本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.09.15,Fri
引越レポ続き。
そんなわけで、(どんなわけかはココとココ)見にいったおうち二軒両方ともわりと良くってどうしようかと迷っていたときに、ぼんやりしながら学生寮のキッチンで料理してたらフラットメイトが息せき切ってやって来た。やはりPhDをやっている、地中海沿いのとある一国からの留学生だ。彼もまた次に住む部屋を探していた。瞳を輝かしてその彼が言うには「ハナコ(仮名)にぴったりの物件を見つけた!」おや、自分の住むとこ探すのだって忙しいのに、わたしのために物件を探してくれたのかい。「違う、偶然だ、次にシェアすることになった人が今住んでる場所が、ハナコ(しつこいが仮名)にぴったりだって言ってるんだ。だから早く知らせなきゃと思って帰ってきたんだよ!」
なんだか言ってることが複雑だったが、実のところわたしのために急いで帰ってきたわけですらないと思われた。単にこいつの都合で帰ってきただけである。多分。いつもこういうちょっと大げさなもの言いをする奴なのである。
それはいいとして、彼は秋から家を他の学生とシェアするつもりらしいのだが、最近見つけたその未来のハウスメイトが大家と一緒に住んでいて、そこが週払いの非常にフレキシブルな条件だというのである。それをたまたま彼女から聞いて、わたしに知らせてくれたというわけだ。つまり彼女が出た後にわたしがそこに入れるだろうというのだ。
場所が大学からほど近かったこと(徒歩15〜20分ほど)、値段は予算より少し高めだが週払いなのでいつでも部屋を引き払えるというのが魅力で、見にいってみることにした。そのフラットメイトから彼女の携帯番号を教えてもらい、連絡。部屋を見せてくれることを快諾してくれた。
けっこう立派だなあというのが第一印象。家は三階建てで、ベースメントまである。イギリスの建物にけっこう多いこのベースメントと言う奴は、言ってみれば「半地下」である。地面から少し掘り下げた場所に部屋がしつらえてあって、一応その階の半分くらいは地面から出ているので、窓なんかもある。とっても良いコンディションとは言い難いが、窓があるから真っ暗でもないし、なにより夏に涼しいのはメリット。住むとなると話は別だが。
学生に貸している部屋はトップフロアすなわち三階の二部屋と、ベースメントの三・四部屋。でっかいおうちだなあ。家の中をあれこれ見て回っていると、なんかちっこい子供がおもちゃ片手にうろうろしている。どうやら大家夫妻は両方弁護士で、女性の方がいま子育て中かなんかで休業中ということらしい。まあつまりインテリかつ裕福な家庭なわけで、おっきなおうちもなるほど納得という感じなのだが、しかしこれだけ裕福インテリ家庭でも下宿人を住まわせるというのがイギリスのちょっと不思議な所なんだよなあ。やっぱり赤の他人と四六時中顔をつきあわせてるってのはめんどくさい人にとっちゃめんどくさそうだし、収入がそれなりにあるんだったら別に部屋貸さなくても良いような気もするんだけど。
ともあれ、見せてもらった三階の部屋はとっても豪華でした。12畳あったんじゃないかな。部屋の真ん中にダブルベッド。オレンジピンクの壁に、アンティーク風のクローゼット。窓の隣には大きめの鏡台があって、手洗いシンクもついてる。そのへんのB&B(ベッドアンドブレクファスト、朝食つきイギリス風民宿)より遙かに立派な部屋でした。
前に見た二軒より週あたり10ポンドほど高かったんだけど、ロケーションと部屋の立派さを考えれば高くはないかな、という気がした。それに、たとえば一ヶ月〜数ヶ月ほど帰国とか云々で部屋を空けるとしたら、その間荷物を置いたまんまでも家賃を半額にしてくれるという。それを考えると、最初に見た物件と総合してそんなに値段が変わらないことになる。
そんなわけでまたしても「ここにしようかな」と気持ちが動いていたわけだが、どうも話を聞くと大家はまだその部屋を次の人間にも貸すかどうかを決めていないらしい。そんで、もしその三階の部屋を貸さないとすると、ベースメントの部屋に住むことになるんだとか。えっ・・・でも、大学の研究室とかならまだしも、住むのだとしたらやっぱり明るくて風通しの良い場所がいいんですけど。えーと、半地下だと値段安くなるんでしょうか。えっ同じ値段!?それ条件違いすぎませんか。だって地下っすよ。地下室。
