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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2009.06.28,Sun



 まだやってた2007年秋イタリア旅行記最後のシメ。今回は宿についてです。



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Posted by まめやもり - mameyamori - 2009.04.11,Sat




・ローマ市内散策

 というわけで、思った以上に長くかかってしまったヴァチカン美術館の見学だったわけだが、気分を切り替え、残りの午後はローマの古い町並みをうろうろすることにする。
 歩いてみて思ったことだが、このローマという都市は、古代から中世、近世、そして二十世紀の大変動と、さまざまな時代の層のかけらに街のそこかしこで同時に触れることのできる、不思議な街だ。何十年も営業してきたらしい老舗のカフェや店の並ぶせまい通りがゴチャゴチャと続いたかと思えば、突如ドーンと広場が眼前に開け、そこには古代ローマ時代に建設され、その後中世にはキリスト教の教会として使用されたという巨大なドームがそびえ立っていたりする。現代的な都市としての表皮のところどころがほつれて、数百年前の物語が顔を出し、さらにその中世物語の裂け目のむこうに、数千年前の神話の遺骸が垣間見えるのだ。この街において、歴史と時代とは文字通り地層をなして日常の下に埋まっている。観光客として街をフラフラ歩くわたしたちの目にも、それらの痕跡はふとした拍子で飛び込んできて、時間と歴史についての想像力をいやというほど喚起してくれる。





 たとえばこんな建物を見た。古びたバール(喫茶店・兼・酒場)として使われていたのが、しばらく前に閉店でもしたのだろうか。塗料の色あせたピンク色が、一昔前の時代感を漂わせている。
 ただ、注意すべきは「Bar ToTo」の看板の右隣にある奇妙な模様だ! なんだこれは、と近づいてよく見てみると



なんと! しっくいと塗料の下から、かつてその建物に刻まれていたらしい装飾彫刻と碑文とが顔を見せている。ローマ時代のものらしく見えるが、わたしは専門家ではないので、わからない。ローマの影響を受けた中世、ルネッサンスのものかもしれない。どちらにせよ、ずいぶんと歴史のある建物であることは確かのようだ。数百年前の建築なのだろうか? それにしても、もう少しまともに漆喰や塗料を塗れなかったのかねえ……古代の装飾を活かすんなら活かす、あるいは完全に塗りつぶす、のどちらかにするのが普通だと思うが、あまりに中途半端で、ちょっとホラーですらある。




 そしてこれは、ローマ時代に建造されたという劇場を、いまも使用中の建物の土台として使っている例だそうです(と、近くの看板に書いてあった)。いかにも年月を経たっぽい、いくつものアーチからなる部分がローマ時代の土台。その上の赤煉瓦が現在使用中の部分かな? それにしても二千年を経ていまだに使える土台を建てるとは、ローマの文化って恐ろしい。それも、当時の科学技術でだよ……。
 ちなみに、この「ローマ時代の建築を現在の建造物の一部として使用する」というのは、かつてローマ帝国の支配下にあった地域のあちこちで見られるようだ。実はイギリスの古都カンタベリなんかでも、ローマ時代に建造された市壁の一部が、中世や近世の修復や立て直しを経て、現在でも残っていたりする。(この写真については今度カンタベリのエントリを書いたときにアップしますです。)


 市内をうろうろしているとあっというまに暗くなってきた。気づけば偶然にもローマきっての観光名所のひとつ、トレヴィの泉の近くに来ている。あの、後ろ向きにコインを投げ入れると願いが叶うとかいうおまじないで有名な泉です。同行の友人が、ローマに来た記念にどうせだから行ってみようというので、そちらへ向かう……が、泉のある広場から数百メートル離れた時点で既になんだかものすごい

人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人!!!

