本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.03.14,Wed
小学生の頃に、姉が友人から借りてきたこの作品の愛蔵版をちょっとだけ見せてもらったことがある。読んだことがある漫画雑誌といえば、りぼん、なかよし、ジャンプ、それにせいぜい別マくらいなもんで、漫画というものの世界をひどく狭くしか知らなかったわたしは、それを読んで、なんだかつかみどころのない不思議な印象の漫画だと感じた記憶がある。その『バジル氏の優雅な生活』の文庫本を、半年くらい前にたまたま人から貰って読み直した--------というより、全部読み通したのはそれが初めてだった。全体的には、記憶にあったものよりもロマンチックで少女漫画らしいと感じた。文庫本で5巻に渡る作品の多くは、悪者がこらしめられ、少女が美しく成長し、若者たちの恋が時には年齢や身分(階級)などの障害を越えて可愛らしく実るお話に占められている。遠い昔に形成された勝手な脳内イメージにおいては、確固とした起承転結の無いシュールで含蓄ありげな作品ということになっていたため、ちょっと意外だった。それでも各所各所に情緒ただよう作品があって、それはそれで、なかなかよろしい。
おそらく坂田靖子の代表作であろうこの作品は、19世紀末ビクトリア朝時代のイングランド貴族社会を舞台に、粋な女たらしの貴族バジル・ウォーレン卿と彼をとりまく人々の様々なエピソードを連続短編式に描いたものである。かつての少女漫画の中には、具体的にどの時代なんだかよくわからない、ときにはどの国・地域なのかすらさっぱりわからんような、憧れ(と偏見?)のごたまぜとしての「西洋」を舞台にしているものが意外と多いもんだが、その点この作品は時代考証が結構しっかりしているのに感心させられた(むろん中には有り得ない展開や設定もありますが)。とくにこの時期のイギリスが社会的にも「大英帝国」として存在していたことを意識して描いているのはなかなか偉いと思う(エジプト来訪のエピソード、中東の美青年通訳のエピソードなど)。
てなわけで、ここでは文庫版5冊を、それぞれの巻から気に入った話を一つ二つ選びながら紹介していこうと思う。今回は第一巻--------といきたいところなのだが、第一巻友人に貸したまんまなので、第二巻から。(しょぱなからなんか蹴つまづいてる)
第二巻では破天荒な公爵令嬢ビクトリアが初登場する「ウィッシュ・ボーン」がなかなか良い。しかもこの破天荒というのが単におてんばとか男まさりとかいうんではなくて、化石掘りにうつつを抜かしていたり、考古学に異様な興味を持っていたり、『ナマコの生態』をはじめとする良く分からん本を40冊制覇しようと日々頑張っていたりするという、そういう具体性がさすがというか・・・考古学や古生物学などの近代の歴史をふりかえれば、確かに「貴族の趣味」としての発掘・発見が果たした貢献が結構大きいはずだ(それがビクトリア朝末期でどのくらいさかんだったかまでは知らないが)。まあ全体的にこの人は魅力的で、わたしの友人の一人は彼女をしてドンピシャ好きなタイプと言った。わたしも好きです。「夫はほとんどの女が手に入れるけど本当の友達を持ってる人はめったにいないわ これははっきりした求愛【プロポーズ】よ!それとも結婚する女などはもう用はない?」・・・ああこんなこと言ってみたい。もしくは言われてみたい。
だが第二巻でいちばん好きなエピソードはそれではなくて、「エデンの園」に入っている第三話・「老婦人の夏」。誰よりもつつましい貴婦人として知られていたある貴族の未亡人が、突然若い恋人をこさえるお話。どうも最近年を取ったのか、こういう・・・盛りを終えた人間の、愛情や恨みや憎しみや諦めや欲なんかがいろいろ複雑に入り交じった感情がゆっくりと描かれる、という話に弱い。この話はちょっとドラマチックに過ぎる気はするけれど、そういう静かな底深さみたいなものがちょっとただよっているなあと思う。
