本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.08.09,Wed
8月7日にアップしたのだが、読み返すと何が言いたいかわからないレビューだったため、若干修正。(うはーまあこういうのってほんと自己満足でまわりはあんま気にしてないんだと思うんだけど)長いのは変わっていないです。文章が下手くそな翻訳調なのも変わっていない。
CAUTION!! 以下のレビューはネタバレを含んでいます。映画を見る楽しみの根底的なところを奪い去るネタバレは避けたつもりですし、大まかなプロットが読めたところで楽しめなくなるタイプの映画ではないと思いますが、そこは人それぞれなので念のため。
大まかなあらすじは →先のメディア・レビュー紹介 参照
映像は綺麗だったと思う。野草が生い茂り寒々と石ころが転がる見渡す限りの丘陵。重く立ちこめた雲と時折訪れる太陽の光。緑と蔦と木々に埋もれたようにひっそりと建つ民家の中での人々の質素な暮らし。物語の背景に、そうした厳しくも美しい風景が、ごく自然なかたちで配置されている。
演技は・・・アイルランド西部の訛りでどんな言葉、どんなイントネーションが自然であるのかいまいちわからないので自信がないが、良かったと思う。とくに主演のキリアン・マーフィー。若干の神経質さを漂わせる独特の雰囲気・しぐさ・表情が印象的だった。全体的な演出も、シビアな出来事が劇中で続くにもかかわらず、過剰なドラマチックさを抑制した緊張感のともなうもので、良かった。
内容に関しては、賛否両論が出てまったく不思議のないものである。以前も少し書いたが、それは保守派が「アンチ・イギリス的」としてクソミソにけなし、イギリスに批判的な海外の聴衆および国内の革新派がもてはやすといったシンプルな図式に収まりきるものではない。
ローチに向けられている批判のひとつは、この映画が悪玉=「英国人」vs 善玉=「アイルランド人」というあまりにもシンプルな図式を立てている、というものだ。確かにそういう読み方もできてしまう。後半の独立派内部の内戦に関しても、それは顔を見知った者同士、肉親同士の悲惨な殺し合いなのだが、「魂を売ってしまった者」と「大事なものを守り通した者」との闘いとして描かれているわけで、読みようによっては「英国の犬になってしまった者」と「アイルランド共和主義を貫いた者」との戦いとも映る。こうした一貫した物語を立てることは、多分にナイーブなロマンチシズムであるかもしれない。
だが重要なのは、そのロマンチックな歴史の描き方の何が問題なのか、ということだ。少なくともこの映画はお涙ちょうだい的な手法を用いたものではなく、むしろそれからほど遠いものであるがゆえに強く印象に残るのだ。したがって、映画の背後に監督の理想やロマンチシズムが濃厚に見えたからと言って、それは作品全体としてのつくり・演出が俗っぽいということを意味しない。むしろ非常に質の高い作品なのである。
では一体、問題なのは何なのだろうか?
いくつかの英国メディアが言うように、この映画が左翼のプロパガンダであるからだろうか?わたしはそうは思わない。むしろローチはそのような批判やあてこすりを堂々と受け止めるのではないだろうか。政治的バイアスのかかっていない表現・芸術など存在しえないことを、彼のような人間は良く知っているだろうからである。
わたしが思うに——おそらくこの映画の問題点は、そのプロットが独立アイルランドのナショナリズムを称える歴史物語を逐一たどっていことにある。現在の共和国アイルランドの「正史」においても、彼ら1920年代の田舎の共和主義者(独立主義者)たちはまさに建国を支えた無名戦士として存在する。そして国民国家の礎をなすものとして繰り返されるその物語は、当然、現在の社会システムにとって「都合の悪い」側面を隠すように仕立てられている。
「大国の軍事的暴力に対する貧しい人々の抵抗」というプロットは確かに魅力的であろう。しかし悪いことにローチは、そのプロットを丁寧に描こうとするなかで、この「国家にとって都合の悪い側面の隠蔽」すらも忠実になぞってしまったのである。
