本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.07.06,Sun
もう大分前というか半年も前になるのだが、友人が「面白いよ」と言っていたのと、個人的にヴェルナー・ヘルツォーク映画はけっこう好きなので、見に行ったRescue Dawn (2007) 。最終日だったのを覚えている。
ベトナム戦争のさなか、ドイツ生まれの青年アメリカ海軍兵ディーターの飛行機は、敵軍の砲撃を受けてラオスの密林の中に墜落、大破。燃え上がる飛行機からなんとか逃げ出したディーターは、密林に隠れつつ味方の救出を待とうとするが、旗を振れども火を燃やせども、空を行き交う味方はちっとも気づいてくれない。かわりに敵の現地兵に見つかってしまう。密林の小屋に監禁されるディーターだったが、同じく囚われている他のアメリカ兵としだいにうち解けていく。なぜ空軍兵になったんだと聞かれ、ディーターは昔、ドイツの空を飛んでいたアメリカ軍の飛行機を見上げていて、そのパイロットと目が合ったのだと答える。「やつはたしかにおれを見てた。そのときわかった。ちっちゃなディーターは、空を飛ばなきゃならなかったんだ・・・」
「野蛮な現地兵」に小突き回され、虫の混じった飯を食わされながらも、彼らは少しずつ、脱出作戦を組み立てていく……。
って、こうあらすじだけを書くとふつうの戦争映画に見えるが、まともにすすんでいきっこない。なにしろヴェルナー・ヘルツォークは変人監督である。さらには、彼の撮る映画にも、まともな人間というのがまず出てこない。登場人物はみな頭の線が一本、二本、切れた奴らである。『フィツカラルド』と『アギーレ 神の怒り』で主人公をやったクラウス・キンスキーのいかれっぷりは誰の記憶にも鮮やかに焼き付くものであろう。すでに変人の域を通り越して変態に近い。ただし、性のニュアンスの欠落した変態である。
最新作のこの『レスキュー・ドーン』もそうだ。iMDbのサイトの読者レビューによれば、ヘルツォークのなかではもっとも大衆受けしやすい作品とのことだし、まあそうかもしらんとも思うが、それでも映画に出てくる奴は一人残らず、どこかがいかれている。主人公のディーターからにしてかなりイってしまっている。このあらすじで普通の映画監督が撮れば、勇敢で熱いアメリカンなヒーロー物にしかなりえないと思うのだが(まあヴェトナム戦争でそれをやられるとモラルの問題として唖然とするほかないが)、この万歳アメリカな脱出劇で、主人公の「イッちゃってる感」をよくもこれほど醸し出せたものである。ビバ変人ヘルツォーク!
ディーター役の俳優クリスチャン・ベール(Christian Bale)の演技は印象的だ。この俳優はものすごい勢いで減量と増量をくりかえせるというヘンテコな名声をもつ俳優らしいが、その特技は本作のなかでも存分に発揮されている。米軍飛行機のなかでピッカピカな健康的笑顔を見せるディーターと、密林のなかでさまよい、やつれはて、妄想にとらわれていく脱走兵ディーターとのギャップがすごい。飛行機乗りになった動機を語る、上述の「ちっちゃなディーターは空を飛ばなきゃならなかったんだ……」の台詞のときの目も、少年の日の夢のキラキラ感を通りこして、狂気の笑みに近い。
ディーターを取り巻く他のアメリカ兵たちも、どこか常規を逸している。フリークス好きのヘルツォークの演出らしく、彼らはその「ぱっと見」からして「おかしい」。ジーンの視線やしぐさは卑屈かつ横暴かつコミュニケーション不全な人間のソレだし、もう少し話のわかるデュアンにしてからが、異様なオドオドっぷりを四六時中見せていて、こいつ大丈夫なのかと思ってしまう。
この映画の面白い点は、じつはこのヘルツォークの「フリークス好き」という、倫理的にあやうい嗜好から産み出されている。つまり彼らはみな、人間が誰しも持つであろう「ちょっと変」なところ、「ちょっと不快」なところを最大限に誇張されたキャラクタなのだ。そしてまた、極限状態に置かれた人間達がいかに「人間でないもの」になるか——それを伝える登場人物でもある。「ふつうの人間」と「フリークス」の境界なんて、そんな絶対なものではない。われわれだって明日にもフリークスになりかねないのだ。