うわあ長い引用。(すみませんすみません)でも良い。良いと思いませんかこの台詞。
話の流れとしてはそれほどあっと驚くものではないのだけれど、この貴婦人の哀切さがよく描かれた一話だと思います。彼女が最後に見せる嘲りの顕著な台詞と表情は、ただ運命に翻弄されつづけた哀れなヒロインとして彼女があるわけではなく、その運命のなか、彼女が「淑やかな貴婦人」の表情の裏でひそかに育てた残酷さを表します。そうして、その残酷さと嘲りを、完璧なまでに非生産的なものとして描いたところが、わたしは好きだ。
おそらく坂田靖子の代表作であろうこの作品は、19世紀末ビクトリア朝時代のイングランド貴族社会を舞台に、粋な女たらしの貴族バジル・ウォーレン卿と彼をとりまく人々の様々なエピソードを連続短編式に描いたものである。かつての少女漫画の中には、具体的にどの時代なんだかよくわからない、ときにはどの国・地域なのかすらさっぱりわからんような、憧れ(と偏見?)のごたまぜとしての「西洋」を舞台にしているものが意外と多いもんだが、その点この作品は時代考証が結構しっかりしているのに感心させられた(むろん中には有り得ない展開や設定もありますが)。とくにこの時期のイギリスが社会的にも「大英帝国」として存在していたことを意識して描いているのはなかなか偉いと思う(エジプト来訪のエピソード、中東の美青年通訳のエピソードなど)。
てなわけで、ここでは文庫版5冊を、それぞれの巻から気に入った話を一つ二つ選びながら紹介していこうと思う。今回は第一巻--------といきたいところなのだが、第一巻友人に貸したまんまなので、第二巻から。(しょぱなからなんか蹴つまづいてる)
第二巻では破天荒な公爵令嬢ビクトリアが初登場する「ウィッシュ・ボーン」がなかなか良い。しかもこの破天荒というのが単におてんばとか男まさりとかいうんではなくて、化石掘りにうつつを抜かしていたり、考古学に異様な興味を持っていたり、『ナマコの生態』をはじめとする良く分からん本を40冊制覇しようと日々頑張っていたりするという、そういう具体性がさすがというか・・・考古学や古生物学などの近代の歴史をふりかえれば、確かに「貴族の趣味」としての発掘・発見が果たした貢献が結構大きいはずだ(それがビクトリア朝末期でどのくらいさかんだったかまでは知らないが)。まあ全体的にこの人は魅力的で、わたしの友人の一人は彼女をしてドンピシャ好きなタイプと言った。わたしも好きです。「夫はほとんどの女が手に入れるけど本当の友達を持ってる人はめったにいないわ これははっきりした求愛【プロポーズ】よ!それとも結婚する女などはもう用はない?」・・・ああこんなこと言ってみたい。もしくは言われてみたい。
だが第二巻でいちばん好きなエピソードはそれではなくて、「エデンの園」に入っている第三話・「老婦人の夏」。誰よりもつつましい貴婦人として知られていたある貴族の未亡人が、突然若い恋人をこさえるお話。どうも最近年を取ったのか、こういう・・・盛りを終えた人間の、愛情や恨みや憎しみや諦めや欲なんかがいろいろ複雑に入り交じった感情がゆっくりと描かれる、という話に弱い。この話はちょっとドラマチックに過ぎる気はするけれど、そういう静かな底深さみたいなものがちょっとただよっているなあと思う。
そりゃ…夫が出ていった時はいろんなものを憎んだわ
結婚も…愛情も 身分も財産も 領地も…
夫が私に押しつけたものすべて
----でも今度旅をしてわかったの
私…憎しみと同じぶんだけあの人を愛していたのよ
それが解った時とても惨めだった!
(中略)
小春日和は見せかけの日だまりだわ
でも冷たい冬の中でそれがどれほど嬉しいと思って?
