性的魅力を失った要因として、この映画をふくめ多くの表象が描いてきたのが「老い」である。考えてみて欲しい、「買う女」を描いた作品で、はちきれるほどプリプリしていて若く美しい女をそこにもってきた事例がどれほどあるのだろうか?わたしの知識がはなはだ限られていることを断ったうえでだが、少なくともわたしはあんまり知らない。女むけの漫画でさえ、『PINK』の義母も、魚喃キリコの短編に出てきた「60ババア」も、買春しているのはみな男に相手にされない色ボケババアだったのだ。
そんなことはない、中年の超色っぽい女を描いた作品だってあるじゃないか——とおっしゃるかもしれない。勿論である。だがここで問題なのは、「年を取ってなお色っぽい」女がいるいないの問題ではない。「買う女」はそこからすら脱落した存在とされている、ということである。男が気軽な遊びとして女を買いうる(とされている)のとは非対称に、女が男を買うとき、それはさもなくば愛されない女であるからこその必死な行為である——多くの表象が語っているのはそういうことである。
結局、男を買いに行く女の典型的な姿として想起されるものとは、敗北の烙印が押された女なのだ。年老い、性的魅力を失ったにもかかわらず、まだはしたなくも性的欲望を捨てられない、見苦しい、だが同時に哀れな存在としての烙印。
Vers Le Sud (英名Heading South)に描かれているのは、そうした烙印をそっくりそのまま引き受けてしまった女たちである。あるいは、そうした烙印を自分に押しつける社会を冷笑しながらも、それに真の意味では抵抗しえなかった女たちである。
舞台は1970年代、ハイチ。合州国とカナダに住む裕福な、そしてもう若くはない三人の女たち、エレン、ブレンダ、スー。彼女らはビーチで現地人の男を買って一夏を楽しもうとするのだが、魅力的な現地人の男性・レグバをはさんで、エレンとブレンダは次第に対立していく。そんな彼女らのうかがい知れないところで、レグバは現地の政治抗争に巻き込まれつつあった・・・というのがあらすじ。映画は彼女らとレグバの関係性や、レグバの現地社会での生活を追いつつ、主要な登場人物の心情の独白を時にはさみながら展開されていく。
レグバを取り合う二人の女性、エレンとブレンダとはかなり対照的な存在として描かれている。まずシャーロット・ランプリング演じるエレン。米国のボストンで、英国のアクセントを話しながらフランス文学を教える中年のこの女性に漂う空気は知性、切り立った自尊心、そしてシニシズムである。彼女は自分が性的魅力を「失っている」ことを熟知しており、その上で、皮肉に満ちた冷笑を浮かべながら言う。——「わたしは恋愛とセックスに夢中なスキモノよ」
こう言い放つことで、彼女は年老いた女に社会から向けられる無言の圧力、すなわち「おまえはすでに女=性的存在ではない」という、知性の欠落した視線を軽蔑する。だがはからずも、この彼女本人がその圧力をこれ以上なく内面化していたことは、その後目を覆いたくなるほど惨めなかたちで露わにされることになる。
対するブレンダは、エレンよりも大分若い。彼女はレグバとの関係がロマンチックな愛情関係であると少女のように思いこんでおり、金を使って人間を買う行為の権力性にも、自分がその「人間買い」を南北の(そして結果的に人種間の)権力差に乗っかって行っていることにも無自覚である。白人専用のレストランにレグバを連れ込み、現地人であるホテルの支配人から彼を退去させるように言われ、彼女は憤慨して叫ぶ——「信じられない!なんてレイシストなの!」レイシストという言葉がもっとも空疎に響く、このシーンにブレンダという人間の人となりは端的に集約されている。