ヘルツォークの映画にポリティカル・コレクトネスなるものは存在しない。あるいは、通常ポリティカル・コレクトネスとして想像されるようなものは存在しない。ポリティカル・コレクトネスとは、人権やマイノリティ、南北格差などの社会問題にあたって良くも悪くも「政治的に正解」(良い子ちゃん)な態度をとることをさして言う語だ。「文化交流」が声高に(だが薄っぺらく)叫ばれる昨今の潮流に反し、ヘルツォーク映画に登場する異人たちは、たとえば『フィツカラルド』のラテンアメリカ先住民がそう描かれたように、最初から最後まで徹底的に理解不可能でコミュニケーション不可能な「謎の動物」だ。彼らはこちらが何かを言ってもぼうっと腑抜けたように突っ立っているだけで、かと思えば突然なんの脈絡もなく凶暴に暴れ出す。
この『レスキュー・ドーン』に登場する現地人(ラオス人になるのかな)もまた、その例に漏れない。彼らは暴力的な妖怪であるか、白痴であるかのどちらかで、いずれにせよアメリカ人すべてを心の底から恐れ、憎んでいる。お世辞にも、教育上よろしい映画ではありえない。まっとうな人間が見たって気分を悪くする演出はあるのではないかと思う。
かくいう私も(自分がまっとうであるかどうかは知らないが)、「これはちょっと……」と引いた場面が多々あった。内容のない「国際交流」スローガンはクソ馬鹿馬鹿しいけれども、文化の違いを真剣に考えることそのものが「つまんない優等生」にひっくるめられて揶揄される状況もまた、クソ忌々しいと私は感じるのであって、そんななかで、人種的・文化的ステレオタイプをそのままに開き直って出されると、かなり引いてしまうのだ。だがこの映画を論じるさいに忘れてはならないのは、主人公たち自身がまさに「フリークス」であるという点だろう。「理解できない、無能な、時として凶暴に暴れ出す異人」は、ラオスの兵やそこに暮らしていた人々にとってみれば、彼らアメリカ兵の姿にほかならないのだろう。
他の多くのヘルツォーク作品と同様、この映画にも「性」に対する視線は徹頭徹尾欠落している。ここにあるのは100%男臭で満ち満ちたロマンであり、そこには甘酸っぱさも恋も愛も、肉欲情欲すらない。
歴史的に見て、女のロマン(ロマンス)はつねに男との関係性の中で語られてきた。だが男のロマンは男だけで完結している。むしろ、女の影を完全に排除し、女の入る隙間を完全に封じたものこそが、純度の高い、硬派な男のロマンと見なされている(『アラビアのロレンス』)。ただし――多く指摘されてきたように――女の臭いを完全に消し去るというのは、それじたい女との関係性のありかたである。それがゆえにかどうかは知らないが、女の純愛ロマンスに独特の夢見がちなエロチシズムがあるように、男の純硬派ロマンスにも独特の夢見がちなエロチシズムがある。性の欠落と言うエロチシズムが。最大の快楽と陶酔と興奮、言い換えれば「最高に『ハイ!』ってやつだァァァー」を、性的関係ではなく野望と理想で実現するという、あまりにも夢見がちなエロチシズムが。
そういう硬派な男のロマンと異様なエロチシズムを我が身でもって体現しているから、ヘルツォーク作品の登場人物はいずれも変態なのだ。なお、わたしがここで言っているのは『男同士の絆』でセジウィックが分析したようなホモソーシャルなエロチシズムではない。あれが秀逸な分析であることに疑いはないが、少なくともヘルツォークにある男のロマンのエロチシズムは、それではない。彼のエロチシズムはヘテロであれホモであれ、セクシュアルですらない。情欲とか色欲とか肉欲とかよりずっとずっと原始的な何かなのだ。
そこにはフェロモンが存在しない。アドレナリンだけがある。ヘルツォークの映画にあるのは、エロティックな刺激で達するオーガズムではなく、頭の切れちゃった野望のひたすらな『過剰感』で達するオーガズムだ。