うわあ長い引用。(すみませんすみません)でも良い。良いと思いませんかこの台詞。
話の流れとしてはそれほどあっと驚くものではないのだけれど、この貴婦人の哀切さがよく描かれた一話だと思います。彼女が最後に見せる嘲りの顕著な台詞と表情は、ただ運命に翻弄されつづけた哀れなヒロインとして彼女があるわけではなく、その運命のなか、彼女が「淑やかな貴婦人」の表情の裏でひそかに育てた残酷さを表します。そうして、その残酷さと嘲りを、完璧なまでに非生産的なものとして描いたところが、わたしは好きだ。
PR
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.02.16,Fri
いや、ちょっと面白そうだなと思いまして。
ファンタジー論なんていうものはおそらくネット上にも星の数ほどあるんだろうけれど、そしてあんまり探したこともないんだけれども、こう、ヤフーメールをログアウトしたときになんでか知らんが必ずと言っていいほど表示されるオンラインファンタジーネトゲの広告だとか(たぶん一度だけクリックしてしまったことがあるためだと思われる。うっとうしいことこの上ない)、たまにいろんなブログやサイトのアマゾン広告で見るおびただしい「ファンタジー」っぽい小説だとか漫画だとかの表紙を見るに、「ファンタジー」っていったいなんなんでしょう。と思うことがたまにある。
おそらく「ファンタジー」に関心をもつ人々のなかでは高年齢層に属すると思われる(A)D&D経験者たちはえてして(AD&Dというゲームの性質とそのゲームに惹かれるという彼等の性質上)わりと分量のある、がっつりした、くそまじめな文体で濃ゆく真剣にギャグに身を投じた、頻繁にやりすぎ感すら漂う読み物から「異世界」感を構築していることが多いようで、そうした界隈では、登場人物の髪型と名前と目の色と服装だけ違うがそのほかはまったく同じ「運命的背景」とプロットの物語が、流星群到来時の夜空の流れ星のように現れてはなんの痕跡も残さず消えていく、といった現象はあまり見られないようである。ちなみにこの現象はあらゆる類のファンタジーにもうろくに何年も触れてないわたしが推測のみで和製ファンタジーをとりまく現状として想起するものである。いずれにせよ、前者のちょっと濃ゆいファンタジー支持層は、えてして後者の和製ファンタジーをパロパロにパロって呵々大笑の対象にしたりしているのだが、わたしはそういう呵々大笑に相対的に(ろくに知りもせんが)シンパシーを抱くこともある。まあ、たぶんそういう流れ星の作者も読者もはなから奥行きとかどうでもよくて、エッチゲーム(可愛く言ってみる)のキャラクターにリアリティが求められないのと同じなのだろうから、なにを言っても梨の礫なのだろうね、とも思うが。
ただし、同時に、前者の「濃い」ファンタジー支持者の文章に時としてみられる「オリジン至上主義」みたいなものに、ちょっと疑問を感じることもある。たとえばトールキン至上主義。
これはなにも、トールキンを「凄い」というのが悪いと言っているのではない。トールキンが構築した世界の奥行きというのは物凄いものであったのだろうと思うし、エルフ語ひとつをとっても、言語の歴史と形態についての言語学者トールキンの膨大な知識がそこには反映されているはずで、表面からは見えない「奥行き」をそこまでの深さで持たせるということは、並大抵の小説家にはできないはずだ。
しかしながら一方で、いかにトールキンがモダン・ファンタジーの創始者といえども、「魔法」であるとか「異界」であるとか「妖物」であるとか、はたまた「英雄伝説」というものの歴史は、当然ながらトールキンとともに始まったわけではない。それはトールキン以前にも歴史の中で脈動し生きていたものであるし、あるいは現在においてすら、「ファンタジー小説」が影響を及ぼしえぬ領域で依然として生き続けているものかもしれないのだ。
聞いたところによるとトールキンは、はるか昔に偉大な力をもち畏敬と信仰の対象であった自然神たちが、近世・近代の歴史の中で矮小な妖精へと姿を変えていったことを遺憾とし、それまで「妖精」といえば想起されていたような小妖精(おそらくヴィクトリアンロマンチックな羽のはえたやつ)ではなく、ほとんど半神とも言える威厳ある最古の種族として、彼なりの「エルフ」というものの像を構築したという。