人の熱気が

つたわってきます


うわあー




 混んでいる などという言葉で言い尽くせる生易しさではありませんでした。さすが世界のトレヴィの泉! もうすっかり日は暮れているというのに、噴水に近づけないほどの人だかりです。
でもなんかあんまり人が多すぎて、逆におもしろかった。


 翌日はとうとうローマを離れる日。飛行機は夕方だったので、午前中いっぱいと、午後の早い時間はまだ観光に使えます。ということで、この日は二カ所、エトルリア博物館と「骸骨寺」を見て回りました。



・エトルリア博物館

 エトルリアとは、古代ローマ以前にイタリア半島とコルシカ島に居住していたと言われる民族である。インド・ヨーロッパ系の言語文化とは異なる、独自の言語体系をもった民族だったと言われるが、その言語はまだ完全に意味が解明されておらず、その文化や歴史の多くは謎に包まれているらしい。現在残っているエトルリア文化についての記述のほとんどすべてが、エトルリア人がローマに同化吸収されたのち、ローマ人やギリシア人によって書かれたものだそう。
 Museo Nazionale Etrusco di Villa Giuliaでは、このエトルリアの美術品を多く見ることができます。とくに豊富なのは、墳墓の遺跡から発掘された埋葬品や副葬品のたぐい。残念ながら写真撮影が禁止だったので、またしてもウェブ上にすでにある写真を使っての説明となりますが、なかなかに神秘的で興味深かったー。イタリア中にあふれる、いかにも「文明!」といった感じの古代ローマ美術とはまた違った、素朴なんだけれども洗練されていて、だけども魔術的な趣もそなえた芸術文化で、個人的にはかなり好みでした。

 この博物館に収蔵されたエトルリア美術のうちでもっとも有名なのが、「夫婦のサルコファガス」と呼ばれるテラコッタ(素焼きの陶器)の石棺だと思います(写真はこちら)。わたしはこの棺の写真、高校の世界史の教科書で見た気がします。アルカイック・スマイル(古代の微笑)と呼ばれる、達観したような独特の微笑みが不思議な感じ。全面ガラスケースに入って厳重に守られていましたけれど、実物はなんだかこう、独特の存在感があったなあ。



・「骸骨寺」SANTA MARIA IMMACOLATA CONCEZIONE

 エトルリア博物館をのんびり見ていたら、いつのまにかすっかりお昼。あと一カ所くらい見れるかなあということで、最後は骸骨寺に向かう事にします。

(たしか朝最初に行ったらちょうど閉館時間に当たってしまったので、それでエトルリアを先にしたんだったかな? この骸骨寺に行かれる方は、観光者用に開放している時間帯をしっかり調べることをおすすめします)

 「骸骨寺」というこの名称はもちろん、通称です。本当の名は聖マリア・イマコラータ・コンツェツィオーネ教会。17世紀に建てられたこの教会がこの通称で知られているのは、地下の納骨堂の装飾にあります。その装飾というのが……えっと地下は全面撮影禁止だったので、ウィキメディアの写真へのリンクを貼ることにいたしますけれども、


 これ

 や

 これ


なんかであります……



 つまり、地下の室内装飾がすべて 人骨 でできてるんですね。ヨーロッパの教会でよく見る天井や壁の紋章だとか、アーケードや門の真ん中にある天使の顔の彫刻だとか、ああいうのがすべて 人骨 でできているわけです。なんでも、1500年から1870年のあいだに亡くなった修道士、4000人の骨を集めて作ってあるそうです。
 この骸骨寺、子どもの時からホラーとお餅とチーズが好きで好きで好きで好きでたまらなかった私としては、実物を目にしてみたくてたまらなかったわけです(餅とチーズ関係ない!)。一回目のローマ来訪のときも強く観光を希望したのですが、同行人に却下されまして……二度目にようやく悲願あいなったというわけです。しかしポンペイならまだしも、この骸骨寺にしつこく行きたがる私ってなんなんだろう……ホラーミーハーでごめんなさい……

 それにしても、実物は圧巻というか、不気味というか、ホラーマニアの私にとってすら、もうワケワカメの世界だったなあ……。なんか、システマティックというかルールすらあるのだ、骨の並べ方に。たとえばある部屋のある壁一面は、ぜんぶ肋骨だけを使って統一性のある模様を作り出す とか。ある部屋のある天井は、全部尾てい骨だけで装飾文様が形作られている とか。適当な並べ方じゃないのだ。なんかそれがすごかった。
 現代の感覚で言えば、羊たちの沈黙に出てきたみたいな、「人の皮膚で服を作る」とか、そんなのに近い感じがするんですけれども、当時はこれがまっとうな宗教的美術として認められていた……のかなあ。それとも当時も妄執的なプロジェクトとしてとらえられていたんでしょうか……
 たいして大きくもない教会の、それも地下なのでかなり狭くて、装飾の骨も手を伸ばせばすぐに届きそうな位置にあるんですけどね。たぶん30分あれば全部屋見る事ができるかな?
ウィキペディアによりますと、サド侯爵がこの納骨堂を1775年に訪れたときには、「こんなに強烈なものを今まで見た事がない」とかおっしゃったそうでございますよ。
 
 納骨堂の壁にはこんな文句が書かれておりました

 Quod fuimus, estis; quod sumus, vos eritis.

