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本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.03.15,Thu





 萩尾望都の代表作に数えられることは少ないようだが、上に挙げた文庫版作品集では、完成度においてあきらかに頭一つ抜きんでた作品と言えよう。

 物語の舞台となるのはナチス占領下のパリ。ユダヤ系ドイツ人という出自を隠しながら踊り子として働くルイーズが、ふとしたことから不思議な少年ラウル、およびレジスタンスの活動家マルシャンと暮らしはじめることになる----。正直言って、中途までは少し不安があった。萩尾が得意とする幻想的な語り口は、それこそ『トーマの心臓』のような個人と個人の関係性の陰影を描くのには向いていても、戦争やナチズムをそれでどう描くのか想像がつかなかったからである。加えてこの作品の骨格となるのは、罪の意識の欠落したまま暗殺をつづけていく少年ラウルの「無垢なる怪物性」でもあったからだ。

 実のところ、この「無垢なる怪物性」あるいは「純粋という逸脱」は、これまで様々な作品で繰り返し題材にされてきたモチーフではある。コクトーの小説(萩尾自身が漫画化している)『恐るべき子どもたち』はその代表例だろう。しかしこのモチーフは、暴力のなかに超越的な聖性をみいだす視線をもつがゆえに、戦争という舞台で描くには危険な素材である。ふたつが並置されたとき、戦争を生みだし遂行させる社会状況と政治権力の特殊性・歴史性が、神々しさのオーラの中でうやむやにされてしまいかねないからだ。加えて、この「幼い狂気」には、両親からの愛情の欠落あるいは歪みといった設定がくっつきがちだ。じっさいに、本作品においてもラウルの放浪の起点は母親との関係性にあることが示唆されている。暴力と狂気の「根源」が、閉じられた個人の愛情問題に帰結させられてしまうのだとすれば、実在の戦争を舞台として選ぶ意味は全くない----それはただの矮小化である。

 このあやうい組み合わせが、しかし本作品においてはぎりぎりのラインで陳腐化をまぬがれているのは、ひとえに萩尾の詩的才能のおかげであろう。死の不条理・無意味、レジスタンスにおける反暴力主義と武力主義、そして少年の純粋さと逸脱性。----「なにもかも きわどいところにある 愛も憎しみも 生も死も」---- おのおのの主題はそれほど緻密に書き込まれているわけではないが、時には叙述的な展開で、時には隠喩的な想像力に訴えるかたちで、100頁という短い作品の中に絶妙に配置されている。

 「エッグ・スタンド」という表題は、その後者のアレゴリカルな手法をそのままに反映している。まちがえて茹でられてしまった卵の中の黒い雛は、母親の束縛的な愛情の中で窒息していく少年の、すなわちラウルを殺人に向かわせるものの暗喩として描かれているかに見える。しかし別な読み方もできよう。それは戦渦のなかにある世界そのものを示してもいるのだ。----「この世界は死んでいるのか?この苦しみはただ目覚めの前の夢なのか?」

 彼らの生きた戦争は、一定の意味においてはナチス・ドイツの降伏と同時に「終わって」いる。しかし萩尾はあえて「終戦」を描かない。作品中の世界が戦争という死の中をさまよいつづけることを暗示して物語は切れている。夜明けの生を夢見ながら終わりのない悪夢の中に死んでいったルイーズの、ラウルの、人びとの生きざまは、政治的な終戦によって救われるものではない。それは取り返しのつかないものなのだ。固く目を閉ざし何をも語らない、幼体のままひからびた殻の中の死体----彼らの夢と死が、生き残った者の生によって恢復されることは有りえないのである。

 戦争というものが完全に何をも生まない狂気であることは、作中でマルシャンの口を借りても語られる。しかし直接的な言葉よりもはるかな深さと密度を持ってそのメッセージを伝えるのは、物語とそれに付された映像的モチーフの暗示関係なのであって、それは寓話作家・萩尾望都の、おそらく直感的な才能ゆえに可能だった表現と言えよう。