Stephen Howeという歴史家が、この点をクリアに示している。英国の批評・評論サイトであるオープン・デモクラシーOpen Democracyにおいて彼は次のような批評をする(→ コチラ)——いわく、この映画においてレパブリカン(共和主義者、すなわちイギリス王国からの独立主義者、つまりダミアンたち)は苦悶しつつも仕方なく暴力を用いる人々として描かれているが、現実にはこの独立戦争と内戦の時代に、彼らの手によって多くの人々がスパイの嫌疑で殺されたのだ、と。そして殺された人々の多くはスパイでもなんでもない人々だった。また、野宿者や性的逸脱者と見なされた人々も同時に多く殺されたのである、と。
アイルランドはとりわけ地域や家族の結束の強い社会だ。それは映画に描かれているように、力強い独立運動を可能にしたものでもある。だが他方で、定住地をもたない人びとや性的マイノリティは、その結束の外へ、社会の周辺へとおしやられてきた。さらに社会の混乱のさいには、彼らがまずもって暴力の標的になったのである。地域的結束や家族の理想像が、国家としてのアイルランドを支える理念的支柱ともなっていくその一方で、たとえば理想的家族の枠組みに入らない人びと(たとえば、婚前出産をした女性など)は、他の西ヨーロッパの国々とは比べものにならないほどひどい扱いを受けてきたのである。(アイルランド社会における性道徳の厳しさはよく知られている)
英国植民地主義という強大な外敵を設定することで、内部の権力関係や暴力のありようを隠蔽してきたという側面を、アイルランド・ナショナリズムの物語は持っている。貧しい人々や社会的に弱い立場の人間達にずっと目を注いできたローチだからこそ、もう少し、もう少しだけそこに意識的であっても良かったのではないか。もちろん、当時のアイルランド社会の内部でなお「周辺」に置かれた人びとについては、それ自体一つの作品として取り上げられてしかるべき複雑な背景があるのだから、この映画の中でそれを取り上げろというのには無理がある。ただ、レパブリカンの苦しみと決意と苦悶とをただ描くだけでなく——今日英雄として称えられる彼らの組織の内部の、よりグロテスクな歪みや澱みを、少しくらい描いても良かったのではないか(※)。弱い立場の人々が過去に受けた暴力を「記述に値しないもの」として削除することは、今日の社会で人々がこうむる暴力と地続きであろう。まさしくローチ自身の言葉を借りれば、「過去を知ることは現在を知ること」なのである。
※ 映画を見た人々はここに「あれ?」と思うかも知れない。例の幼なじみの少年のエピソードがあるからである。あの場面をどう評価するかは、いまだにわたしも割り切れていない。だが今のところ、レパブリカンが関与した暴力は、おそらく「あんなものではなかった」——もっと見るに堪えないものだった——と思われる、と記しておきたい。だからこそ、80〜90年の歳月をへてなお、アイルランドにおいて内戦はいまだにタブー扱いされる主題なのだ。
さらに女の描き方について一点。この映画を通して主人公のガールフレンドは常に主人公とともに闘っている。少なくとも彼女は非常に効果的に、他の男にはなしえない形で主人公のグループを「サポート」する。この描き方は女をひたすら「待つ存在」として置いたり、華を添えるためだけに投入するよりはなんぼかましなのだが、私見では体育会系部活の女マネージャーの立ち位置と大きく変わるところがない。さらに登場する女が全員善玉サイドに位置している(あるいは善玉と悪玉が分岐する重要なポイントの一端をなす)というのもなんだかおかしい。私見を言わせてもらえば、女だって男と同様に植民地主義にも権力にも与するものなのだ。
以上のような理由から、わたしはこの映画を見た当初、カンヌの受賞についてやや疑問があった。しかし時間が経つにつれ、こうした「反英国!」なナショナリズムのロマンティシズムでは語りきれないインパクトをこの映画が持っているような気がしてきた。
「英国」と「アイルランド」の枠組みに必ずしも限定されないところで、この映画は軍隊が地元民との間に抑圧的な権力関係を確立していく行為を、つぶさに描いている。これを最も見事に示しているのは、映画開始数分後に展開されるシーンだ。このシーンはまず一つに、ストリップ・サーチ(武器の所持・不所持を調べるという目的で服を脱がせる捜査)が、象徴的に——そして同時にこれ以上なく物理的・身体的に、恥辱を与えることで人を無力化する行いであることを描く。「反乱分子」の捜索は、そうした分子の存在を表向き前提としながらも、実のところそれ自体、人々の——潜在的な「反乱分子」の——政治的な主体性を未然に潰す目的で行われているのだ。つまり、「捜査」を通じて人びとに恥辱を与え、その尊厳を奪い、思考し行動しようとする意志をも奪い、権力や武力をもつ者ともたない者の力関係を固定させる、そうした効果をストリップ・サーチというものは有しているのである。
