本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.02.19,Tue
※ ※ ※
1987年、ルーマニア。大学の寮に住む女子学生二人が、せわしなく、どことなく神経質に、自室で時間をすごしている。二人はルームメイトなのだ。気の強そうなオティリアと、どうも不安げで頼りなげなガブリエラ。若者には似つかわしくない額の札束がふたりの間を行き交っている。
オティリアは外出し、恋人と会う。彼女にベタ惚れの様子の恋人だが、ふたりのあいだにはどこかすれ違いが感じられる。彼女はその後いくつかのホテルを回り、従業員に不審げな視線を向けられつつも、なんとかその日の一部屋を予約することに成功する。つぎにオティリアが向かうのは、さびれた街角に停車している一台の車だ。その車の中で一人の中年の男性が彼女を待っている。
「約束と違う。本人が来なければ駄目だと言ったはずだ」「気分が悪くて来られなかったの、私がかわりに来たんだからいいじゃない」「いいかね、重要なのは信頼だ。私達は危険な橋を渡っている。私は実名もなにもかも、すべてきみらに明かしている。だからきみらも私の言う通りにしてくれなければ困る」「わかってるわ・・・」丁寧な口調ながらも、男はどこか粘着質な雰囲気を漂わせている。
ホテルの部屋でガブリエラが二人を待っている。中年男が鞄を開く。様々な医療器具が見える。男は闇医者なのだ。三人は「施術」とその費用について話し出す。会話のなかで逐一あきらかになっていく、ガブリエラの嘘やごまかし。「最後の生理は?」「XX月か・・・XX月かも・・・」「待ちなさい、それじゃ三ヶ月を過ぎている。電話では二ヶ月と言ったはずだ」「生理が来なかった月から数えて二月だと思ったの・・・」。支払う報酬についても、ガブリエラは協力してくれる友人のオティリアに嘘を伝えている。しだいに高圧的になり、怒りをあらわにする医者。困惑するオティリア。帰ろうとする医者を止めるために、ガブリエラはオティリアも巻き込んだひとつの提案をする・・・。
※ ※ ※
『四ヶ月、三週間と二日』(以下『4、3、2』と略)は、1987年、共産党政権の瓦解する前夜のルーマニアにおける違法中絶をあつかった映画である。友人の堕胎を手伝う一人の女子学生の一日に焦点をあてつつ、二人の女のあいだの友情・裏切り・依存関係や、妊娠や堕胎をめぐって男女の恋人たちの間に横たわる認識と痛みの断絶といった問題を、独特のトーンで描いていく。監督はこの『4、3、2』が長編二作目というクリスチャン・ムンギウ。若干39才だそうだ。新進監督のパルムドール受賞にカンヌは少なからず湧いたようである。
先日のエントリで紹介した『ロンドン・タイムズ』の評にもあった通り、この映画の最大の特徴は、まったく妥協を見せない、禁欲的なまでのリアリズムだ。物語にも台詞にも演出にも、起伏を作り出し、あるいは美的表現を高め、あるいは聴衆を楽しませるための「技巧」のようなものはほとんど感じられない。
ところどころに皮肉めいたユーモアはある。だがそれも、現実のふれあいのなかでわれわれが出くわす奇妙なすれちがい、バッドタイミング、不条理をそのままに描写しているだけだ。異様に陽気な恋人の母親がデザートを届けに息子の部屋にノックなしに入り込み、息子とオティリアが口論する現場に直面して気まずい沈黙を落とすシーンなどはその一例。
しかしながらこの作品はけしてドキュメンタリーではなく、あくまでフィクション創作であるのだから、いっさいの人工性を感じさせないことじたい、ある意味では完成度の高い「わざ」なのだと言える。