なんか超適当な値段設定であることが発覚。「三階なら住みますが、ベースメントだとちょっと即答できません」つって帰ってきた。だって半地下なんかに住んだら『地下室の手記』みたいなドロドログチャグチャ混沌とした自我が部屋いっぱいに膨らんで飛び出す絵本のアリスみたいになりそうじゃないか(飛び出す絵本のアリス)。とにもかくにも地下室ってどうもオカルトな雰囲気ありませんか。ポーでも黒猫が塗り込められてたの地下室ですよね。なんかじめじめして蠱惑的な匂いがある。(蠱惑的なのかよ)
結局二週間後くらいに電話があって、三階を貸すのは止めたという。子ども達のために新しい部屋が欲しいんだとか。というわけで、三軒目は選択肢から消失。
そんなわけで、結局現在住んでいるのは二軒目です。近くに広い広い公園があるところ。結局なにが決め手になったんだったかは忘れた。あ、そうだ、一軒目は早めに答えをくれと言われてたんで、三軒目の可能性がまだあった時に断ってしまったんですな。あそこは猫と暖炉が良かったなあ。猫・・・(未練)
まあ、でも住んで一週間ちょいになりますが、かなりいまんとこ満足してます。大家夫妻も最初の印象よりさらに付き合いやすそうな人たちだ。眺めも良いし、静かだし、まわりに可愛いおうちもあるし、なかなか良い。天気の良い日には小さなお庭に出てトースト・目玉焼き・トマト・コーヒーのお昼ごはん食べたりしてます。なかなか良いです。
そんなわけで、とあるイングランドの街に住むとある学生の引越レポートでした。総合的な印象としては、三軒、どのおうちもそれなりに魅力的で、それなりに個性が違って面白かったです。ちょっと色々研究上の都合でまた何回か引っ越しすることになると思うんだけど、また大家さんと住むとこにしようかなと思ってる。人の日々の生活に入り込み、それを肌で感じることを面白いと思うあたり、やっぱり自分は社会文化系の人間なんだなあと思う。それに加えてもうちっと読み物・書き物する集中力も持ってたらもう少しまともな研究できそうなんですけどねえ。むう。
話のついでに紹介。大学三年くらいのときに貪るように読んだ記憶。自意識過剰であることに自意識過剰な自意識のありようを書いた小説。自分と世の中の双方を馬鹿にしきった自分を、さらに嘲りながら、入れ子構造状に内向きに落ち込んでゆく自我——その自分がたった一こまの他人との触れ合いで大きく揺らぐさまが描かれている。だが自虐の浅薄な快楽の中にどっぷりと耽溺しつくした主人公は、結局その揺らぎを受け入れられず、その人をとりかえしようもなく傷つけてしまう。滑稽で愚かしい、小さな悲劇。
はじめて読んだときは前半数十頁にわたって繰り広げられる自嘲的な自意識の描写こそが小説の要だと思っていた。自分が誰なのかという問いに答えようと自分自身を覗いたときに我々の目が映すのは、合わせ鏡がたがいにたがいを無限に映し出す、非-創造的な閉じた光景である。そうして、その鏡と鏡の奥の奥の奥を目をこらして覗いたところで、結局最後の最後まで自我はとらえられない。先にも書いたように、自分自身という深淵を覗こうとしたとき、それをさらに見つめる自身の視線が存在するからだ。すなわち自我とはつねに自分の把握の外に漂っているものなのである。「我」を問うことのそうした不毛さを、「我」を演じるその外に取り残される自我の孤独を、ドストエフスキーの描写は的確に、皮相的な言葉遣いで描き出しているように思えた。
その描写自体を評価していることは、いまでも変わりない。だが、この小説のすぐれた所はただそれだけにあるのではない。言ってしまえば、そうした自我のありさまを書いたところで、若い精神が陥りがちな傲慢な内的世界のひとひらを切り出すことにはなりえても、それだけである。それは単なるデッサンであり、立体的なストーリー/ドラマにはなりえない。終わりなく回り続ける自意識の描写と、ささやかで惨めな他人とのふれあいを描いた後半部分を並置することで、はじめてこの小説はある種の「浅はかさ」の味を、ざらざらして酸いその味を、表現しえているのではあるまいか。
しっかしアマゾンってわたしが紹介しようかと思う本ことごとくNo Imageだわー。なんでだ?