またこのシーンは、「母国語」を奪われた人々にとって自分の母国語の名前がもつ切実な意味合いを示してもいる。同時に、支配勢力にとって、自分たちの言葉ではなく母国語で名前を名乗られるという行為がいかに苛立たしいものであるのかも。さらに、この点とも関係するのだが——このシーンが描いているのは、戦争状態における軍部というものが、いかに些細で小さな抵抗の兆しも容赦せずに叩き潰すのか、ということだ。そこにはほとんど強迫神経症的なものすら感じられる。
これら一連の、支配する者とされる者の関係が複雑に再構築されるさまを、またそれに対する抵抗に向けられる過剰な暴力のおぞましさを、ローチはたった数分のシーンの中で、目を背けたくなるような克明さで描いてみせる。そしてこの場面がそれほどまでに衝撃的なのは、その何とも言えない緊迫感と生々しさゆえのものである。まるでドキュメンタリーのようなリアリズムなのだが、少なくともこの場面に限っては、他のいかなる描写手法もここまで密度の濃い内容を表現できるとは思えない。
以上ダラダラと書いてきたように、一人の視点からですらも評価の難しい作品だ。ただ一つ言えることとして、この映画のレビューは「英国人」と「アイルランド人」論に終始しがちだけれど、「政治的な議論をする」イコール「国/国民の表象を吟味する」ではない、あるいは、少なくともそれだけではないということだ。暴力について、暴力の表現と表象について、そして歴史を描くということについて、この映画は考えるべきポイントを無数に提供している。
そしてこれだけパワフルな作品を完成させた齢70のケン・ローチ、凄い人だと素直に思う。
映像は綺麗だったと思う。野草が生い茂り寒々と石ころが転がる見渡す限りの丘陵。重く立ちこめた雲と時折訪れる太陽の光。緑と蔦と木々に埋もれたようにひっそりと建つ民家の中での人々の質素な暮らし。物語の背景に、そうした厳しくも美しい風景が、ごく自然なかたちで配置されている。
演技は・・・アイルランド西部の訛りでどんな言葉、どんなイントネーションが自然であるのかいまいちわからないので自信がないが、良かったと思う。とくに主演のキリアン・マーフィー。若干の神経質さを漂わせる独特の雰囲気・しぐさ・表情が印象的だった。全体的な演出も、シビアな出来事が劇中で続くにもかかわらず、過剰なドラマチックさを抑制した緊張感のともなうもので、良かった。
内容に関しては、賛否両論が出てまったく不思議のないものである。以前も少し書いたが、それは保守派が「アンチ・イギリス的」としてクソミソにけなし、イギリスに批判的な海外の聴衆および国内の革新派がもてはやすといったシンプルな図式に収まりきるものではない。
ローチに向けられている批判のひとつは、この映画が悪玉=「英国人」vs 善玉=「アイルランド人」というあまりにもシンプルな図式を立てている、というものだ。確かにそういう読み方もできてしまう。後半の独立派内部の内戦に関しても、それは顔を見知った者同士、肉親同士の悲惨な殺し合いなのだが、「魂を売ってしまった者」と「大事なものを守り通した者」との闘いとして描かれているわけで、読みようによっては「英国の犬になってしまった者」と「アイルランド共和主義を貫いた者」との戦いとも映る。こうした一貫した物語を立てることは、多分にナイーブなロマンチシズムであるかもしれない。
だが重要なのは、そのロマンチックな歴史の描き方の何が問題なのか、ということだ。少なくともこの映画はお涙ちょうだい的な手法を用いたものではなく、むしろそれからほど遠いものであるがゆえに強く印象に残るのだ。したがって、映画の背後に監督の理想やロマンチシズムが濃厚に見えたからと言って、それは作品全体としてのつくり・演出が俗っぽいということを意味しない。むしろ非常に質の高い作品なのである。
では一体、問題なのは何なのだろうか?