映画に向けられている賛否両論の点は、「買われる立場」であるレグバの主観や心情が、ほとんど描かれない点であるようだ。女たち3人とホテルの支配人は、要所要所において、彼女ら・彼自身の声で心情や背景を語る。だが主要な登場人物の中で、レグバの声だけが存在しない。この点に関しては、だがわたしはむしろ評価したい。中年の白人女と金のために遊び、それを楽しみもし、だが彼女らをあくまで軽蔑し、家族や地元の人間関係の中に重きを置き、だが地元の社会のきな臭さにおびえる彼の世界——その複層性は、独白という形態で示されるべきものでも示されうるものでもなかったろう。この映画の主題からしても、女たちを翻弄しながらも最後まで消費し尽くされた彼の「内面」は、知り得ないものとして空洞のまま残されておかねばならなかったものである。
そのレグバの主観が一瞬だけ映画の視線に重なるのが、作品中程のエレンが取り乱すシーンである。彼女の冷ややかで落ち着いた笑みとウィットと毒の効いた皮肉は、作品全体を通じて際だっていたために、このシーンにおける彼女の表情と台詞は見ていて苦しい。それは彼女の孤独をこれ以上なく見せつける。自分と一緒にいさえすればあなたは助かる——彼女はレグバにそう言う。彼女自身は心底から、自分が彼を愛しており、彼のためを思っていると信じている。だが、彼女が彼の腕をつかんで取りすがるこのとき、観客は一瞬だけ、彼女をレグバの視線で見る——あるいは見た、と了解するのだ。——彼女の言葉は、けっして一人の個人に対する真摯なものには見えない。自分の持つ金とそれに付随する社会的な力で、その両者を持たぬ男を必死につなぎ止めようとする醜いふるまいにしか見えない。「愛されぬ」「年老いた女」として、白い肌と黒い肌という可視的なかたちでその場に横たわる「欧米」と「南世界」との力関係に、とりすがることしかできない女。その醜さと惨めさを作りだしたものに、観客はここでおぞましさを感じ取る。——それをおそらく監督も、ランプリングも、十全に知っている。
注記しておくが、この視線の一瞬の転換にはなんのあきらかなサインも用いられていない。ただランプリングの演技と、レグバのすぐ後ろに引いた距離からそのランプリングを見すえるカメラがあるだけだ。にもかかわらず、性の、貧富の、南北の権力関係が幾重にも絡み合うさまを、一人の言動の「歪み」を通じてここまで描いた場面を、わたしは知らない。
おそらくエレンにとっての唯一の、そして強固な鎧であった「知性」は、映画を通じて無惨に剥ぎ取られる。彼女はそれを自らかなぐり捨てるほど必死だったのだ。彼女は呆然として、弱々しく微笑み、そしてふたたび日常へと帰っていく。その財力と権力を彼女にもたらしつづけてきたその社会に、最初から最後までレグバとの関係のすべてだった、そしてそれでもなお彼にとってなんの助けにもならなかったその権力をもたらす世界に、依然として帰って行くのだ。
この姿は、もう一人のブレンダが、それまで生きてきた世界と決別するラストシーンをもって、対照的に浮き彫りにされる。合州国で裕福に生まれ育った白人という枠を携えたままであれど、何とも知れぬ未知の場所へと足を踏み入れていくブレンダとは逆に、破壊的な経験は、エレナを変えず——強いて言うならただ弱々しい存在にしただけだった。おそらくこのラストが、この映画の最大の残酷さであるのかもしれない。
この映画で描かれているのは、「男を買わざるを得ない女」であるという劣等感に喉元まで浸かりきり、それでいて——あるいはそのために——自分と恋人の置かれたグロテスクな権力関係を、ついに見通せなかった女たちの物語だ。貨幣価値の差からくる権力関係、ある国の国籍を持つ・持たないで生じる権力関係、そしてそれらの関係に重なるかたちで日々再構築されている白人-黒人の権力関係を、いずれも問いえなかった女たちの物語なのである。レグバをとりあった二人はともに、彼を取り巻くハイチ社会の緊迫した政治状況もなにも知らず、またその緊迫した危機から隔絶された楽園=白人観光客用のビーチに最初から最後までいつづけた。