そんなわけで、(どんなわけかはココとココ)見にいったおうち二軒両方ともわりと良くってどうしようかと迷っていたときに、ぼんやりしながら学生寮のキッチンで料理してたらフラットメイトが息せき切ってやって来た。やはりPhDをやっている、地中海沿いのとある一国からの留学生だ。彼もまた次に住む部屋を探していた。瞳を輝かしてその彼が言うには「ハナコ(仮名)にぴったりの物件を見つけた!」おや、自分の住むとこ探すのだって忙しいのに、わたしのために物件を探してくれたのかい。「違う、偶然だ、次にシェアすることになった人が今住んでる場所が、ハナコ(しつこいが仮名)にぴったりだって言ってるんだ。だから早く知らせなきゃと思って帰ってきたんだよ!」
なんだか言ってることが複雑だったが、実のところわたしのために急いで帰ってきたわけですらないと思われた。単にこいつの都合で帰ってきただけである。多分。いつもこういうちょっと大げさなもの言いをする奴なのである。
それはいいとして、彼は秋から家を他の学生とシェアするつもりらしいのだが、最近見つけたその未来のハウスメイトが大家と一緒に住んでいて、そこが週払いの非常にフレキシブルな条件だというのである。それをたまたま彼女から聞いて、わたしに知らせてくれたというわけだ。つまり彼女が出た後にわたしがそこに入れるだろうというのだ。
場所が大学からほど近かったこと(徒歩15〜20分ほど)、値段は予算より少し高めだが週払いなのでいつでも部屋を引き払えるというのが魅力で、見にいってみることにした。そのフラットメイトから彼女の携帯番号を教えてもらい、連絡。部屋を見せてくれることを快諾してくれた。
けっこう立派だなあというのが第一印象。家は三階建てで、ベースメントまである。イギリスの建物にけっこう多いこのベースメントと言う奴は、言ってみれば「半地下」である。地面から少し掘り下げた場所に部屋がしつらえてあって、一応その階の半分くらいは地面から出ているので、窓なんかもある。とっても良いコンディションとは言い難いが、窓があるから真っ暗でもないし、なにより夏に涼しいのはメリット。住むとなると話は別だが。
学生に貸している部屋はトップフロアすなわち三階の二部屋と、ベースメントの三・四部屋。でっかいおうちだなあ。家の中をあれこれ見て回っていると、なんかちっこい子供がおもちゃ片手にうろうろしている。どうやら大家夫妻は両方弁護士で、女性の方がいま子育て中かなんかで休業中ということらしい。まあつまりインテリかつ裕福な家庭なわけで、おっきなおうちもなるほど納得という感じなのだが、しかしこれだけ裕福インテリ家庭でも下宿人を住まわせるというのがイギリスのちょっと不思議な所なんだよなあ。やっぱり赤の他人と四六時中顔をつきあわせてるってのはめんどくさい人にとっちゃめんどくさそうだし、収入がそれなりにあるんだったら別に部屋貸さなくても良いような気もするんだけど。
ともあれ、見せてもらった三階の部屋はとっても豪華でした。12畳あったんじゃないかな。部屋の真ん中にダブルベッド。オレンジピンクの壁に、アンティーク風のクローゼット。窓の隣には大きめの鏡台があって、手洗いシンクもついてる。そのへんのB&B(ベッドアンドブレクファスト、朝食つきイギリス風民宿)より遙かに立派な部屋でした。
前に見た二軒より週あたり10ポンドほど高かったんだけど、ロケーションと部屋の立派さを考えれば高くはないかな、という気がした。それに、たとえば一ヶ月〜数ヶ月ほど帰国とか云々で部屋を空けるとしたら、その間荷物を置いたまんまでも家賃を半額にしてくれるという。それを考えると、最初に見た物件と総合してそんなに値段が変わらないことになる。
そんなわけでまたしても「ここにしようかな」と気持ちが動いていたわけだが、どうも話を聞くと大家はまだその部屋を次の人間にも貸すかどうかを決めていないらしい。そんで、もしその三階の部屋を貸さないとすると、ベースメントの部屋に住むことになるんだとか。えっ・・・でも、大学の研究室とかならまだしも、住むのだとしたらやっぱり明るくて風通しの良い場所がいいんですけど。えーと、半地下だと値段安くなるんでしょうか。えっ同じ値段!?それ条件違いすぎませんか。だって地下っすよ。地下室。
なんか超適当な値段設定であることが発覚。「三階なら住みますが、ベースメントだとちょっと即答できません」つって帰ってきた。だって半地下なんかに住んだら『地下室の手記』みたいなドロドログチャグチャ混沌とした自我が部屋いっぱいに膨らんで飛び出す絵本のアリスみたいになりそうじゃないか(飛び出す絵本のアリス)。とにもかくにも地下室ってどうもオカルトな雰囲気ありませんか。ポーでも黒猫が塗り込められてたの地下室ですよね。なんかじめじめして蠱惑的な匂いがある。(蠱惑的なのかよ)