いくつかの英国メディアが言うように、この映画が左翼のプロパガンダであるからだろうか?わたしはそうは思わない。むしろローチはそのような批判やあてこすりを堂々と受け止めるのではないだろうか。政治的バイアスのかかっていない表現・芸術など存在しえないことを、彼のような人間は良く知っているだろうからである。
わたしが思うに——おそらくこの映画の問題点は、そのプロットが独立アイルランドのナショナリズムを称える歴史物語を逐一たどっていことにある。現在の共和国アイルランドの「正史」においても、彼ら1920年代の田舎の共和主義者(独立主義者)たちはまさに建国を支えた無名戦士として存在する。そして国民国家の礎をなすものとして繰り返されるその物語は、当然、現在の社会システムにとって「都合の悪い」側面を隠すように仕立てられている。
「大国の軍事的暴力に対する貧しい人々の抵抗」というプロットは確かに魅力的であろう。しかし悪いことにローチは、そのプロットを丁寧に描こうとするなかで、この「国家にとって都合の悪い側面の隠蔽」すらも忠実になぞってしまったのである。
Stephen Howeという歴史家が、この点をクリアに示している。英国の批評・評論サイトであるオープン・デモクラシーOpen Democracyにおいて彼は次のような批評をする(→ コチラ)——いわく、この映画においてレパブリカン(共和主義者、すなわちイギリス王国からの独立主義者、つまりダミアンたち)は苦悶しつつも仕方なく暴力を用いる人々として描かれているが、現実にはこの独立戦争と内戦の時代に、彼らの手によって多くの人々がスパイの嫌疑で殺されたのだ、と。そして殺された人々の多くはスパイでもなんでもない人々だった。また、野宿者や性的逸脱者と見なされた人々も同時に多く殺されたのである、と。
アイルランドはとりわけ地域や家族の結束の強い社会だ。それは映画に描かれているように、力強い独立運動を可能にしたものでもある。だが他方で、定住地をもたない人びとや性的マイノリティは、その結束の外へ、社会の周辺へとおしやられてきた。さらに社会の混乱のさいには、彼らがまずもって暴力の標的になったのである。地域的結束や家族の理想像が、国家としてのアイルランドを支える理念的支柱ともなっていくその一方で、たとえば理想的家族の枠組みに入らない人びと(たとえば、婚前出産をした女性など)は、他の西ヨーロッパの国々とは比べものにならないほどひどい扱いを受けてきたのである。(アイルランド社会における性道徳の厳しさはよく知られている)
英国植民地主義という強大な外敵を設定することで、内部の権力関係や暴力のありようを隠蔽してきたという側面を、アイルランド・ナショナリズムの物語は持っている。貧しい人々や社会的に弱い立場の人間達にずっと目を注いできたローチだからこそ、もう少し、もう少しだけそこに意識的であっても良かったのではないか。もちろん、当時のアイルランド社会の内部でなお「周辺」に置かれた人びとについては、それ自体一つの作品として取り上げられてしかるべき複雑な背景があるのだから、この映画の中でそれを取り上げろというのには無理がある。ただ、レパブリカンの苦しみと決意と苦悶とをただ描くだけでなく——今日英雄として称えられる彼らの組織の内部の、よりグロテスクな歪みや澱みを、少しくらい描いても良かったのではないか(※)。弱い立場の人々が過去に受けた暴力を「記述に値しないもの」として削除することは、今日の社会で人々がこうむる暴力と地続きであろう。まさしくローチ自身の言葉を借りれば、「過去を知ることは現在を知ること」なのである。
※ 映画を見た人々はここに「あれ?」と思うかも知れない。例の幼なじみの少年のエピソードがあるからである。あの場面をどう評価するかは、いまだにわたしも割り切れていない。だが今のところ、レパブリカンが関与した暴力は、おそらく「あんなものではなかった」——もっと見るに堪えないものだった——と思われる、と記しておきたい。だからこそ、80〜90年の歳月をへてなお、アイルランドにおいて内戦はいまだにタブー扱いされる主題なのだ。
さらに女の描き方について一点。この映画を通して主人公のガールフレンドは常に主人公とともに闘っている。少なくとも彼女は非常に効果的に、他の男にはなしえない形で主人公のグループを「サポート」する。この描き方は女をひたすら「待つ存在」として置いたり、華を添えるためだけに投入するよりはなんぼかましなのだが、私見では体育会系部活の女マネージャーの立ち位置と大きく変わるところがない。さらに登場する女が全員善玉サイドに位置している(あるいは善玉と悪玉が分岐する重要なポイントの一端をなす)というのもなんだかおかしい。私見を言わせてもらえば、女だって男と同様に植民地主義にも権力にも与するものなのだ。