この徹底したリアリズムは、ある意味では、聴衆を楽しませようという姑息なテクニックの放棄であり媚びのなさとも言える。だが裏を返せば、多くの聴衆にとっては最後まで見るのに「がまん」が求められる手法でもあろう。退屈と感じる人もいるだろうし、美的な演出の排除された空気のなかで、カメラが執拗に追いつづける痛々しい場面も見ていて辛い。たとえば、カメラはベッドに横たわったガブリエラのからだの中に器具が挿入され彼女があえぐ場面を、そのままに映し続ける。映画を見ていたとき、この場面にいたって隣の友人が画面から目を背けるのがわかった。わたしも声を出しそうになったのをおぼえている。最初から「痛々しさの美」とかいうものに視点を当てた映画であれば、まだ、そういうものとして見ることができたのだ。このガブリエラの場面が辛いのは、からだの内部への・とても物質的な侵入と破壊感が、なんの劇的な演出も悲壮感もなしに淡々と映し出されているからにほかならない。
映像の多くは、定位置に固定された視点で登場人物のやりとりや動きを延々と映し出すという、とても単純なカメラワークで取られている。映画の技法については詳しくないが、たぶん一カットはかなり長めだと思う。この動きの少ないカメラも、『4、3、2』が聴衆に「がまん」を強いる要素のひとつだ。通常ならば、かなり実験的な映画でもない限り、映画の映像というのは動きや変化に満ちている。色の変化、カメラの移動、場の切り替えといったものは、物語に起伏をもたせ観衆を飽きさせないための基本技術なんだろうと思う。だから、起伏や変化の少ない映像を10分20分ものあいだ、延々と見せられる映画というのはかなり少ない。
しかし、『4,3,2』のあまりに単純に見えるカメラワークは、ただの稚拙な技術ゆえのものではなく、この映画にとって「これでなくてはならなかった」手法なのだ。そのことは、いくつかの印象的なカットを通じてあきらかになる。そのひとつは、オティリアが恋人の説得に負けてしぶしぶ向かった恋人の母親の誕生パーティの場面。ここでカメラが撮っているのは、オティリアと恋人を真ん中にすえて母親の友人たちが陽気に喋りあう様子だ。心ここにあらずのオティリア。それを不満に思う恋人。悪気のまったくない発言を通じて、だが無遠慮にオティリアを傷つける他の客たち。飛び交う会話のはしばしが偶然に彼女が闇医者と交わした言葉と重なり、オティリアが吐きけを催すその様子。人々の何げない晩餐を映しだす、本当にただそれだけであるのに、幾人もの人間が集う場のネガティブなダイナミクスがきわめて印象的に描き出されている。というか、ここはカメラだけでなく、とにかく脚本がすばらしい。いやほんとすごいよ脚本。
この場面だけでなく、作品全体を通じて脚本はとにかく良質で、それがオティリアと恋人との中絶・避妊をめぐるすれ違いや、女同士の関係性の闇を説得的に描きあげている。
たとえばオティリアの恋人。彼は堕胎に反対だけれども、恋人のことを気づかっているつもりだし、そりゃたしかに避妊を忘れることもあるけれど、反省はするし悪気もない。ただちょっと脳天気なだけだ。だがそれは結局のところ、妊娠も堕胎も彼の身体には関係のない問題だからこそ持つことのできる明るさであり、脳天気さであり、正義である。
「中絶はいけない、殺人だ」「闇手術は危険だよ」、そんな正義はオティリアに許されていない。だからこそ彼女は、自分の面倒も自分で見られない友人のガブリエラのことを放っておけなかったのだ。「明日の自分」——いつ自分が陥るかわからない煉獄——それをオティリアは友人のなかに見たのであって、だからこそすべてを投げ出して彼女を助けようとしたのである。
身体の感覚をつうじた共感のなかに行動を起こす、そういう「主体としての女」(オティリア)が、他の人間よりも圧倒的に苦い辛酸をなめざるをえない——そういう描き方をしていることが、この映画の最大の皮肉であり、そして最も秀逸な点だろう。周囲のあらゆる人間の無理解に逐一傷つけられながらも、オティリアは友人を助けようとする。だが、自分では何もできないように見える友人のガブリエラは、じつのところ非常にしたたかで、自分が本来引き受けなければならない辛さを最小限にとどめ、残りのすべてをオティリアにおっかぶせる。そのプロセスを見るわれわれは、胃からこみあげる苦々しさにめまいを覚えるほどである。
