本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.07.20,Fri
ひさしぶりに食糧事情でも。
意外に知られていないけれどもイギリスでとても見つかりにくいもの
ハンドドリップのためのコーヒードリッパー!
いやあ万が一と思って日本から持ってきて良かったですよ。
ちなみに私が使っているのは無印良品の白い陶器のやつです。
上の写真のカリタの銅製のは(カリタのウェブサイトからDLした)、見た目わかりやすいから画像で使ってるにすぎません。単に白い陶器の奴は白背景でわけわかんなかったから。(そんな理由)カリタがよい会社かどうかもとくに知らないんだ。(無印よりは素人くさくないけど) とくだん宣伝の意図はないんだ。
いずれにせよ、これ、意外に知られてないっつーか単にわたしがイギリス生活の事前調査をぜんぜんしなかったせいで知らなかっただけなのかもしれない。まあわたしのイギリス・サバイバルはいつもそんな感じ。基本的に情報収集能力が極端に低いんです。しかしこれ学生とはいえ研究に携わる者のはしくれとしては致命的欠陥じゃないのか。なんか今更そんな気がしてきたぞ。まあいいや。がんばろう。
それはよいとして(よくない)、このコーヒードリッパーがあまり普及してないので、当然紙フィルターもあまり売っていません。
実はわたし、ドリッパーはもってきたがこの紙フィルターをもってきておりませんでした。
UK来ていっちゃん最初は、まさか無いなんて思ってもみなくて、Tescoとかそういう普通のスーパー行ってもなくて、血反吐がこみあげるほど色々と探し回ったあげく(少々誇張有☆)、中心街のWhittard of Chelseaというお茶屋さんに行ってようやく見つけました。ちなみにわりと高かった。80枚入りで4ポンドとかだった。
・・・・・・・約1000円か!たっけー!
(いまごろ気づく 照らさずとも良かった過去の闇)
ちなみに英語にはこういう時の心境を表す慣用句として”Let sleeping dogs lie" (寝た犬を起こすな)というものがある。ってか超有名だっての。ごめんなさい。この表現、「寝た子を起こす」「やぶへび」よりももうちょっと深刻な事態のときに使われる気がします。「触らぬ神にたたりなし」もどうかなあ。「風化しつつあった過去のいざこざを不用意につついて再燃させちまった。」みたいな感じです。ちょっと日本語の類似イディオムより深刻じゃありません?
まあそんなことはどうでもいいんだ。(箒でちりを掃く) 結局、紙フィルターですが、その後にUKにあそびに来た友人にまとめ買いしてきてもらいました。日本じゃ100枚200円とかだもんな。
機械のコーヒーメーカーだとドリップものも普及してるんですけどねえ。それでも紙フィルターを使うタイプばかりではないようです。プラスチックみたいな網が中についててフィルターの機能を果たしているのが多いんだ。わたしの実家にあったのは同じ仕組みでもみんな紙フィルター必要だったけどなあ。
ちなみに、じゃあみんな何でコーヒー作ってるの?というと、
イギリスの人びとはコーヒーを飲まない
というのは嘘で、飲みます。最近はお茶に代わってどんどん普及しているらしい。特に若い世代に。
そうしてイギリスならではだなあと思うのは、「紅茶は労働者階級的、コーヒーは中産階級以上的な飲み物として住み分けができつつある」というのが社会に幅広く共有された見方であることです。これはイギリスでのコーヒーの普及の仕方が他の国と違っているというよりは、そういう物言いがアカデミックな業界を超えてすぐさま普及するくらい、「階級」という位相の存在が多くの人びとにとって自明なんだと言ったほうがより的確なんじゃないかと思っとります。そういう分類の仕方、見分け方が、人びとの判断基準のなかにすぐさまスッと入ってくるんだなあと。紅茶とコーヒーを取り巻く社会現実がイギリスの人々の目にはそう把握されるんだなあ、と。
それは分かったから、じゃあイギリス圏の人びとは何でコーヒーを作るんだというと
これです。
カフェティエールCafetiereとかいう名前で呼ばれています。名前からしてフランス由来ですね。
つかこれ、日本では紅茶淹れるために使われているのしか見たことないんですけど、何がどうなって逆転してんでしょう。イギリスで、この透明グラスポットでお茶淹れてんの見たことありません。
・・・Wikipedia行って見てみましたが、別名はフレンチ・ポット、フレンチ・プレス。コーヒー・プレス。そんでもって、コーヒーを淹れるためのものであるとしか書いてありません。お茶にかんする言及は無し。
”History of the French Press”という関連外部リンクに飛んでみましたが、1850年代にフランスで金属製のが発明されて、1930年代にイタリア人がそれをガラス製に再開発うんぬんと書かれていますが、あくまでまずもってコーヒーメーカーであることが前提視された内容です。「[フレンチ・プレスの中には]コーヒー(そしてお茶)ポットとして人気のある製品がいくつかある」とか書いてあるだけだなあ・・・
なんでまた、これ、他の国ではメインの使用法であるらしい「コーヒー作り」が抜けて、二次的なものだったとおぼしき「お茶作り道具」として日本に伝わったんでしょうか。
でもこれで淹れたコーヒー、底に粉がたまってざらざらするんだよなあ・・・ハンドドリッパーのが優秀です。
つか、そもそもの疑問。冒頭であげたハンドドリッパーは日本にどこから伝わったんでしょうか?