以上のような理由から、わたしはこの映画を見た当初、カンヌの受賞についてやや疑問があった。しかし時間が経つにつれ、こうした「反英国!」なナショナリズムのロマンティシズムでは語りきれないインパクトをこの映画が持っているような気がしてきた。
「英国」と「アイルランド」の枠組みに必ずしも限定されないところで、この映画は軍隊が地元民との間に抑圧的な権力関係を確立していく行為を、つぶさに描いている。これを最も見事に示しているのは、映画開始数分後に展開されるシーンだ。このシーンはまず一つに、ストリップ・サーチ(武器の所持・不所持を調べるという目的で服を脱がせる捜査)が、象徴的に——そして同時にこれ以上なく物理的・身体的に、恥辱を与えることで人を無力化する行いであることを描く。「反乱分子」の捜索は、そうした分子の存在を表向き前提としながらも、実のところそれ自体、人々の——潜在的な「反乱分子」の——政治的な主体性を未然に潰す目的で行われているのだ。つまり、「捜査」を通じて人びとに恥辱を与え、その尊厳を奪い、思考し行動しようとする意志をも奪い、権力や武力をもつ者ともたない者の力関係を固定させる、そうした効果をストリップ・サーチというものは有しているのである。
またこのシーンは、「母国語」を奪われた人々にとって自分の母国語の名前がもつ切実な意味合いを示してもいる。同時に、支配勢力にとって、自分たちの言葉ではなく母国語で名前を名乗られるという行為がいかに苛立たしいものであるのかも。さらに、この点とも関係するのだが——このシーンが描いているのは、戦争状態における軍部というものが、いかに些細で小さな抵抗の兆しも容赦せずに叩き潰すのか、ということだ。そこにはほとんど強迫神経症的なものすら感じられる。
これら一連の、支配する者とされる者の関係が複雑に再構築されるさまを、またそれに対する抵抗に向けられる過剰な暴力のおぞましさを、ローチはたった数分のシーンの中で、目を背けたくなるような克明さで描いてみせる。そしてこの場面がそれほどまでに衝撃的なのは、その何とも言えない緊迫感と生々しさゆえのものである。まるでドキュメンタリーのようなリアリズムなのだが、少なくともこの場面に限っては、他のいかなる描写手法もここまで密度の濃い内容を表現できるとは思えない。
以上ダラダラと書いてきたように、一人の視点からですらも評価の難しい作品だ。ただ一つ言えることとして、この映画のレビューは「英国人」と「アイルランド人」論に終始しがちだけれど、「政治的な議論をする」イコール「国/国民の表象を吟味する」ではない、あるいは、少なくともそれだけではないということだ。暴力について、暴力の表現と表象について、そして歴史を描くということについて、この映画は考えるべきポイントを無数に提供している。
そしてこれだけパワフルな作品を完成させた齢70のケン・ローチ、凄い人だと素直に思う。
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Comments
今晩は
はじめまして。TB&コメントありがとうございました。
ずいぶん色んなレビューを読みましたが、この作品に対してこれだけ詳細な検討をしたブログは他にないと思います。
僕は自分のブログで、この映画はイギリスの帝国主義とその重圧から自由になろうとするアイルランド人の抵抗運動を、アイルランド人の立場から描いたものだと強調しました。何かイギリス対アイルランドという図式でとらえるのは単純化であるかのような議論がまかり通っていると思ったからです。僕はこの大枠を決して曖昧にすべきではないと考えています。
Stephen Howe氏の指摘は面白いと思いますが、この種の議論は反イギリスの戦いを否定する目的で主張されているのかどうかという基本を確認しておく必要が必ずあると思います。たとえそうでないとしても、描かなかったことがそのまま「隠蔽」したことにはならないと思います。2時間の映画にすべてを描きこむことはできません。無理に入れ込んで散漫になるより、一番強調したいことをしっかり描きこんだからこそ強烈なインパクトを与えるのだと思います。
裏切り者に対する過剰な反応はどんな戦いにもあります。敵は拷問をしてでもアジトを突き止めようとするのですから、疑心暗鬼になりがちです。性的マイノリティに対する厳しい対応は「マグダレンの祈り」という映画でも描かれていますが、これはむしろアイルランドがカトリック国であるということと関係があることであって、その原因を独立戦争のみに還元はできないと思います。