25.Apr.2006






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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.03.15,Thu
 ・・・さて、文庫版第4巻なのだが、実はこの巻に関して言えば、あまり語ることがない。とはいえ、つまらない作品ばかりが収録されているというわけではない。中東のある国の大使館で働く混血の美青年と巷を騒がす泥棒事件の関わりを描いた「ウォールワース君の休日」や、女にふられてすっかり人間不信になり、雇い人を夜だけしか働かせないお貴族君が、もう一度、だが月の妖精に恋をする話を描いた「月の階段」などなかなかよろしい。全体的には雰囲気の良い佳作が並ぶ巻なのだ。だが一方で、これといって印象に残る作品もないのが事実。仕方ないので今回に限っては、バジル氏の文庫版全巻の巻末に付されている南條竹則氏の解説にふれることにしたい。
 イギリス現代文学の翻訳家でもあり、作家でもあるというこの南條氏、わたしは彼の訳本も小説も読んだことはない。だがこの解説を読んでいる限りでは、幅広い教養をそなえたプロなのだろうなあと感じる。各巻の解説はたった5ページ足らずで、独創的な読みや批評を展開しているわけでもないが、どれも漫画巻末解説としての適度な節度で、本編にちょっとした奥行きを添えているように思われる。
 それぞれの解説は、イギリスの近代文学作品をいくつか紹介しながら、それを通じて収録作品に関連するイギリスの社会文化を伝え、補助的な背景知識を読者に与えるものだ。それも「どーでもいいよ」というマニア蘊蓄ではなく、それじたい興味深い読み物で、かつ文体はとても簡易というところが良い。たとえばこの4巻の解説を見てみよう。この巻には「美食の報酬」という作品が収録されていることから、解説も英国の食を題材にして書かれている。

 平田禿木という、夏目漱石と同時代の英文学者が、古い英国の旬の食材を紹介した文章があります(「古英国卓上暦」)。それによると、まず四月初め、復活祭の頃には、草の芽で育てた羊や、魚の鰈、鵞鳥や七面鳥の雛、子豚の蒸焼きが珍重される。四月、五月は(...) チョウザメの蒸焼きが、金を惜しまぬ美食家の食卓を飾る。
 五月の末から六月の初めにかけて、遠い西インドの島々から海亀が運ばれてくる。その背肉、腹肉をスープにするが、肉をステーキにして、溶かしたバターと唐辛子にレモン汁を添えて食べるのが一番通好みな食べ方らしい。(...)
 七月八月は、鶉が柳の籠に入ってフランスから送られてくる。(...)食後の果物にはパイナップル、メロン、桃、桜桃、葡萄、すぐり、グズベリー、ラズベリー、はしりの林檎や梨。(...)_
 どうです、なかなか食欲をそそるではありませんか。

 いやあ本当に食欲をそそりますよ。この直前には、「食べ物のおいしさを絵にあらわすことは至難の業だが、坂田靖子はそれを味わう人の心境や腹の減り具合を表現してそれをやってのけている」という趣旨の文章があるのだが、文章でうまいものを表現するのだって簡単ではないと思う。とくに食べ物そのものを書いた文章表現って、書き手の自己満足になっちゃって別に読者の食欲をそそらないものが多い気がする。だが、上の文章はシンプルに食材を羅列しながら要所要所に小粋なフレーズを挿入することで(草の芽で育てた羊、柳の籠に入って送られてくる鶉など)、想像力を喚起する文章になっているんだろう。というかもとの文章が面白いんだろうな。
 さらに南條氏の解説では、『バジル氏』世界の甘いプロットとも距離をとった姿勢が見られるところがいい。第5巻の解説では、当時のイギリス社会がそんなにロマンチックな世界ではなかったときちんと釘をさしている。ビクトリア朝期の中・上流階級社会における性倫理は、それはそれは厳しいものだった。そこにおいては、階級を超えた恋が実ることも、一度「身をもちくずした」女性がその後生きる道を見つけることも、まず考えられなかったと彼は書く。だが、その点で坂田靖子をゲシゲシと批判するのではない。彼女がつくりあげた架空の世界から一定の批判的距離をたもちながら、それでいてそこに描かれた「常識に縛られない人々」の生命力、魅力を語るのである。まさにこのへんが、この人は解説というもので何が求められているのかをよくわかっているんだなあと、わたしが思う次第なのである。