この作品『レスキュー・ドーン』においては、その野望とは「生き残ってやる」という欲望だった。ここにおける密林と峡谷の映像は、ディーターの間近に迫る死とは裏腹に、圧倒的な神秘と生命の迫力に満ちている。ヘルツォークの描く自然は田園牧歌的なものではない。次の瞬間には巨大なあぎとを開き、大なめくじのような舌を伸ばして人間を頭から丸かじりにしているような、そんな貪欲な自然である。そのなかで狂ったように生に固執しつづけるディーターも、また人間的な意思を失い、怪物・獣と化していく。この荒々しくも驚異に満ちた自然の映像はヘルツォークの十八番であるけれども、いつもながらに凄まじい。息を呑むほど美しく、かつ凄まじい。
じつのところ、この映画のラストはわたしにとって意外なものだった。最後の最後の最後まで、私は「どんでん返し」を期待しつづけて見ていたのだ。なぜならラスト数十分の演出は、あまりにも、度を超したレベルで嘘くさかったからである。
いまになって考えてみれば、この嘘くささがヘルツォークらしさなのかもしれない。この映画の筋は、先にも書いたように、「戦地で必死に闘い抜いた勇敢なお国のヒーロー」の物語であるのだが、映画や主人公たちの迫力が最高潮に達するのは、サバイバルの最中の狂気にあるのであって、それに比べればその後に「国」や「軍」が「お国のヒーロー」に拍手喝采するシーンなどは、笑ってしまうほど白々しいものでしかありえないのだ。
だからだろう、あらすじから予想されるのはどう考えても「愛国戦争映画」なのに、この映画から受ける印象はどうもそういうものにはなりえない。もし『米国愛国映画作品リスト』なるものがあったとしたら、その選考委員に「いやちょっとごめんなさい、コレは駄目ですねえ。いやなんでって、駄目なもんは駄目だから」と言って謝られそうな感じの、そんな作品なのである。
さて、以上、さんざんに(ある意味褒めてるんだけど)エキセントリック扱いしてきたこの映画だが、なんと実話にもとづいているというから驚く。このアメリカ兵ディーターは実在の人物なのだ。さらに調べると、ヘルツォークがじきじきに本物のディーター・デングラー氏にインタビューして組み立てたお話らしい。
さらに、なんと、このインタビューをドキュメンタリー映画にしたものがあるらしく、その題名も”Little Dieter Needs to Fly(ちっちゃなディーターは飛ばなきゃならないんだ)”。この台詞、デングラー氏本人が語った言葉なんだな。このドキュメンタリーを見てみたい気もするんだけど、近くのDVDレンタル屋にないんだよね……。
「野蛮な現地兵」に小突き回され、虫の混じった飯を食わされながらも、彼らは少しずつ、脱出作戦を組み立てていく……。
って、こうあらすじだけを書くとふつうの戦争映画に見えるが、まともにすすんでいきっこない。なにしろヴェルナー・ヘルツォークは変人監督である。さらには、彼の撮る映画にも、まともな人間というのがまず出てこない。登場人物はみな頭の線が一本、二本、切れた奴らである。『フィツカラルド』と『アギーレ 神の怒り』で主人公をやったクラウス・キンスキーのいかれっぷりは誰の記憶にも鮮やかに焼き付くものであろう。すでに変人の域を通り越して変態に近い。ただし、性のニュアンスの欠落した変態である。
最新作のこの『レスキュー・ドーン』もそうだ。iMDbのサイトの読者レビューによれば、ヘルツォークのなかではもっとも大衆受けしやすい作品とのことだし、まあそうかもしらんとも思うが、それでも映画に出てくる奴は一人残らず、どこかがいかれている。主人公のディーターからにしてかなりイってしまっている。このあらすじで普通の映画監督が撮れば、勇敢で熱いアメリカンなヒーロー物にしかなりえないと思うのだが(まあヴェトナム戦争でそれをやられるとモラルの問題として唖然とするほかないが)、この万歳アメリカな脱出劇で、主人公の「イッちゃってる感」をよくもこれほど醸し出せたものである。ビバ変人ヘルツォーク!