ホテルのバスルームの床に産み落とされた胎児の死骸を鞄に突っ込み、オティリアは夜の中に飛び出していく。死体を捨てられる場所を探しに行くのだ。街角の焼却炉を開けようとすると、野犬がヴァンヴァンと吠えて走ってくる。闇医者の言った台詞がよぎる。「犬のいるところには絶対に捨てるな」。胎児が掘り返されれば、罪を犯したことがばれてしまう・・・。血まみれのバスタオルを抱え、真っ暗な夜のなかをオティリアがさまよい歩くシーンは、薄気味悪く、陰鬱で、不安に満ちている。たった一日の生の経験を通じて、もう戻れない地点に到達してしまったオティリアの表情におちた陰翳が印象的だ。
「今日のことはもうみんな、なかったことにするの。このことについては、もう話さない。いいわね」オティリアはガブリエラにそう言う。だが、なかったことにできるものなど何もないことを、彼女はよく知っている。恋人との関係も、ガブリエラとの関係も、また彼女の自分自身との関係も、あまりにも変わってしまって、もうけして元には戻らないのだ。肉塊を産み落とし、それを高層ビルのゴミ箱に投げ捨て、すべてをなかったことにしようとする二人に、レストランのウェイターが運んでくる肉・内臓料理だらけの皿。暗いユーモアと皮肉に満ちた閉め方だ。
2006年にはケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』、2007年はこの『四ヶ月、三週間と二日』と、カンヌではここ二年つづけて社会派リアリズムならではの凄みを見せた作品がパルムドールを制覇している。ある題材や現象を、人工性を極力廃した脚本とカメラワークでたんねんに追うことが、そのまま強烈な政治批判・社会批判となって観客を打つのだということ——どちらも、それを痛切に感じさせてくれる作品だ。
ポストモダンの流行と、ファンタジー量産のブームが相互にどれだけ関連をもつのかは知らない。だが映画にせよ小説にせよ、創作に携わる者がこれら「リアリズムの力」に学ぶべきところは、今だからこそたくさんあるのではないかと思う。リアリズム批判もファンタジーも、きわめてすぐれた作品を生み出しうるエピステモロジー(認識)だ。さらに、実のところそれこそが世界のありかたや人間どうしの関係性のありさまに近いということも、わかっているつもり。だが軽率にリアリズムを軽蔑しファンタジーに「埋没」する作品が、昨今は多すぎるような気もする。社会現実の否定が時としてたんなる現状肯定とナルシシズムに陥っていくということを、わたしたちは批判的に考えなくてはならない。
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ブログ内関連エントリ→「"4 months, 3 weeks & 2 days"を見たよ」(2008.1.19)
勉強になった関連レビュー(別窓)
・「4 months 3 weeks and 2 days (4 luni 3 saptamani si 2 zile)」(「ルーマニアから」、日本語)。レビューを読むと、チャウセスク時代への社会批判はルーマニアにとってみれば「自虐ネタ」とのことで、ルーマニアをよく知ってらっしゃる方にはイカニモというかステレオタイプすぎる題材なのかな、などと色々考えさせられます。残念ながらブログのほうは現在更新を中止してらっしゃる様子。
・「4ヶ月、3週と2日』(「セガール気分で逢いましょう」)いろいろと頷くところがあります。
・「4ヶ月、3週と2日」(「映画瓦版」、日本語)
・"4 Months, 3 Weeks & 2 Days"(Times Online、英語)
・"4 Months, 3 Weeks & 2 Days"(Guardian、英語)
関連リンク
・公式ウェブサイト
・4ヶ月、3週と2日@映画生活
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