彼女たちの設定と描かれ方を見るかぎり、この映画はけっしてなにかラディカルな表現を打ち出したものではない。「年を取った女の惨めな性」という決まりきった表象を再構築しただけの映画ではないかと批判することもできてしまう。それでもわたしがこの映画を評価するのは、結局のところ、その姿を、その惨めさを、しっかりと丁寧に描ききるのは容易なことではないからである。
この映画を見てわれわれは確かに思うはずである。彼女らをそんなにも愚かしく、醜くしているものとはなんなのかと。そして、なぜ彼女らがそこまで惨めにならねばならないのかと。そうしてわれわれは、上記の政治的・経済的な南北の権力関係がインモラルであるよりもまずもって、人と人との関係をあまりにも醜いものにする「胸くそ悪い」代物であることに、また、社会で当然のごとく受け入れられている「女」という概念の、そのあまりにいびつな構造に、苦々しい怒りと寒気をおぼえるのではないだろうか。
では、安い金でセックス・サービスつきのバカンスを楽しむために「南」の国に出かける——その現象において、男女の立場が転倒したらどうなるのか。
映画館のフライヤーでこの映画のことを知ったとき、わたしは瞬時に見にいこうと決めた。「先進国」の男が「途上国」に女を買いに行くという現象は、あまりにブレのない権力構図であるだけに、「南北関係」とか人種や性にまつわる規範がそこでどういうふうに組み合わさっているのか、その複雑な仕組みがなかなか見えにくい。だがそれらの要素の一つを転倒させてみることで、なにか新しいものが見えるのではないかと思われたのである。
結果から言えばこの手法は、いくつもの要素のうちとりわけ転倒された要素の規範について、その内奥をあらわにするものだと言える。端的に言えばこの映画の場合、買う性と買われる性を転倒させ、「買わざるを得ない女たち」、すなわち女でないのに女であろうとする女たちを描くことで、何が、いかなる存在が、社会においては女と見なされているのかを逆照射的にあぶりだすことになったのである。
そう、この映画が描いたのは、(女を買う男が時にそうでありうるように)天真爛漫に屈託なく、あるいは好奇心から性的サービスを買う女たちではない。結局のところ、「男」と「女」というふたつの表象は、たやすくひっくり返りえない非対称な関係にあるのだ。通常の買う性と買われる性とが転倒するとき、「なぜ女が買わなくてはならないのか」という問いがつねにつきまとってきてしまうのである。
そうした問いを支えているのは、まずひとつに、普通の女は(男と違って)金で買わねばならないほど逼迫した性欲を抱えていないという神話なのだが、それだけではない。「買う女」のイメージとして強くあるものとは、「金を出さねば女として相手にされない、愛されない」女なのだ。そしてその「相手にしてもらえない」理由、性的魅力を失った要因として、この映画をふくめ多くの表象が描いてきたのが「老い」である。考えてみて欲しい、「買う女」を描いた作品で、はちきれるほどプリプリしていて若く美しい女をそこにもってきた事例がどれほどあるのだろうか?わたしの知識がはなはだ限られていることを断ったうえでだが、少なくともわたしはあんまり知らない。女むけの漫画でさえ、『PINK』の義母も、魚喃キリコの短編に出てきた「60ババア」も、買春しているのはみな男に相手にされない色ボケババアだったのだ。
そんなことはない、中年の超色っぽい女を描いた作品だってあるじゃないか——とおっしゃるかもしれない。勿論である。だがここで問題なのは、「年を取ってなお色っぽい」女がいるいないの問題ではない。「買う女」はそこからすら脱落した存在とされている、ということである。男が気軽な遊びとして女を買いうる(とされている)のとは非対称に、女が男を買うとき、それはさもなくば愛されない女であるからこその必死な行為である——多くの表象が語っているのはそういうことである。
結局、男を買いに行く女の典型的な姿として想起されるものとは、敗北の烙印が押された女なのだ。年老い、性的魅力を失ったにもかかわらず、まだはしたなくも性的欲望を捨てられない、見苦しい、だが同時に哀れな存在としての烙印。