こちらに来て以来、台所でコーヒーを淹れるするたびに、「何してんの?それ何?はじめて見た」って言われます。アフリカのとある国から来た人にも、地中海のとある国から来た人にも、台湾の子にも、もちろんUK出身の子にも言われた。ちなみにわたしの淹れるコーヒーはきまって濃すぎるの。わたしにはちょうどいいんだが。「濃いよ」と警告して出すんだけど、一回目は必ず渋い顔をされる。「うえっ、苦っ」みたいな。こっちのコーヒー薄すぎるんだもんよ。薄くて量多すぎだよ。
あ、ちなみにコーヒー豆はスーパーで売ってるフレンチ・ポット用ので、十分ハンドドリップもいけます。
しかしこのドリッパー、まさか日本で発明されたとも思えないし。きっと欧米圏のどっかから来たんだと思うんですが。日本語ウィキペディア行ってみたけど、「ドリッパー」で検索したら、「アキラ(ストリッパー)」「かんな(ストリッパー)」とかばっかり出てきちゃって、ワカンネ。
誰か知ってる人がいたら教えてください。
結論:イギリスに来るコーヒー好きはドリッパーを持参しましょう
意外に知られていないけれどもイギリスでとても見つかりにくいもの
ハンドドリップのためのコーヒードリッパー!
いやあ万が一と思って日本から持ってきて良かったですよ。
ちなみに私が使っているのは無印良品の白い陶器のやつです。
上の写真のカリタの銅製のは(カリタのウェブサイトからDLした)、見た目わかりやすいから画像で使ってるにすぎません。単に白い陶器の奴は白背景でわけわかんなかったから。(そんな理由)カリタがよい会社かどうかもとくに知らないんだ。(無印よりは素人くさくないけど) とくだん宣伝の意図はないんだ。
いずれにせよ、これ、意外に知られてないっつーか単にわたしがイギリス生活の事前調査をぜんぜんしなかったせいで知らなかっただけなのかもしれない。まあわたしのイギリス・サバイバルはいつもそんな感じ。基本的に情報収集能力が極端に低いんです。しかしこれ学生とはいえ研究に携わる者のはしくれとしては致命的欠陥じゃないのか。なんか今更そんな気がしてきたぞ。まあいいや。がんばろう。
それはよいとして(よくない)、このコーヒードリッパーがあまり普及してないので、当然紙フィルターもあまり売っていません。
実はわたし、ドリッパーはもってきたがこの紙フィルターをもってきておりませんでした。
UK来ていっちゃん最初は、まさか無いなんて思ってもみなくて、Tescoとかそういう普通のスーパー行ってもなくて、血反吐がこみあげるほど色々と探し回ったあげく(少々誇張有☆)、中心街のWhittard of Chelseaというお茶屋さんに行ってようやく見つけました。ちなみにわりと高かった。80枚入りで4ポンドとかだった。
・・・・・・・約1000円か!たっけー!
(いまごろ気づく 照らさずとも良かった過去の闇)
ちなみに英語にはこういう時の心境を表す慣用句として”Let sleeping dogs lie" (寝た犬を起こすな)というものがある。ってか超有名だっての。ごめんなさい。この表現、「寝た子を起こす」「やぶへび」よりももうちょっと深刻な事態のときに使われる気がします。「触らぬ神にたたりなし」もどうかなあ。「風化しつつあった過去のいざこざを不用意につついて再燃させちまった。」みたいな感じです。ちょっと日本語の類似イディオムより深刻じゃありません?