 解説の英訳によりますと、これは「What we were, you are; what we are, you will be」(我々はかつておまえが今あるところのものだった。そしておまえはいずれ、我々が今あるところのものになる)という意味の文句だそうです。むむう、これは中世後期から近世に流行った「死の舞踏」芸術によく付された文句でありますね。とすると、このよくわからない妄執を感じさせるホネホネアートも、「死の舞踏」美術と同様、「富める者も貧しき者も、老いも若きも男も女も、みんないずれ死ぬのだ」という厭世観を伝えるためのものということなのでしょうか? しかし遥かにそれを超えた執念みたいなものが伝わって来るのですが……。



 というわけで、七日間のイタリアの旅も終わり。名残惜しいけれどもローマの空港から家へと帰ります。そういえば、行きにチャンピアーノ空港(イージージェットはこの空港を使う)からローマ市内に来るときに、ローマの喫茶店のコーヒーただ券をもらったんですが、バタバタしていて結局使わずじまいだったなあ。もったいない。

 それにしても、死の都ポンペイから始まり、ローマの地下墓地カタコンベ、エトルリア文化の葬祭芸術、骸骨寺の骨細工と、墓地と死をめぐる旅だったなあ。ある意味では遺跡めぐりというのは、悠久の歴史のなかで堆積してきた「死」の地層をひとつひとつ確かめて、各時代の死の臭いを感じとる旅でもあるような気がする。遺跡というのは、畢竟「かつてあったけれども、今はもう失われたもの」であり、「その破片を通じてかつての完全な姿を想像させるもの」なわけだ。その「昔」と「今」とのギャップはいつでも、過ぎ去ったもの、壊れさったもののイメージであるがために、死の観念と結びついている。わたしが遺跡めぐりが好きなのは、たぶん色々な建築や、石ころや、あるいは風景を通してふと垣間見える時代の死、文明の死、そして歴史の移り変わりの感覚に惹かれているからなんだと思う。



 というわけで、以上、2007年11月のイタリア旅行記でした。今回のエントリで終わり……と言いたいところなんですが、あと1エントリだけ設けて、宿泊・食事などの技術的な記録を残しときたいと思います。





Posted by まめやもり - mameyamori - 2009.04.01,Wed




 さて、ナポリに三泊し、失われた都市ポンペイとナポリ市内を堪能したあと、われわれはローマに向かった。ローマの目的はカタコンベ、ヴァチカン博物館、それに骸骨寺! である。

 行きにも利用した急行列車なので、帰りはちょっとリラックス。そのまま車外の風景の写真をとったり、ごはんを食べたりしつつ、2時間ほどでローマに着く。

 それにしても、以前にイタリアを旅行したときにもローマ・フィレンツェ間で列車を利用しているのだが、窓から見える風景の印象がずいぶん違っていた。ローマ・フィレンツェでは田園風景の美しさがとにかく印象で、ゆったりとした畑地のあちこちに独特のピンクがかった赤褐色の屋根屋根が見えるありさまが非常にかわいらしかったのだが、今回のナポリ・ローマで見えた光景は、ずっと荒涼としていた。裸山の赤土とゴロゴロ転がる石のなかに電線がはり巡らされている という印象だ。





 ポンペイのことを考えても、南イタリアというのは火山地帯で、それゆえに風景もこうした荒々しい感じになるのだろうか。トスカーナで目にしたかわいらしい風景を期待していたので、最初はこうした寒々した光景が残念でもあったが、これはこれで面白いとも言える。



・聖カリストのカタコンベ

 さて、ローマに着いたその日にまず目指したのは聖カリストのカタコンベ(地下墳墓)。中央駅からバスに乗って中心街の外に出て、20分ほど乗ったあたりで、ローマでもっとも有名で旅行者の多いこのカタコンベに着く。