ディーター役の俳優クリスチャン・ベール(Christian Bale)の演技は印象的だ。この俳優はものすごい勢いで減量と増量をくりかえせるというヘンテコな名声をもつ俳優らしいが、その特技は本作のなかでも存分に発揮されている。米軍飛行機のなかでピッカピカな健康的笑顔を見せるディーターと、密林のなかでさまよい、やつれはて、妄想にとらわれていく脱走兵ディーターとのギャップがすごい。飛行機乗りになった動機を語る、上述の「ちっちゃなディーターは空を飛ばなきゃならなかったんだ……」の台詞のときの目も、少年の日の夢のキラキラ感を通りこして、狂気の笑みに近い。
ディーターを取り巻く他のアメリカ兵たちも、どこか常規を逸している。フリークス好きのヘルツォークの演出らしく、彼らはその「ぱっと見」からして「おかしい」。ジーンの視線やしぐさは卑屈かつ横暴かつコミュニケーション不全な人間のソレだし、もう少し話のわかるデュアンにしてからが、異様なオドオドっぷりを四六時中見せていて、こいつ大丈夫なのかと思ってしまう。
この映画の面白い点は、じつはこのヘルツォークの「フリークス好き」という、倫理的にあやうい嗜好から産み出されている。つまり彼らはみな、人間が誰しも持つであろう「ちょっと変」なところ、「ちょっと不快」なところを最大限に誇張されたキャラクタなのだ。そしてまた、極限状態に置かれた人間達がいかに「人間でないもの」になるか——それを伝える登場人物でもある。「ふつうの人間」と「フリークス」の境界なんて、そんな絶対なものではない。われわれだって明日にもフリークスになりかねないのだ。
ヘルツォークの映画にポリティカル・コレクトネスなるものは存在しない。あるいは、通常ポリティカル・コレクトネスとして想像されるようなものは存在しない。ポリティカル・コレクトネスとは、人権やマイノリティ、南北格差などの社会問題にあたって良くも悪くも「政治的に正解」(良い子ちゃん)な態度をとることをさして言う語だ。「文化交流」が声高に(だが薄っぺらく)叫ばれる昨今の潮流に反し、ヘルツォーク映画に登場する異人たちは、たとえば『フィツカラルド』のラテンアメリカ先住民がそう描かれたように、最初から最後まで徹底的に理解不可能でコミュニケーション不可能な「謎の動物」だ。彼らはこちらが何かを言ってもぼうっと腑抜けたように突っ立っているだけで、かと思えば突然なんの脈絡もなく凶暴に暴れ出す。
この『レスキュー・ドーン』に登場する現地人(ラオス人になるのかな)もまた、その例に漏れない。彼らは暴力的な妖怪であるか、白痴であるかのどちらかで、いずれにせよアメリカ人すべてを心の底から恐れ、憎んでいる。お世辞にも、教育上よろしい映画ではありえない。まっとうな人間が見たって気分を悪くする演出はあるのではないかと思う。
かくいう私も(自分がまっとうであるかどうかは知らないが)、「これはちょっと……」と引いた場面が多々あった。内容のない「国際交流」スローガンはクソ馬鹿馬鹿しいけれども、文化の違いを真剣に考えることそのものが「つまんない優等生」にひっくるめられて揶揄される状況もまた、クソ忌々しいと私は感じるのであって、そんななかで、人種的・文化的ステレオタイプをそのままに開き直って出されると、かなり引いてしまうのだ。だがこの映画を論じるさいに忘れてはならないのは、主人公たち自身がまさに「フリークス」であるという点だろう。「理解できない、無能な、時として凶暴に暴れ出す異人」は、ラオスの兵やそこに暮らしていた人々にとってみれば、彼らアメリカ兵の姿にほかならないのだろう。
他の多くのヘルツォーク作品と同様、この映画にも「性」に対する視線は徹頭徹尾欠落している。ここにあるのは100%男臭で満ち満ちたロマンであり、そこには甘酸っぱさも恋も愛も、肉欲情欲すらない。
歴史的に見て、女のロマン(ロマンス)はつねに男との関係性の中で語られてきた。だが男のロマンは男だけで完結している。むしろ、女の影を完全に排除し、女の入る隙間を完全に封じたものこそが、純度の高い、硬派な男のロマンと見なされている(『アラビアのロレンス』)。ただし――多く指摘されてきたように――女の臭いを完全に消し去るというのは、それじたい女との関係性のありかたである。それがゆえにかどうかは知らないが、女の純愛ロマンスに独特の夢見がちなエロチシズムがあるように、男の純硬派ロマンスにも独特の夢見がちなエロチシズムがある。性の欠落と言うエロチシズムが。最大の快楽と陶酔と興奮、言い換えれば「最高に『ハイ!』ってやつだァァァー」を、性的関係ではなく野望と理想で実現するという、あまりにも夢見がちなエロチシズムが。
