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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2009.04.11,Sat




・ローマ市内散策

 というわけで、思った以上に長くかかってしまったヴァチカン美術館の見学だったわけだが、気分を切り替え、残りの午後はローマの古い町並みをうろうろすることにする。
 歩いてみて思ったことだが、このローマという都市は、古代から中世、近世、そして二十世紀の大変動と、さまざまな時代の層のかけらに街のそこかしこで同時に触れることのできる、不思議な街だ。何十年も営業してきたらしい老舗のカフェや店の並ぶせまい通りがゴチャゴチャと続いたかと思えば、突如ドーンと広場が眼前に開け、そこには古代ローマ時代に建設され、その後中世にはキリスト教の教会として使用されたという巨大なドームがそびえ立っていたりする。現代的な都市としての表皮のところどころがほつれて、数百年前の物語が顔を出し、さらにその中世物語の裂け目のむこうに、数千年前の神話の遺骸が垣間見えるのだ。この街において、歴史と時代とは文字通り地層をなして日常の下に埋まっている。観光客として街をフラフラ歩くわたしたちの目にも、それらの痕跡はふとした拍子で飛び込んできて、時間と歴史についての想像力をいやというほど喚起してくれる。





 たとえばこんな建物を見た。古びたバール(喫茶店・兼・酒場)として使われていたのが、しばらく前に閉店でもしたのだろうか。塗料の色あせたピンク色が、一昔前の時代感を漂わせている。
 ただ、注意すべきは「Bar ToTo」の看板の右隣にある奇妙な模様だ! なんだこれは、と近づいてよく見てみると



なんと! しっくいと塗料の下から、かつてその建物に刻まれていたらしい装飾彫刻と碑文とが顔を見せている。ローマ時代のものらしく見えるが、わたしは専門家ではないので、わからない。ローマの影響を受けた中世、ルネッサンスのものかもしれない。どちらにせよ、ずいぶんと歴史のある建物であることは確かのようだ。数百年前の建築なのだろうか? それにしても、もう少しまともに漆喰や塗料を塗れなかったのかねえ……古代の装飾を活かすんなら活かす、あるいは完全に塗りつぶす、のどちらかにするのが普通だと思うが、あまりに中途半端で、ちょっとホラーですらある。




 そしてこれは、ローマ時代に建造されたという劇場を、いまも使用中の建物の土台として使っている例だそうです(と、近くの看板に書いてあった)。いかにも年月を経たっぽい、いくつものアーチからなる部分がローマ時代の土台。その上の赤煉瓦が現在使用中の部分かな? それにしても二千年を経ていまだに使える土台を建てるとは、ローマの文化って恐ろしい。それも、当時の科学技術でだよ……。
 ちなみに、この「ローマ時代の建築を現在の建造物の一部として使用する」というのは、かつてローマ帝国の支配下にあった地域のあちこちで見られるようだ。実はイギリスの古都カンタベリなんかでも、ローマ時代に建造された市壁の一部が、中世や近世の修復や立て直しを経て、現在でも残っていたりする。(この写真については今度カンタベリのエントリを書いたときにアップしますです。)


 市内をうろうろしているとあっというまに暗くなってきた。気づけば偶然にもローマきっての観光名所のひとつ、トレヴィの泉の近くに来ている。あの、後ろ向きにコインを投げ入れると願いが叶うとかいうおまじないで有名な泉です。同行の友人が、ローマに来た記念にどうせだから行ってみようというので、そちらへ向かう……が、泉のある広場から数百メートル離れた時点で既になんだかものすごい

人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人!!!

人の熱気が

つたわってきます


うわあー




 混んでいる などという言葉で言い尽くせる生易しさではありませんでした。さすが世界のトレヴィの泉! もうすっかり日は暮れているというのに、噴水に近づけないほどの人だかりです。
でもなんかあんまり人が多すぎて、逆におもしろかった。


 翌日はとうとうローマを離れる日。飛行機は夕方だったので、午前中いっぱいと、午後の早い時間はまだ観光に使えます。ということで、この日は二カ所、エトルリア博物館と「骸骨寺」を見て回りました。



・エトルリア博物館

 エトルリアとは、古代ローマ以前にイタリア半島とコルシカ島に居住していたと言われる民族である。インド・ヨーロッパ系の言語文化とは異なる、独自の言語体系をもった民族だったと言われるが、その言語はまだ完全に意味が解明されておらず、その文化や歴史の多くは謎に包まれているらしい。現在残っているエトルリア文化についての記述のほとんどすべてが、エトルリア人がローマに同化吸収されたのち、ローマ人やギリシア人によって書かれたものだそう。
 Museo Nazionale Etrusco di Villa Giuliaでは、このエトルリアの美術品を多く見ることができます。とくに豊富なのは、墳墓の遺跡から発掘された埋葬品や副葬品のたぐい。残念ながら写真撮影が禁止だったので、またしてもウェブ上にすでにある写真を使っての説明となりますが、なかなかに神秘的で興味深かったー。イタリア中にあふれる、いかにも「文明!」といった感じの古代ローマ美術とはまた違った、素朴なんだけれども洗練されていて、だけども魔術的な趣もそなえた芸術文化で、個人的にはかなり好みでした。

 この博物館に収蔵されたエトルリア美術のうちでもっとも有名なのが、「夫婦のサルコファガス」と呼ばれるテラコッタ(素焼きの陶器)の石棺だと思います(写真はこちら)。わたしはこの棺の写真、高校の世界史の教科書で見た気がします。アルカイック・スマイル(古代の微笑)と呼ばれる、達観したような独特の微笑みが不思議な感じ。全面ガラスケースに入って厳重に守られていましたけれど、実物はなんだかこう、独特の存在感があったなあ。