 現在ローマには40以上のカタコンベがあると言われている。そのほとんどの入り口はローマの中心街の外にある。もともと、ローマ時代には都の中に死者を埋葬する事が禁じられていたので、地下墳墓はみな市壁に囲まれた都の「外」に造られたわけである。ちなみに、ポンペイのネクロポリス(死者の都=墓地)も都の中心部を出た外(たしか市壁の遺跡の外)に作られていた。そのときにも書いたように、おそらくこの慣習の背後には「死者の住まう土地」と「生者の住まう土地」をきっちりと地理的に区別するという、宗教的にして衛生学的な理念があるんだと思う。都とその回りを取り囲む墓地、そして二つをわかつ堅牢な「壁」で、現世と来世、この世と異界が象徴されていたんだろうなあ。

 けれども、ローマに関して言えば、カタコンベの「入り口」は外にあっても、実は死体埋葬所そのものはローマ市の地下中に広がっているらしい。ようは、たくさんの死体を収容すべく、下に下に、横に横にと掘り進めているうちに、ローマの都の地下すべてが広大な墓所迷宮になってしまったというわけだ。
 ヨーロッパ有数の都の地下深くにひっそりと広がる迷宮墓地……うーむオカルティックなロマンがあります。

 ローマのカタコンベがポンペイと違う点は、それが初期キリスト教の教徒たちの「隠れ家」であり「秘跡の場」でもあったという点だ。知っての通り、キリスト教は2000年前あたりにイエスの人生とともに「興(おこ)った」わけだが、その後300年以上のあいだ、ローマ帝国支配下では異教として迫害されていた。その期間、キリスト教徒たちは殉教者たちを地下に埋葬し、そのとむらいの儀式をこっそりとその地下墳墓で行った。大規模なキリスト教徒のカタコンベは2世紀ごろからのものが見つかっているらしい。
 その後、4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になると、キリスト教徒たちはこっそりと地下に埋葬される必要がなくなり、カタコンベはあまり使用されなくなっていったそうである。

 聖カリストのカタコンベは、完全ツアー制である。なにぶん実質的に内部が迷宮で、全貌を把握している人間が誰もいないため、勝手に歩き回るのが危険だからだろう。
 ツアーは英語とほかにもヨーロッパ系のいくつかの言語で行われているらしかった。日本語はないようだし、英語がいちばん頻繁にツアーが出ていそうだったので、英語のツアーを希望する。受付でわたしと友人の名前をしるし、30分程度待ったあたりで、ツアーが始まった。

 残念ながらカタコンベ内部での写真撮影は禁じられていたので、あまり内部の様子が画像で伝えられないのですが、たとえばこんな感じでした。ただし、ほとんどの場所は天然光がまったく入らないので、本当に真っ暗。この写真は強力なフラッシュを焚いている+各所に灯りを置いている、んだと思う。写真で横に見えてる棚みたいなとこに、死体がおさめられているわけであります。
 もうひとつの写真としては、たとえばこんな。こちらでは、ローマ時代に装飾として施されたフレスコ画がまだ残っているのがわかりますね。これも、日光にほとんど触れない真っ暗な環境だから、こんなに良好な状態で残るのでしょうか。
 30分弱のツアーの中で、かなり歩き回った記憶があります。ガイドさんの話によると、カタコンベは横に広いだけじゃなくて、縦にも何重もの層になっているらしいです。そりゃそんなところでいったん迷ったら、もう二度と出られないわなあ……。なんだか、インディ・ジョーンズとかのネタでいかにもありそうです。カタコンベに閉じ込められるインディ。
 ガイドさんが途中で何回も何回も人数を確認していたのが印象的でした。

 さて、カタコンベに着いたのは昼下がりだったので、ツアーが終わるともう日没が近づいています。なぜか何匹もうろうろしている猫どもを尻目に、草原を眺め、「この牧歌的な光景の下に無数のミイラが累々と積み重なってるんだなあ……」などと感慨にふけりつつ、ローマの中心街へと帰るバスを待ちます。