Vers Le Sud (英名Heading South)に描かれているのは、そうした烙印をそっくりそのまま引き受けてしまった女たちである。あるいは、そうした烙印を自分に押しつける社会を冷笑しながらも、それに真の意味では抵抗しえなかった女たちである。
舞台は1970年代、ハイチ。合州国とカナダに住む裕福な、そしてもう若くはない三人の女たち、エレン、ブレンダ、スー。彼女らはビーチで現地人の男を買って一夏を楽しもうとするのだが、魅力的な現地人の男性・レグバをはさんで、エレンとブレンダは次第に対立していく。そんな彼女らのうかがい知れないところで、レグバは現地の政治抗争に巻き込まれつつあった・・・というのがあらすじ。映画は彼女らとレグバの関係性や、レグバの現地社会での生活を追いつつ、主要な登場人物の心情の独白を時にはさみながら展開されていく。
レグバを取り合う二人の女性、エレンとブレンダとはかなり対照的な存在として描かれている。まずシャーロット・ランプリング演じるエレン。米国のボストンで、英国のアクセントを話しながらフランス文学を教える中年のこの女性に漂う空気は知性、切り立った自尊心、そしてシニシズムである。彼女は自分が性的魅力を「失っている」ことを熟知しており、その上で、皮肉に満ちた冷笑を浮かべながら言う。——「わたしは恋愛とセックスに夢中なスキモノよ」
こう言い放つことで、彼女は年老いた女に社会から向けられる無言の圧力、すなわち「おまえはすでに女=性的存在ではない」という、知性の欠落した視線を軽蔑する。だがはからずも、この彼女本人がその圧力をこれ以上なく内面化していたことは、その後目を覆いたくなるほど惨めなかたちで露わにされることになる。
対するブレンダは、エレンよりも大分若い。彼女はレグバとの関係がロマンチックな愛情関係であると少女のように思いこんでおり、金を使って人間を買う行為の権力性にも、自分がその「人間買い」を南北の(そして結果的に人種間の)権力差に乗っかって行っていることにも無自覚である。白人専用のレストランにレグバを連れ込み、現地人であるホテルの支配人から彼を退去させるように言われ、彼女は憤慨して叫ぶ——「信じられない!なんてレイシストなの!」レイシストという言葉がもっとも空疎に響く、このシーンにブレンダという人間の人となりは端的に集約されている。
映画に向けられている賛否両論の点は、「買われる立場」であるレグバの主観や心情が、ほとんど描かれない点であるようだ。女たち3人とホテルの支配人は、要所要所において、彼女ら・彼自身の声で心情や背景を語る。だが主要な登場人物の中で、レグバの声だけが存在しない。この点に関しては、だがわたしはむしろ評価したい。中年の白人女と金のために遊び、それを楽しみもし、だが彼女らをあくまで軽蔑し、家族や地元の人間関係の中に重きを置き、だが地元の社会のきな臭さにおびえる彼の世界——その複層性は、独白という形態で示されるべきものでも示されうるものでもなかったろう。この映画の主題からしても、女たちを翻弄しながらも最後まで消費し尽くされた彼の「内面」は、知り得ないものとして空洞のまま残されておかねばならなかったものである。
そのレグバの主観が一瞬だけ映画の視線に重なるのが、作品中程のエレンが取り乱すシーンである。彼女の冷ややかで落ち着いた笑みとウィットと毒の効いた皮肉は、作品全体を通じて際だっていたために、このシーンにおける彼女の表情と台詞は見ていて苦しい。それは彼女の孤独をこれ以上なく見せつける。自分と一緒にいさえすればあなたは助かる——彼女はレグバにそう言う。彼女自身は心底から、自分が彼を愛しており、彼のためを思っていると信じている。だが、彼女が彼の腕をつかんで取りすがるこのとき、観客は一瞬だけ、彼女をレグバの視線で見る——あるいは見た、と了解するのだ。——彼女の言葉は、けっして一人の個人に対する真摯なものには見えない。自分の持つ金とそれに付随する社会的な力で、その両者を持たぬ男を必死につなぎ止めようとする醜いふるまいにしか見えない。「愛されぬ」「年老いた女」として、白い肌と黒い肌という可視的なかたちでその場に横たわる「欧米」と「南世界」との力関係に、とりすがることしかできない女。その醜さと惨めさを作りだしたものに、観客はここでおぞましさを感じ取る。——それをおそらく監督も、ランプリングも、十全に知っている。