そういう硬派な男のロマンと異様なエロチシズムを我が身でもって体現しているから、ヘルツォーク作品の登場人物はいずれも変態なのだ。なお、わたしがここで言っているのは『男同士の絆』でセジウィックが分析したようなホモソーシャルなエロチシズムではない。あれが秀逸な分析であることに疑いはないが、少なくともヘルツォークにある男のロマンのエロチシズムは、それではない。彼のエロチシズムはヘテロであれホモであれ、セクシュアルですらない。情欲とか色欲とか肉欲とかよりずっとずっと原始的な何かなのだ。
そこにはフェロモンが存在しない。アドレナリンだけがある。ヘルツォークの映画にあるのは、エロティックな刺激で達するオーガズムではなく、頭の切れちゃった野望のひたすらな『過剰感』で達するオーガズムだ。
この作品『レスキュー・ドーン』においては、その野望とは「生き残ってやる」という欲望だった。ここにおける密林と峡谷の映像は、ディーターの間近に迫る死とは裏腹に、圧倒的な神秘と生命の迫力に満ちている。ヘルツォークの描く自然は田園牧歌的なものではない。次の瞬間には巨大なあぎとを開き、大なめくじのような舌を伸ばして人間を頭から丸かじりにしているような、そんな貪欲な自然である。そのなかで狂ったように生に固執しつづけるディーターも、また人間的な意思を失い、怪物・獣と化していく。この荒々しくも驚異に満ちた自然の映像はヘルツォークの十八番であるけれども、いつもながらに凄まじい。息を呑むほど美しく、かつ凄まじい。
じつのところ、この映画のラストはわたしにとって意外なものだった。最後の最後の最後まで、私は「どんでん返し」を期待しつづけて見ていたのだ。なぜならラスト数十分の演出は、あまりにも、度を超したレベルで嘘くさかったからである。
いまになって考えてみれば、この嘘くささがヘルツォークらしさなのかもしれない。この映画の筋は、先にも書いたように、「戦地で必死に闘い抜いた勇敢なお国のヒーロー」の物語であるのだが、映画や主人公たちの迫力が最高潮に達するのは、サバイバルの最中の狂気にあるのであって、それに比べればその後に「国」や「軍」が「お国のヒーロー」に拍手喝采するシーンなどは、笑ってしまうほど白々しいものでしかありえないのだ。
だからだろう、あらすじから予想されるのはどう考えても「愛国戦争映画」なのに、この映画から受ける印象はどうもそういうものにはなりえない。もし『米国愛国映画作品リスト』なるものがあったとしたら、その選考委員に「いやちょっとごめんなさい、コレは駄目ですねえ。いやなんでって、駄目なもんは駄目だから」と言って謝られそうな感じの、そんな作品なのである。
さて、以上、さんざんに(ある意味褒めてるんだけど)エキセントリック扱いしてきたこの映画だが、なんと実話にもとづいているというから驚く。このアメリカ兵ディーターは実在の人物なのだ。さらに調べると、ヘルツォークがじきじきに本物のディーター・デングラー氏にインタビューして組み立てたお話らしい。
さらに、なんと、このインタビューをドキュメンタリー映画にしたものがあるらしく、その題名も”Little Dieter Needs to Fly(ちっちゃなディーターは飛ばなきゃならないんだ)”。この台詞、デングラー氏本人が語った言葉なんだな。このドキュメンタリーを見てみたい気もするんだけど、近くのDVDレンタル屋にないんだよね……。
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怠け者のちいさなやもりですが色々ぶつぶつ言うのは好きなようです。
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
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