結局二週間後くらいに電話があって、三階を貸すのは止めたという。子ども達のために新しい部屋が欲しいんだとか。というわけで、三軒目は選択肢から消失。
そんなわけで、結局現在住んでいるのは二軒目です。近くに広い広い公園があるところ。結局なにが決め手になったんだったかは忘れた。あ、そうだ、一軒目は早めに答えをくれと言われてたんで、三軒目の可能性がまだあった時に断ってしまったんですな。あそこは猫と暖炉が良かったなあ。猫・・・(未練)
まあ、でも住んで一週間ちょいになりますが、かなりいまんとこ満足してます。大家夫妻も最初の印象よりさらに付き合いやすそうな人たちだ。眺めも良いし、静かだし、まわりに可愛いおうちもあるし、なかなか良い。天気の良い日には小さなお庭に出てトースト・目玉焼き・トマト・コーヒーのお昼ごはん食べたりしてます。なかなか良いです。
そんなわけで、とあるイングランドの街に住むとある学生の引越レポートでした。総合的な印象としては、三軒、どのおうちもそれなりに魅力的で、それなりに個性が違って面白かったです。ちょっと色々研究上の都合でまた何回か引っ越しすることになると思うんだけど、また大家さんと住むとこにしようかなと思ってる。人の日々の生活に入り込み、それを肌で感じることを面白いと思うあたり、やっぱり自分は社会文化系の人間なんだなあと思う。それに加えてもうちっと読み物・書き物する集中力も持ってたらもう少しまともな研究できそうなんですけどねえ。むう。
ドストエフスキー, 江川 卓 / 新潮社(1969/12)
Amazonランキング:15,578位
Amazonおすすめ度:
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ドストエフスキーの問題意識がつまった小説
地下室の住人の思想とは…
典型的観念小説
地下室の住人の思想とは…
典型的観念小説
話のついでに紹介。大学三年くらいのときに貪るように読んだ記憶。自意識過剰であることに自意識過剰な自意識のありようを書いた小説。自分と世の中の双方を馬鹿にしきった自分を、さらに嘲りながら、入れ子構造状に内向きに落ち込んでゆく自我——その自分がたった一こまの他人との触れ合いで大きく揺らぐさまが描かれている。だが自虐の浅薄な快楽の中にどっぷりと耽溺しつくした主人公は、結局その揺らぎを受け入れられず、その人をとりかえしようもなく傷つけてしまう。滑稽で愚かしい、小さな悲劇。
はじめて読んだときは前半数十頁にわたって繰り広げられる自嘲的な自意識の描写こそが小説の要だと思っていた。自分が誰なのかという問いに答えようと自分自身を覗いたときに我々の目が映すのは、合わせ鏡がたがいにたがいを無限に映し出す、非-創造的な閉じた光景である。そうして、その鏡と鏡の奥の奥の奥を目をこらして覗いたところで、結局最後の最後まで自我はとらえられない。先にも書いたように、自分自身という深淵を覗こうとしたとき、それをさらに見つめる自身の視線が存在するからだ。すなわち自我とはつねに自分の把握の外に漂っているものなのである。「我」を問うことのそうした不毛さを、「我」を演じるその外に取り残される自我の孤独を、ドストエフスキーの描写は的確に、皮相的な言葉遣いで描き出しているように思えた。
その描写自体を評価していることは、いまでも変わりない。だが、この小説のすぐれた所はただそれだけにあるのではない。言ってしまえば、そうした自我のありさまを書いたところで、若い精神が陥りがちな傲慢な内的世界のひとひらを切り出すことにはなりえても、それだけである。それは単なるデッサンであり、立体的なストーリー/ドラマにはなりえない。終わりなく回り続ける自意識の描写と、ささやかで惨めな他人とのふれあいを描いた後半部分を並置することで、はじめてこの小説はある種の「浅はかさ」の味を、ざらざらして酸いその味を、表現しえているのではあるまいか。
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怠け者のちいさなやもりですが色々ぶつぶつ言うのは好きなようです。
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
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