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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by - 2024.05.17,Fri
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.12.20,Sat
 わたしは書物につけても音楽につけても理論につけても、ある一つのものにガァンとやられてしまうたちだ。「それ」に遭遇してしばらくは、まるで魔物にでも憑かれたかのように、「それ」のことばかり考えつづける。「それ」によってもたらされた世界観や価値観、美的感覚が、世の中すべてに当てはまるような気がしてしまう。
 そんな憑依状態は長くは続かない。せいぜい数ヶ月、長くて数年だ。嵐のようにやってきては沈静化していくそれらの大波は、だがわたしのライフストーリーをしるしづける道しるべとなる。本棚にそのタイトルを見つけるたび、わたしはそこで描かれたものに頭の先まで浸かっていた一時期を、懐かしさとこそばゆさが入り交じった感覚とともに思い出す。








 『マダム・エトワルダ』、正しく言えばこの本に併録された「眼球譚」は、そんな道しるべのひとつである。確かこれを読んだのは23のときだった。精神分析学的な「愛」と「欲望」の概念に、ちょっとかじっただけでありながらも素人なりに惹かれていたあのころ、この作品におけるフェティシズムの表現は、完全にしていっさいの余剰がないものに思われた。作品は学生である主人公が相棒シモーヌとともに冒涜とエロティシズムの道をひたすら探求していく様子をこれでもかこれでもかと描いたものなのだが、もっとも印象的だったのは物語のひとつの核であるマルセルの描写だった。彼女はシモーヌと主人公がアブノーマルなまでに入れ込む対象であり、おどおどしていて影響されやすく、美しい少女である。彼女はシモーヌのアンチテーゼであるとともに彼女と主人公が汚し破壊しようとする「純粋さ」(あくまでキリスト教的な意味での純粋さであり、処女性や純潔といった意味を包含する)の具現として描かれ、そういうものとして消費されていくかに見える。だが中盤で物語から降板したこのマルセルがのちに再登場するさまを読んで、わたしはこの物語がすべてこの少女、いな、より正しくはこの少女によって象徴されるものに支配されていたと知ることになった。「純粋さ」と「正しさ」を破壊しようとする冒涜とエロティシズムへの欲望は、まずもってそれらのアンチとして自己を確立せざるをえないという意味で、逆説的に「純粋さ」と「正しさ」の呪縛のなかにある。そのことを強烈に見せつけてくるのが、ラスト近くで主人公が、シモーヌのあられもなく開かれた裸の脚の間、牛の巨大な目玉が押し込まれた濡れた陰門のなかに、どこまでも青く透き通るマルセルの瞳を発見するシーンである。神に祈るための場所で神父を犯して殺す暴力のクライマックスで描かれるのは、欲望と冒涜的行為がその頂点にたっする瞬間、ずっと昔に通り過ぎたはずのマルセルの亡霊の支配下に主人公が引き戻されるということなのだった。「マルセル」は姿を変え、かたちを変え、彼らの欲望の究極の対象として連綿と現れつづける―あるいは、「マルセル」の幻影なくして彼らの欲望は存在しえなくなってしまったのだ。

 愛と欲望はあまねくフェティッシュなものであり、偶像化されたイメージへの執着である。そこにおいて人は、愛し欲望する個人や事物と関係をとっているよう「に見えて」、じつは自己のなかに作り上げられた象徴あるいは象徴的価値と関係をもっている「にすぎない」。当時の自分が考えていたそういうことを、この「眼球譚」は完璧に描いてくれたのだった。あるいは、上記の考え方そのものが、「眼球譚」を読んだ経験によってより明瞭になったのである。

 自分が生きてきた過程をしるしづける道しるべとなる書物や作品を、わたしは時折懐かしさとこそばゆさとともに思い出すと、そう冒頭に書いた。懐かしさとは過去になったもの、現在では失われたものに感じる慕情である。したがって、他の道しるべに示される時期と同様に、「眼球譚」に心酔した時期はわたしにとって過去のものになったのかもしれない。しかしながら、『ここで表現されていることだけがすべてである』というような極端な考えが潮が引くように去っていったのちも、やはりそれぞれの道しるべで見つけた感覚は、水面下で息づく無数の構成物となって、「わたし」という人間をなりたたせている。
 ただ、現在ならばわたしはもう上の段落のような書き方はしない。かわりに、人はつねに自己のなかに作り上げた象徴あるいは象徴的価値と関係を「もちながら」、愛し欲望する個人や事物と関係を「とっていく」のだと書くだろう。この小さくて大きな違いが、すなわちかつてのわたしと現在のわたしの違いなのだと思う。どちらがよりよきものなのか、わたしにはわからない。






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