このあまりにも柳田國男に激似している発想に、地球の裏っがわと裏っがわで数千キロ離れていようとも、民俗学に関心をもつ人間というのはおんなじこと考えているもんなんだなあという驚きをわたしは禁じ得ないのだが、まあそんなわたしの驚きはこのさい置いておくとして、重要なのは、柳田國男における「民俗文化」の像は、ありうる無数の説と像のうちの、ただひとつでしかないということだ。その影響力の大きさを鑑みたとしても、柳田の思い描いた「遠野」は、当然の事ながら唯一絶対の「遠野」ではありえない。柳田がダイダラボッチについていかなる考察をしたところで、そうしてその考察がいかに見事なものであったところで、ダイダラボッチの名と現象は彼の論の中に閉じられることなく、その名を知り語る人々のあいだで、まぎれもなく生きていたはずである。
トールキン至上主義的な物言いのなかで気になるのは、まさにこの点である。いかにトールキンがすぐれた学者であり物語作家であったところで、トールキンの想定したエルフなりドワーフなりを「本来こうであるべきもの」と主張するのは、どこかおかしいということである。幻想=ファンタジーなるもの、ユートピアなるもの、異界への想像力なるものは、トールキンがその立脚者として想定されるジャンル、「モダンファンタジー」のなかに閉じられうるようなものでは全くない。むしろ逆である——つねに動態する想像力と語りの実践のなかに登場する要素に、不安定ながらかろうじて立脚するものとして「モダンファンタジー小説」があるのではないか。つまりは本末転倒なのである。
端的に例を挙げよう——たとえば西洋のある地域において、日常的な語りとジョークのなかにえたいの知れない小妖精を登場させる人々がいたとしよう。そのとき、「なんとまあ、嘆かわしい、古き神々はここまで零落したのか、本来の雄々しい神々は、もうトールキンとその後継者のハイ・ファンタジーの中にしかいないのだな」と言うのはあまりに馬鹿げている、ということだ。
まあ、そういう疑問を昨今携えるわたしは、そんなわけで「ファンタジー論」というのにちょっと興味があるわけだ。ということで、いまさらながらに冒頭に紹介した本の話に戻るのだが、気になるのはこんな偉そうに長々と文章を書いてきておきながら、わたしは実はろくにファンタジーを読んでいないということだ。
評論というのは読むのにも書くのにも、その前に元ネタをきっちりと読んでいることが重要なんだとわたしは思っている。読むだけならまだ罪悪感があるくらいで害はないのだが、問題なのは書くときだ。
「感想文」と「評」には漠然としながらにして無数なる分水嶺があると思うのだが、その一つは、評の対象である作品のみならず、関連する作品群についての幅広い造詣があるかないかというものである。「うわっこんなところでこんなコレとあんなコレを並んで論じるかよ」みたいな驚きは、まあ評を読む楽しみのひとつではあるわけなのだけれど(わりと俗っぽい部類に入る評の書き方・読み方であるけれども)、そういうのも、通常「関連作品」として挙げられるものを大体程度網羅した上で、さらにそれ以外のジャンルをも俯瞰できるだけの読み込みと知識があるから深みが出るのであって。
あっと驚くアイディアと強引さで有名作品に切り込みを入れるような感じのものも時には良いのだけれど(斉藤美奈子なんか?)、言ってることの全体から、ちらりちらりと見える単語から、「おーこの評者かなり幅広くもの読んでそうだなあ」と感じさせる評が、わたしは好きなのである。
そんなわけでまた話が脱線したような気がするが、言いたかったことはつまり、評を書くのはもちろんのこと読むのにだって背景知識はあるに超したことはないので、わざわざ国際追加料金を払ってこんな本を買うよりも、興味があるんならファンタジーを読めよと。そういう話だったわけです。