初めてコメントしたのに批判がましいことを書いてしまいました。お許しください。それだけいろいろなことを考えさせられたレビューだったと思います。
ずいぶん色んなレビューを読みましたが、この作品に対してこれだけ詳細な検討をしたブログは他にないと思います。
僕は自分のブログで、この映画はイギリスの帝国主義とその重圧から自由になろうとするアイルランド人の抵抗運動を、アイルランド人の立場から描いたものだと強調しました。何かイギリス対アイルランドという図式でとらえるのは単純化であるかのような議論がまかり通っていると思ったからです。僕はこの大枠を決して曖昧にすべきではないと考えています。
Stephen Howe氏の指摘は面白いと思いますが、この種の議論は反イギリスの戦いを否定する目的で主張されているのかどうかという基本を確認しておく必要が必ずあると思います。たとえそうでないとしても、描かなかったことがそのまま「隠蔽」したことにはならないと思います。2時間の映画にすべてを描きこむことはできません。無理に入れ込んで散漫になるより、一番強調したいことをしっかり描きこんだからこそ強烈なインパクトを与えるのだと思います。
裏切り者に対する過剰な反応はどんな戦いにもあります。敵は拷問をしてでもアジトを突き止めようとするのですから、疑心暗鬼になりがちです。性的マイノリティに対する厳しい対応は「マグダレンの祈り」という映画でも描かれていますが、これはむしろアイルランドがカトリック国であるということと関係があることであって、その原因を独立戦争のみに還元はできないと思います。
初めてコメントしたのに批判がましいことを書いてしまいました。お許しください。それだけいろいろなことを考えさせられたレビューだったと思います。
コメントありがとうございます
とんでもありません。丁寧なコメントをいただけて、とても嬉しく思います。レスが遅くなったことをお詫びします。
わたしもこの映画は非常に力強い作品だと思っています。人がいかにして政治的になり、いかにして抵抗運動に身を投じていくのかという過程を、しんどくなるほどの丁寧さで描いている。ゴブリンさんのレビューを読んで、ああ、印象深いシーンがあそこにも、ここにもあったと、つぶさに思い出しました。そういう意味でわたしのレビューは、映画が訴えかけてくるメッセージにほとんど触れず、批判ばかりを挙げつらねた感があると思っています・・・。
いただいたコメントへお答えしますと、
まずレビューで触れたStephen Howeの議論ですが、おっしゃる通りこのような指摘は、帝国主義や植民地主義に対する抵抗運動じたいを総じて攻撃するような物言いに利用されうる危険をもっています。したがって注意深く扱わねばならない。強調しておきますが、わたしが言いたいのは、独立のための抵抗運動そのものが批判されるべきということではありません。独立戦争と内戦の混乱の中で、もし「独立アイルランドのために」という言葉の下に社会的な弱者が殺されていったのだとしたら、それは忘れられてはならないということです。そこにフォーカスすることで、「イギリス帝国主義批判」であるだけではなく、こんにちのアイルランド内部の保守派に対してもなお、批判的でありえたのではないか。(ですがおっしゃるように、一つの映画にそこまで要求するのは酷かもしれません。)
難しいのは、そうして犠牲になっていった人びとが、必ずしも「100%スパイではなかった」とは言い切れないことです。支配勢力側はえてして人の弱みにつけこんで抵抗勢力を鎮圧しようとするからです。この困難に、ローチはスパイとして処刑された貧しい少年のエピソードで、彼になしうるぎりぎりのラインまで迫ったと思います。ダミアンはこの少年を撃ち殺した後で、そこに大義などあるのかと問い、また少年の母から向けられた言葉に打ちのめされる。それは、原点に立ち戻った疑問や人間的な感情を、抵抗運動の中の人びとに持っていてほしい(持っていなければならない)という監督自身の願いが、ここでダミアンに投影されているからだと思います。
その願いはとても真摯なものでしょう。ただ、この映画が実在の歴史に立脚している以上、武装活動にたずさわった人びと、あるいは条約反対派がはたしてみなダミアンのようだったのかという疑問が残ります。映画ではローチは一貫してダミアン達のグループに「あるべき姿」を置いていました。ですが、たとえばジョーダンの『マイケル・コリンズ』が視点を置いたのは条約賛成派のほうです。『麦の穂』は作品の質において『マイケル・コリンズ』をはるかに凌駕していますが(笑)、二つを見比べたとき、歴史上の条約反対派を理想化していいのかという疑問が残りました。