そして猫どもはなぜかみな同じ方向を見てる
ローマは全体的に猫だらけでした




・ヴァチカン美術館の大混雑

 なんか普通のマンションの一室のうちさらに一部屋みたいな宿で一泊してのち(これについては別エントリで詳しく書きます)、二日目はヴァチカン美術館へとおもむきました。ヴァチカンは以前に一度来た事があったんですが、その時はサン・ピエトロ大寺院に行っただけで時間を全部使い果たしてしまい、けっきょく美術館は見ずじまい。今回こそは見てやろう!と意気込んで、朝一番に出かけたわけですが……
 えーと、着いたのがたぶん、午前……9時すぎ……ごろだったと、思うんですが、ていうか開館後そんなに遅くはないはずだったんですが、着いた時点で、ヴァチカンの市壁をぐるーりと並んで、果ての見えない行列ができてました(ていうか一回来た事あるのに、この行列をおぼえていなかったのだろうか、わたしは)。いやあ……1キロくらいあったんじゃないでしょうか、あの列。長蛇の列などという生易しい単語で済むものではありませんでした。

 ウェブサイトやガイドブックには、「無料の日は大変混み合う」「行列を覚悟しよう」などと書いてあったのですが、まさか平日の開館直後でここまでとは……甘かったです。しかしここまで来て美術館に入らずに帰るわけにはいかないと、なかばヤケで並びました。お天気が良かったのがせめてもの救いといえば救いですが、11月とはいえ直射日光がガンガンに当たる場所で何時間も立ち尽くすのはちょっと辛かった。
 そうなのだ、結局、2時間以上並んだのである。たしか3時間はギリギリ行かなかったと思う。いやあーでも行列はつねに避けて通る(いつもホットな話題からハズれてる)人生を送ってきたわたしにとっては、たぶん五本の指に入る行列経験でした。こんだけ長時間並んだのは小学校のときに親に連れられて恐竜展を見に行ったとき以来じゃあるまいか。

 で、お昼すぎにようやっと博物館に入れたはいいのですが、ゆっくりと博物館の様々な見どころを吟味している暇などありません。ラオコーンとか興味をひかれるものは色々あれど、システィーナ礼拝堂(ミケランジェロによる「創世記」の天井画と「最後の審判」の壁画がある)を見るためには、まずそちらに直行しなくてはならない。というか外の行列からして、こりゃシスティーナ礼拝堂にいたる道も内部ですごい行列になってるんじゃないか、早いとこ見とかないと閉会時間になっちゃうんじゃないかと思って向かったわけですが、まったくその通りでした。中でも結局、プラス1時間くらい並んだよ……

 礼拝堂の中もすごい混雑でした。観光客がウヨウヨ動きながらそろって口開いて天井を見つめている光景は、まったく奇妙(自分もそのひとりだけど)。礼拝堂やその周囲の重要な美術品が並ぶ領域は撮影禁止ポイントなのですが、イモ洗い状態の観光客の塊に係員さんが「ノー・フォト! ノー・フォト!」と叫びつづけていて、大変だなーとつくづく思った。それでもこっそり携帯電話で写真を撮る不届き者がワンサカいるらしく、あちこちでフラッシュがひっきりなしに光る。とうとうしびれを切らしたのか、係員さんが、近場にいたらしき現行犯を一人ひっつかまえると問答無用で室外に連行していくのが見えた。まあ腹も立つわなと思ったよ。

 それにしても、昔から歴史の教科書や、さまざまな場所で目にしてきた有名絵画をこの目で見るのはなかなかの感慨でありました。なんか半ば以上人酔いして、あんまり絵に集中できる環境ではなかったけれど、創世記のひとつひとつの場面を描いた天井画は、はるか下からでもその精巧さが見てとれる気がしたし、「最後の審判」はやっぱりすごい迫力でしたよ。

 撮影禁止だから写真はとってないのだけれど、ミケランジェロの「創世記」ってこれです(ウェブ上に落ちてた画像です)。この画像は「アダムの創造」。





 そして、「最後の審判」はこれ。誰もが見たことあるはずの絵です。





 結局、後に戻るに戻れぬイモ洗い状態のままシスティーナ礼拝堂を出ると、人の波はそのまままっすぐ出口へ。もしかすると、まだ美術館内を見ようと思えば見られたのかもしれないけれど、何時間も行列に並びっぱなしでいい加減に疲れていたし、一日ぜんぶヴァチカン美術館で過ごしてしまうのももったいないので、そのまま美術館を後にすることに。

 関係ないけど美術館の出口のらせんの坂道が、上から見るとなかなかカワイイ





 ということで、ローマ編(2)へ続きます。




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