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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.08.07,Mon
The review of Ken Loach's Parm d'Or winning film. Very very long ... and please excuse for awkward phrases and sentences!
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.08.02,Wed
ローレン・カンテLaurent Cantet監督のVers le Sud (Heading South)。
こないだケン・ローチのとこで「座席満杯、しかもテロップ時に結構な人間が座り続けていた。異例」と書いたが、今回もそうだった(笑)わはは。たいして珍しくないのかもしれん。

そんでもって映画の感想だが


結論その一
シャーロット・ランプリングがすごい


結論その二
痛い映画だった。

痛いというのはアイタタタという意味ではない。そっちではない方。
ここ最近見た三作も、カーンと明るいテーマを扱ったものではない。オフサイドとパラダイスナウはあえてそのなかに笑いを交えていたけれど。
それでも映画を見てしんどいと思ったのは久しぶりだ。
それは三作よりも優れていたとか劣っていたとかいう意味合いのものではなく、何か違う種類の感覚。


そんでもって、この映画が見ていてしんどいのは多分に演技の質の高さゆえだと思う。Albertというホテルの支配人と女達に「買われる」青年Legba(前者は(Lys Ambroise、後者はMénothy Cesarという俳優らしい)が良かった。そしてシャーロット・ランプリングCharlotte Rampling!かつて『愛の嵐』で若かりし頃のランプリングがまるで猫のように唸り、床を這い回るのを見てこれはすごいと思ったものだが(猫型を気取る人間たちは是非あの野生感と艶めかしさを見ておのが未熟さを実感せよ!)、わたしは『愛の嵐』という映画自体をそこまで高く評価してないので、いまいち腹に落ちてなかった。あれが名作と言われるゆえんはたぶん理解しているが。あと『まぼろし』もいまいち印象に薄かった。

しかし今回の演技を見てこれはたいした女優だと思ったよ!
そんでもってがぜん興味を惹かれて彼女の出演作品を見てみたら












こ、『氷の微笑2』!





驚愕した・・・



いやシャロンストーンが主演だから脇役なんだろうけど。それにしても・・・


それでも!(気を取り直す)この女優ほんとかっこいいです。是非IMDbに貼られてる画像の彼女を見てください。黒いスーツに白いシャツの人です。クリックででかくなります!ほかの二人はまあ、いいけど。(いや良い演技してたけどね)もっと見たいですか!じゃあグーグルでイメージ検索しよう!(言ってないよ)


映画の詳細な感想ですが、後日載せます。いや本当に。半分書いたんでここで止めるのは悔しいんだ!
そして『麦の穂を揺らす風』もほっといてるけど書きます。必ず書きます。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2006.07.27,Thu



ぱらぱらとめくってみた。

アボリジニの人々が、牧場で一人の白人が死んだ事件について、大地が白人に懲罰を与えたのだという歴史分析をおこなったとき、それを何かのメタファーとしてとらえるのを「却下する」こと。ここで言われているのは、「ああこの寓意的な語りは、彼らの社会と白人との接触の経験、植民地経験というものが、その凄惨さと引力とをもって彼らの文化の一部となっていく、その一例なんだ」とかいう、ちょっと気を許せばわたしがやってしまいそうな解釈を却下すること、だ。いやそういう解釈知もあってもいいが、「それだけじゃないですよね」ということ。「すべてはメタファーである」んではなくて、「メタファーなどない」。アボリジニの長老が、1966年にケネディ大統領が彼らの場所にやってきたと言う。長老達は訴える。「イギリスからやってきたあいつらにひどいめにあってるんだ。」ケネディは彼らに協力を申し出る。イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよと。我々歴史学者は、20C後半にもなって米国がイギリス相手に戦争したことなんかないと「知っている」。だが、「——ケネディ大統領は、本当にアボリジニに出会っていないんでしょうかね。」

わたしが取っ組み合いをしなくてはならないことが書いてある。取っ組み合いをしたうえで、たぶん五歩距離をとった別の方向から見なくてはならないようなこと。あるいは五歩の距離を保った上で別の方向に顔を向けなくてはならないようなこと。語り手自身が昨日も今日も変わらず一貫して史実とか世界観として「信じて」いるわけではない歴史。そんな歴史を語る。そこに歴史の実践がある。そういうこともあるんではないかということ。それがこの著者の見ている方向なのか、まったく逆なのか、あるいは微妙な距離でねじれの位置にあるのか、それすらもまだわからない。そもそも史実として信じるって了解するってなんなんだ。そもそもわたしが史実として了解していること、していないことってなんだ。わたしはまずそこを述べていかねばならないのだ。
あの日あの道を歩きながら知人の話を聞いていて突如として沸き起こった、そして今はもうわたしのものとして感じられない歴史は、はたしてなんなのか。たとえばそういったこと。
いずれにせよあやうい方向ではある。

「歴史の再魔術化」は、わたしが漠然と考えていたこととクロスする。クロスすることは確かだが、どこまで近いのかは、わからない。わたしのビジョンがあまりにもぼんやりした蜃気楼のようなものであって、未構築だからだ。

しっかりしろと自分に言い聞かせる。



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怠け者のちいさなやもりですが色々ぶつぶつ言うのは好きなようです。
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