・「骸骨寺」SANTA MARIA IMMACOLATA CONCEZIONE

 エトルリア博物館をのんびり見ていたら、いつのまにかすっかりお昼。あと一カ所くらい見れるかなあということで、最後は骸骨寺に向かう事にします。

(たしか朝最初に行ったらちょうど閉館時間に当たってしまったので、それでエトルリアを先にしたんだったかな? この骸骨寺に行かれる方は、観光者用に開放している時間帯をしっかり調べることをおすすめします)

 「骸骨寺」というこの名称はもちろん、通称です。本当の名は聖マリア・イマコラータ・コンツェツィオーネ教会。17世紀に建てられたこの教会がこの通称で知られているのは、地下の納骨堂の装飾にあります。その装飾というのが……えっと地下は全面撮影禁止だったので、ウィキメディアの写真へのリンクを貼ることにいたしますけれども、


 これ

 や

 これ


なんかであります……



 つまり、地下の室内装飾がすべて 人骨 でできてるんですね。ヨーロッパの教会でよく見る天井や壁の紋章だとか、アーケードや門の真ん中にある天使の顔の彫刻だとか、ああいうのがすべて 人骨 でできているわけです。なんでも、1500年から1870年のあいだに亡くなった修道士、4000人の骨を集めて作ってあるそうです。
 この骸骨寺、子どもの時からホラーとお餅とチーズが好きで好きで好きで好きでたまらなかった私としては、実物を目にしてみたくてたまらなかったわけです(餅とチーズ関係ない!)。一回目のローマ来訪のときも強く観光を希望したのですが、同行人に却下されまして……二度目にようやく悲願あいなったというわけです。しかしポンペイならまだしも、この骸骨寺にしつこく行きたがる私ってなんなんだろう……ホラーミーハーでごめんなさい……

 それにしても、実物は圧巻というか、不気味というか、ホラーマニアの私にとってすら、もうワケワカメの世界だったなあ……。なんか、システマティックというかルールすらあるのだ、骨の並べ方に。たとえばある部屋のある壁一面は、ぜんぶ肋骨だけを使って統一性のある模様を作り出す とか。ある部屋のある天井は、全部尾てい骨だけで装飾文様が形作られている とか。適当な並べ方じゃないのだ。なんかそれがすごかった。
 現代の感覚で言えば、羊たちの沈黙に出てきたみたいな、「人の皮膚で服を作る」とか、そんなのに近い感じがするんですけれども、当時はこれがまっとうな宗教的美術として認められていた……のかなあ。それとも当時も妄執的なプロジェクトとしてとらえられていたんでしょうか……
 たいして大きくもない教会の、それも地下なのでかなり狭くて、装飾の骨も手を伸ばせばすぐに届きそうな位置にあるんですけどね。たぶん30分あれば全部屋見る事ができるかな?
ウィキペディアによりますと、サド侯爵がこの納骨堂を1775年に訪れたときには、「こんなに強烈なものを今まで見た事がない」とかおっしゃったそうでございますよ。
 
 納骨堂の壁にはこんな文句が書かれておりました

 Quod fuimus, estis; quod sumus, vos eritis.

 解説の英訳によりますと、これは「What we were, you are; what we are, you will be」(我々はかつておまえが今あるところのものだった。そしておまえはいずれ、我々が今あるところのものになる)という意味の文句だそうです。むむう、これは中世後期から近世に流行った「死の舞踏」芸術によく付された文句でありますね。とすると、このよくわからない妄執を感じさせるホネホネアートも、「死の舞踏」美術と同様、「富める者も貧しき者も、老いも若きも男も女も、みんないずれ死ぬのだ」という厭世観を伝えるためのものということなのでしょうか? しかし遥かにそれを超えた執念みたいなものが伝わって来るのですが……。



 というわけで、七日間のイタリアの旅も終わり。名残惜しいけれどもローマの空港から家へと帰ります。そういえば、行きにチャンピアーノ空港(イージージェットはこの空港を使う)からローマ市内に来るときに、ローマの喫茶店のコーヒーただ券をもらったんですが、バタバタしていて結局使わずじまいだったなあ。もったいない。

 それにしても、死の都ポンペイから始まり、ローマの地下墓地カタコンベ、エトルリア文化の葬祭芸術、骸骨寺の骨細工と、墓地と死をめぐる旅だったなあ。ある意味では遺跡めぐりというのは、悠久の歴史のなかで堆積してきた「死」の地層をひとつひとつ確かめて、各時代の死の臭いを感じとる旅でもあるような気がする。遺跡というのは、畢竟「かつてあったけれども、今はもう失われたもの」であり、「その破片を通じてかつての完全な姿を想像させるもの」なわけだ。その「昔」と「今」とのギャップはいつでも、過ぎ去ったもの、壊れさったもののイメージであるがために、死の観念と結びついている。わたしが遺跡めぐりが好きなのは、たぶん色々な建築や、石ころや、あるいは風景を通してふと垣間見える時代の死、文明の死、そして歴史の移り変わりの感覚に惹かれているからなんだと思う。



 というわけで、以上、2007年11月のイタリア旅行記でした。今回のエントリで終わり……と言いたいところなんですが、あと1エントリだけ設けて、宿泊・食事などの技術的な記録を残しときたいと思います。





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