ファンタジー論なんていうものはおそらくネット上にも星の数ほどあるんだろうけれど、そしてあんまり探したこともないんだけれども、こう、ヤフーメールをログアウトしたときになんでか知らんが必ずと言っていいほど表示されるオンラインファンタジーネトゲの広告だとか(たぶん一度だけクリックしてしまったことがあるためだと思われる。うっとうしいことこの上ない)、たまにいろんなブログやサイトのアマゾン広告で見るおびただしい「ファンタジー」っぽい小説だとか漫画だとかの表紙を見るに、「ファンタジー」っていったいなんなんでしょう。と思うことがたまにある。
おそらく「ファンタジー」に関心をもつ人々のなかでは高年齢層に属すると思われる(A)D&D経験者たちはえてして(AD&Dというゲームの性質とそのゲームに惹かれるという彼等の性質上)わりと分量のある、がっつりした、くそまじめな文体で濃ゆく真剣にギャグに身を投じた、頻繁にやりすぎ感すら漂う読み物から「異世界」感を構築していることが多いようで、そうした界隈では、登場人物の髪型と名前と目の色と服装だけ違うがそのほかはまったく同じ「運命的背景」とプロットの物語が、流星群到来時の夜空の流れ星のように現れてはなんの痕跡も残さず消えていく、といった現象はあまり見られないようである。ちなみにこの現象はあらゆる類のファンタジーにもうろくに何年も触れてないわたしが推測のみで和製ファンタジーをとりまく現状として想起するものである。いずれにせよ、前者のちょっと濃ゆいファンタジー支持層は、えてして後者の和製ファンタジーをパロパロにパロって呵々大笑の対象にしたりしているのだが、わたしはそういう呵々大笑に相対的に(ろくに知りもせんが)シンパシーを抱くこともある。まあ、たぶんそういう流れ星の作者も読者もはなから奥行きとかどうでもよくて、エッチゲーム(可愛く言ってみる)のキャラクターにリアリティが求められないのと同じなのだろうから、なにを言っても梨の礫なのだろうね、とも思うが。
ただし、同時に、前者の「濃い」ファンタジー支持者の文章に時としてみられる「オリジン至上主義」みたいなものに、ちょっと疑問を感じることもある。たとえばトールキン至上主義。
これはなにも、トールキンを「凄い」というのが悪いと言っているのではない。トールキンが構築した世界の奥行きというのは物凄いものであったのだろうと思うし、エルフ語ひとつをとっても、言語の歴史と形態についての言語学者トールキンの膨大な知識がそこには反映されているはずで、表面からは見えない「奥行き」をそこまでの深さで持たせるということは、並大抵の小説家にはできないはずだ。
しかしながら一方で、いかにトールキンがモダン・ファンタジーの創始者といえども、「魔法」であるとか「異界」であるとか「妖物」であるとか、はたまた「英雄伝説」というものの歴史は、当然ながらトールキンとともに始まったわけではない。それはトールキン以前にも歴史の中で脈動し生きていたものであるし、あるいは現在においてすら、「ファンタジー小説」が影響を及ぼしえぬ領域で依然として生き続けているものかもしれないのだ。
聞いたところによるとトールキンは、はるか昔に偉大な力をもち畏敬と信仰の対象であった自然神たちが、近世・近代の歴史の中で矮小な妖精へと姿を変えていったことを遺憾とし、それまで「妖精」といえば想起されていたような小妖精(おそらくヴィクトリアンロマンチックな羽のはえたやつ)ではなく、ほとんど半神とも言える威厳ある最古の種族として、彼なりの「エルフ」というものの像を構築したという。
このあまりにも柳田國男に激似している発想に、地球の裏っがわと裏っがわで数千キロ離れていようとも、民俗学に関心をもつ人間というのはおんなじこと考えているもんなんだなあという驚きをわたしは禁じ得ないのだが、まあそんなわたしの驚きはこのさい置いておくとして、重要なのは、柳田國男における「民俗文化」の像は、ありうる無数の説と像のうちの、ただひとつでしかないということだ。その影響力の大きさを鑑みたとしても、柳田の思い描いた「遠野」は、当然の事ながら唯一絶対の「遠野」ではありえない。柳田がダイダラボッチについていかなる考察をしたところで、そうしてその考察がいかに見事なものであったところで、ダイダラボッチの名と現象は彼の論の中に閉じられることなく、その名を知り語る人々のあいだで、まぎれもなく生きていたはずである。