まあそんなことはどうでもいいんだ。(箒でちりを掃く) 結局、紙フィルターですが、その後にUKにあそびに来た友人にまとめ買いしてきてもらいました。日本じゃ100枚200円とかだもんな。
機械のコーヒーメーカーだとドリップものも普及してるんですけどねえ。それでも紙フィルターを使うタイプばかりではないようです。プラスチックみたいな網が中についててフィルターの機能を果たしているのが多いんだ。わたしの実家にあったのは同じ仕組みでもみんな紙フィルター必要だったけどなあ。
ちなみに、じゃあみんな何でコーヒー作ってるの?というと、
イギリスの人びとはコーヒーを飲まない
というのは嘘で、飲みます。最近はお茶に代わってどんどん普及しているらしい。特に若い世代に。
そうしてイギリスならではだなあと思うのは、「紅茶は労働者階級的、コーヒーは中産階級以上的な飲み物として住み分けができつつある」というのが社会に幅広く共有された見方であることです。これはイギリスでのコーヒーの普及の仕方が他の国と違っているというよりは、そういう物言いがアカデミックな業界を超えてすぐさま普及するくらい、「階級」という位相の存在が多くの人びとにとって自明なんだと言ったほうがより的確なんじゃないかと思っとります。そういう分類の仕方、見分け方が、人びとの判断基準のなかにすぐさまスッと入ってくるんだなあと。紅茶とコーヒーを取り巻く社会現実がイギリスの人々の目にはそう把握されるんだなあ、と。
それは分かったから、じゃあイギリス圏の人びとは何でコーヒーを作るんだというと
これです。
カフェティエールCafetiereとかいう名前で呼ばれています。名前からしてフランス由来ですね。
つかこれ、日本では紅茶淹れるために使われているのしか見たことないんですけど、何がどうなって逆転してんでしょう。イギリスで、この透明グラスポットでお茶淹れてんの見たことありません。
・・・Wikipedia行って見てみましたが、別名はフレンチ・ポット、フレンチ・プレス。コーヒー・プレス。そんでもって、コーヒーを淹れるためのものであるとしか書いてありません。お茶にかんする言及は無し。
”History of the French Press”という関連外部リンクに飛んでみましたが、1850年代にフランスで金属製のが発明されて、1930年代にイタリア人がそれをガラス製に再開発うんぬんと書かれていますが、あくまでまずもってコーヒーメーカーであることが前提視された内容です。「[フレンチ・プレスの中には]コーヒー(そしてお茶)ポットとして人気のある製品がいくつかある」とか書いてあるだけだなあ・・・
なんでまた、これ、他の国ではメインの使用法であるらしい「コーヒー作り」が抜けて、二次的なものだったとおぼしき「お茶作り道具」として日本に伝わったんでしょうか。
でもこれで淹れたコーヒー、底に粉がたまってざらざらするんだよなあ・・・ハンドドリッパーのが優秀です。
つか、そもそもの疑問。冒頭であげたハンドドリッパーは日本にどこから伝わったんでしょうか?
こちらに来て以来、台所でコーヒーを淹れるするたびに、「何してんの?それ何?はじめて見た」って言われます。アフリカのとある国から来た人にも、地中海のとある国から来た人にも、台湾の子にも、もちろんUK出身の子にも言われた。ちなみにわたしの淹れるコーヒーはきまって濃すぎるの。わたしにはちょうどいいんだが。「濃いよ」と警告して出すんだけど、一回目は必ず渋い顔をされる。「うえっ、苦っ」みたいな。こっちのコーヒー薄すぎるんだもんよ。薄くて量多すぎだよ。
あ、ちなみにコーヒー豆はスーパーで売ってるフレンチ・ポット用ので、十分ハンドドリップもいけます。
しかしこのドリッパー、まさか日本で発明されたとも思えないし。きっと欧米圏のどっかから来たんだと思うんですが。日本語ウィキペディア行ってみたけど、「ドリッパー」で検索したら、「アキラ(ストリッパー)」「かんな(ストリッパー)」とかばっかり出てきちゃって、ワカンネ。
誰か知ってる人がいたら教えてください。
結論:イギリスに来るコーヒー好きはドリッパーを持参しましょう
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.07.15,Sun
数ヶ月前に、戦前・戦中期の日本アニメ二本が見られるリンクを紹介しましたが(→★)、そのうち一本の感想をまだ書いていなかった。ということで、
『くもとちゅうりっぷ』(1943)。全16分。
第二次大戦中の作品ですねえ。ちなみにリンクはYoutubeの動画ページに直接つながってます。音が出るので注意!