 文庫化された漫画に解説が付くことは珍しくない。だが、「ああ、良い解説だな」と思えるものが少ないのはまことに残念である。率直に言って、「この解説が付いたことで明らかに本としての質が落ちている」としか思えないものが8割方を占めるのではないだろうか。その一例が、萩尾望都の『訪問者』(だったかな)かなんかについた、折原みとの解説である。「誰も信じてくれないけれど、明らかに私は萩尾望都に影響を受けた」とか書いているあたりは、笑止千万を通り越して呆れるしかない。そりゃ信じないよってかそれを言い切るあんたの厚顔無恥さが信じられないんだよ!乙女チック商業作家が悪いと言ってるんではない。やるなら勝手にどこかでやればよろしい。ただいやしくも一人の作家ならば、せめて、見てる世界と創造性と表現力において、自分とほかの作家の間に天文学的数字の距離が開いていることを自覚してほしいものである。てかこの人いまどうしてるんだろう。さすがにもう売れてないと思うんだが。
 少し話題が逸れたようだ。つまるところ、文庫漫画の解説がそれだけ惨憺たるありさまであるなかで、このバジル氏の解説は、漫画本体にちょっとしたスパイスを添える、良い意味の例外だと思われるのだ、というお話なのです。






Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.03.15,Thu

 第三巻行きます。この三巻の(客観的な)売りはまちがいなく文庫の半分以上の頁を占める「エジプシャン・スタイル」でありましょう。バジルと共にエジプトに赴いたビクトリアが砂漠の真ん中で行方不明になってしまうこのお話、これ元々の単行本では一巻丸々だったのではないかな。砂漠の遊牧民族とビクトリアの交流の様子と、必死になってビクトリアを捜索するバジルの側を並行してフォーカスしながら、この時期の「大英帝国」のありかた----「本国人」すなわち英国人とその支配、ナショナリズムの独立運動、そして両者の双方から距離を取る誇り高い遊牧民族の三者----が描かれる中編。しかしまあバジルが必死になんのも無理ないわな。大事な友達ってのもそうだけど、この時期の英国の社会道徳を考えるに、ビクトリアになんかあったらバジルの社会生命終わってるんじゃないか。傍目から見れば、かりにも公爵夫人を正式な庇護者であるその夫から託されてるってことになるんじゃないのか?
 てなわけで『バジル氏の優雅な生活』全編通してもいちばん長いお話では?と思われるこの「エジプシャン・スタイル」だが、実はわたし特別好きってほどでもない。ユーモアタッチの漫画だってことで百歩譲っても、ビクトリアのたどる経緯があまりにも出来すぎ。楽天的で冒険心に溢れてればすべてがうまく運ぶんだったら、多分そもそも「本国」とエジプトの関係はここまでこじれてませんよ。まあこの漫画としてはこれ以外にやりようがないんだろうけど。
 でもエジプト駐在領事の描き方はなかなかだと思う。強権的な植民地支配の無理を痛感し、英国への地元民の反発に一定の理解を示し、「領事の仕事は略奪者に等しい」とまで言いながらも領事を続ける彼。
 「私は英国を裏切ったのかもしれない…しかしエジプト人でもありません」・・・このジレンマ。「バジルさん…エジプトはすでに五千年の歴史を生きてるんです 我々などここの人にくらべたらただの野蛮人にすぎない」。
 植民地国の歴史に「悠久の時」のイメージを付与しヨーロッパと区別する物言いは、それがたとい「褒め言葉」であっても大きな陥穽を孕んでいることはもうなんべんも言われ尽くされてきたことだけれど、でもこういう文脈で発されるとき、安易に一蹴できない重みがあるんでないかと(ほんのちょっとだけ)思った。

 さて、ではこの三巻で好きなエピソードはなんなのかというと、「写真屋」です。----小間使いのルイと一緒に初雪のロンドンを歩いていたバジルは、一人の大道芸人が地面に絵を描いているのを見かける。ところがどうもその人は、誰もその顔を見たことがないという下町の不可思議な写真家であるらしい、彼の撮る写真は真っ黒な闇の中にただボウと光が浮かび上がっているだけの、理解しがたいものだった----。聖書の世界に心を奪われた芸術家が、強迫神経症じみたホモ・フォビア社会の中で破滅していく様子が描かれたこのお話は、完成度高いと思います。「そのあと 雪が降った その雪がとけると もう道の上には 絵はなかった」という最後の言葉が、淡々としていながらも残酷。






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