「マグダレンの祈り」は未婚で性的交渉をもった女性たちに対する仕打ちを描いた映画ですね。たしかにアイルランドの性倫理は直接にはカトリシズムと結びついたものであって、それが独立思想に直結するとは思いません。婚前出産の女性うんぬんは、この作品のレビューで言及すべきではなかったかもしれません。
駄文、だらだらと長くなりまして申し訳ありません。また何か映画レビューを書きましたさいには、TBさせていただければ幸いです。
わたしもこの映画は非常に力強い作品だと思っています。人がいかにして政治的になり、いかにして抵抗運動に身を投じていくのかという過程を、しんどくなるほどの丁寧さで描いている。ゴブリンさんのレビューを読んで、ああ、印象深いシーンがあそこにも、ここにもあったと、つぶさに思い出しました。そういう意味でわたしのレビューは、映画が訴えかけてくるメッセージにほとんど触れず、批判ばかりを挙げつらねた感があると思っています・・・。
いただいたコメントへお答えしますと、
まずレビューで触れたStephen Howeの議論ですが、おっしゃる通りこのような指摘は、帝国主義や植民地主義に対する抵抗運動じたいを総じて攻撃するような物言いに利用されうる危険をもっています。したがって注意深く扱わねばならない。強調しておきますが、わたしが言いたいのは、独立のための抵抗運動そのものが批判されるべきということではありません。独立戦争と内戦の混乱の中で、もし「独立アイルランドのために」という言葉の下に社会的な弱者が殺されていったのだとしたら、それは忘れられてはならないということです。そこにフォーカスすることで、「イギリス帝国主義批判」であるだけではなく、こんにちのアイルランド内部の保守派に対してもなお、批判的でありえたのではないか。(ですがおっしゃるように、一つの映画にそこまで要求するのは酷かもしれません。)
難しいのは、そうして犠牲になっていった人びとが、必ずしも「100%スパイではなかった」とは言い切れないことです。支配勢力側はえてして人の弱みにつけこんで抵抗勢力を鎮圧しようとするからです。この困難に、ローチはスパイとして処刑された貧しい少年のエピソードで、彼になしうるぎりぎりのラインまで迫ったと思います。ダミアンはこの少年を撃ち殺した後で、そこに大義などあるのかと問い、また少年の母から向けられた言葉に打ちのめされる。それは、原点に立ち戻った疑問や人間的な感情を、抵抗運動の中の人びとに持っていてほしい(持っていなければならない)という監督自身の願いが、ここでダミアンに投影されているからだと思います。
その願いはとても真摯なものでしょう。ただ、この映画が実在の歴史に立脚している以上、武装活動にたずさわった人びと、あるいは条約反対派がはたしてみなダミアンのようだったのかという疑問が残ります。映画ではローチは一貫してダミアン達のグループに「あるべき姿」を置いていました。ですが、たとえばジョーダンの『マイケル・コリンズ』が視点を置いたのは条約賛成派のほうです。『麦の穂』は作品の質において『マイケル・コリンズ』をはるかに凌駕していますが(笑)、二つを見比べたとき、歴史上の条約反対派を理想化していいのかという疑問が残りました。
「マグダレンの祈り」は未婚で性的交渉をもった女性たちに対する仕打ちを描いた映画ですね。たしかにアイルランドの性倫理は直接にはカトリシズムと結びついたものであって、それが独立思想に直結するとは思いません。婚前出産の女性うんぬんは、この作品のレビューで言及すべきではなかったかもしれません。
駄文、だらだらと長くなりまして申し訳ありません。また何か映画レビューを書きましたさいには、TBさせていただければ幸いです。
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時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
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Please excuse my poor English -- I am still under training
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