トールキン至上主義的な物言いのなかで気になるのは、まさにこの点である。いかにトールキンがすぐれた学者であり物語作家であったところで、トールキンの想定したエルフなりドワーフなりを「本来こうであるべきもの」と主張するのは、どこかおかしいということである。幻想=ファンタジーなるもの、ユートピアなるもの、異界への想像力なるものは、トールキンがその立脚者として想定されるジャンル、「モダンファンタジー」のなかに閉じられうるようなものでは全くない。むしろ逆である——つねに動態する想像力と語りの実践のなかに登場する要素に、不安定ながらかろうじて立脚するものとして「モダンファンタジー小説」があるのではないか。つまりは本末転倒なのである。
端的に例を挙げよう——たとえば西洋のある地域において、日常的な語りとジョークのなかにえたいの知れない小妖精を登場させる人々がいたとしよう。そのとき、「なんとまあ、嘆かわしい、古き神々はここまで零落したのか、本来の雄々しい神々は、もうトールキンとその後継者のハイ・ファンタジーの中にしかいないのだな」と言うのはあまりに馬鹿げている、ということだ。
まあ、そういう疑問を昨今携えるわたしは、そんなわけで「ファンタジー論」というのにちょっと興味があるわけだ。ということで、いまさらながらに冒頭に紹介した本の話に戻るのだが、気になるのはこんな偉そうに長々と文章を書いてきておきながら、わたしは実はろくにファンタジーを読んでいないということだ。
評論というのは読むのにも書くのにも、その前に元ネタをきっちりと読んでいることが重要なんだとわたしは思っている。読むだけならまだ罪悪感があるくらいで害はないのだが、問題なのは書くときだ。
「感想文」と「評」には漠然としながらにして無数なる分水嶺があると思うのだが、その一つは、評の対象である作品のみならず、関連する作品群についての幅広い造詣があるかないかというものである。「うわっこんなところでこんなコレとあんなコレを並んで論じるかよ」みたいな驚きは、まあ評を読む楽しみのひとつではあるわけなのだけれど(わりと俗っぽい部類に入る評の書き方・読み方であるけれども)、そういうのも、通常「関連作品」として挙げられるものを大体程度網羅した上で、さらにそれ以外のジャンルをも俯瞰できるだけの読み込みと知識があるから深みが出るのであって。
あっと驚くアイディアと強引さで有名作品に切り込みを入れるような感じのものも時には良いのだけれど(斉藤美奈子なんか?)、言ってることの全体から、ちらりちらりと見える単語から、「おーこの評者かなり幅広くもの読んでそうだなあ」と感じさせる評が、わたしは好きなのである。
そんなわけでまた話が脱線したような気がするが、言いたかったことはつまり、評を書くのはもちろんのこと読むのにだって背景知識はあるに超したことはないので、わざわざ国際追加料金を払ってこんな本を買うよりも、興味があるんならファンタジーを読めよと。そういう話だったわけです。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.01.21,Sun
CALENDER
CATEGORIES
SEARCH THIS BLOG
RECENT ENTRIES
(11/03)
(10/31)
(04/07)
(12/25)
(12/07)
(12/01)
(11/03)
(06/09)
(04/24)
(03/31)
RECENT COMMENTS
Since_12Apr07
ABOUT ME
HN:
まめやもり - mameyamori
怠け者のちいさなやもりですが色々ぶつぶつ言うのは好きなようです。
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
JUMPS
TRACKBACKS
Template by mavericyard*
Powered by "Samurai Factory"
Powered by "Samurai Factory"