注記しておくが、この視線の一瞬の転換にはなんのあきらかなサインも用いられていない。ただランプリングの演技と、レグバのすぐ後ろに引いた距離からそのランプリングを見すえるカメラがあるだけだ。にもかかわらず、性の、貧富の、南北の権力関係が幾重にも絡み合うさまを、一人の言動の「歪み」を通じてここまで描いた場面を、わたしは知らない。
おそらくエレンにとっての唯一の、そして強固な鎧であった「知性」は、映画を通じて無惨に剥ぎ取られる。彼女はそれを自らかなぐり捨てるほど必死だったのだ。彼女は呆然として、弱々しく微笑み、そしてふたたび日常へと帰っていく。その財力と権力を彼女にもたらしつづけてきたその社会に、最初から最後までレグバとの関係のすべてだった、そしてそれでもなお彼にとってなんの助けにもならなかったその権力をもたらす世界に、依然として帰って行くのだ。
この姿は、もう一人のブレンダが、それまで生きてきた世界と決別するラストシーンをもって、対照的に浮き彫りにされる。合州国で裕福に生まれ育った白人という枠を携えたままであれど、何とも知れぬ未知の場所へと足を踏み入れていくブレンダとは逆に、破壊的な経験は、エレナを変えず——強いて言うならただ弱々しい存在にしただけだった。おそらくこのラストが、この映画の最大の残酷さであるのかもしれない。
この映画で描かれているのは、「男を買わざるを得ない女」であるという劣等感に喉元まで浸かりきり、それでいて——あるいはそのために——自分と恋人の置かれたグロテスクな権力関係を、ついに見通せなかった女たちの物語だ。貨幣価値の差からくる権力関係、ある国の国籍を持つ・持たないで生じる権力関係、そしてそれらの関係に重なるかたちで日々再構築されている白人-黒人の権力関係を、いずれも問いえなかった女たちの物語なのである。レグバをとりあった二人はともに、彼を取り巻くハイチ社会の緊迫した政治状況もなにも知らず、またその緊迫した危機から隔絶された楽園=白人観光客用のビーチに最初から最後までいつづけた。
彼女たちの設定と描かれ方を見るかぎり、この映画はけっしてなにかラディカルな表現を打ち出したものではない。「年を取った女の惨めな性」という決まりきった表象を再構築しただけの映画ではないかと批判することもできてしまう。それでもわたしがこの映画を評価するのは、結局のところ、その姿を、その惨めさを、しっかりと丁寧に描ききるのは容易なことではないからである。
この映画を見てわれわれは確かに思うはずである。彼女らをそんなにも愚かしく、醜くしているものとはなんなのかと。そして、なぜ彼女らがそこまで惨めにならねばならないのかと。そうしてわれわれは、上記の政治的・経済的な南北の権力関係がインモラルであるよりもまずもって、人と人との関係をあまりにも醜いものにする「胸くそ悪い」代物であることに、また、社会で当然のごとく受け入れられている「女」という概念の、そのあまりにいびつな構造に、苦々しい怒りと寒気をおぼえるのではないだろうか。
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時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
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