こちらは『その時歴史が動いた』でも紹介されたことがあるみたいです。「戦火の中でアニメが生まれた」とかいう特集。平成12年6月の放映だとか。ていうか平成12年って何年前?なんつーか政治スタンスがどうこう言う前に、元号、いちいち調べるの面倒・・・
さて、この『くもとちゅうりっぷ』は前回紹介した『動絵狐狸達引』とは異なり、明確なストーリーラインのある作品である。ある昼間の野に遊ぶ一匹の「てんとうむし」の少女。可愛らしいその姿を見つめる「くも」男は、あわよくば少女を捕らえて食ってやろうと企む———「遊びましょう、遊びましょう、てんとうむしのお嬢さん」。しかし、てんとうむしは居合わせた「ちゅうりっぷ」の中に隠れて、くもの手から逃れようとする。くもは執拗にてんとうむしを追うが、おりしも天を覆う黒雲、轟風と豪雨がくもとちゅうりっぷを襲う。嵐が去り、夜が明けたのちに・・・というお話。原作の童話があるようです。
最初に書いておきますが、技術水準は高いなあと思いました。1943年の時点からこんなに綺麗なアニメが作られていたんだなあと。
そうして、第一印象はディズニーと似てるなあということ。小動物の造型だとか、クラシック風のBGMにあわせたキャラの音楽的な動きとか、『ファンタジア』と雰囲気が濃厚にかぶってました。とくに、『ファンタジア』のなかの、「田園交響曲」(ベートーヴェンの同交響曲にあわせてサテュロスだのディオニュソスだのギリシャ神話のキャラクターが舞い踊る)と、「時の踊り」(ワニとカバとゾウのバレエ)とかすごい似てた。また、晴れた昼→嵐の夜→すがすがしい朝、というように天候と時間の変化のなかに物語の起承転結の地盤を置き、地に生きる者の命運をそのなかに描いていく手法とかも、すごい『ファンタジア』に似てる。
まあ、『ファンタジア』の封切りは1940年、『くもとちゅうりっぷ』は1943年なので、制作者が前者をずいぶん参考にしてるのかもしれませんねえ。これは必ずしも悪い意味で言っているんじゃないです。ディズニーがいかに色々問題を抱えた会社だとしても、『ファンタジア』は傑作だし、それを思わせる内容を作れるというだけで凄いと思う。なにしろ、資金も道具も限られていた戦中だし。
しかしながら、戦時中に作られたものというのは、映像作品も文学も童話も、そりゃもうアグレッシブな戦争色から自由にはなりがたい。大戦まっただなかの時代につくられたこのアニメも、やはり当時のえぐい時代性を感じさせるものがあります。
まず、誰もが気づくことだろうと思うし、事実ウィキペディアの当該項目にも述べられているのが、「主人公」と「敵」のあまりにもワカリヤスイ造型。ぶっちゃけて言ってしまえば、主人公の「てんとうむし」は日本風の顔立ちをした愛らしい女の子で、あきらかに人間的な体型をしている(虫のくせに)。それを食べようとする「くも」は、声からして中年男、黒い肌に茶色い帽子、八本の脚をもった怪物然とした姿で(愛嬌はあるが)、そうしてその顔つきはあからさまにアフリカ系の人間、すなわち「黒人」の典型的なデフォルメとなっている。
そうして「くも」は「てんとうむし」を騙して捕まえようとしているわけだけど、その「遊びましょう、遊びましょう」っていう声とか、表情とか、性的な含意があまりに濃厚だと思うのはわたしだけではないだろう。
つまりここで描かれているのは、罪深い「黒人」男が、かよわく愛らしい「日本人」の少女を甘い言葉でかどわかそうとしているお話なわけです。エッグ。なにがエグいって、「黒人」のステレオタイプをそういう風に使いつつ、「敵はこんな顔をして、わたしたちの愛らしい幼い娘を襲おうとしているのです」というメッセージを入れてくること。
いや、実をいうと制作者はそこまでの意識はなかったかもという気もするのです。手塚治虫が初期の作品でああいうふうに「アフリカの原始人」のイメージを使ったのは、それが内包する意味や現実社会とのつながりに気づかないままに、アメリカ合州国でよく使われていたキャラ造型を取り入れただけだと思うし、それは手塚治虫がすごい偏見に満ちた人間だったということを意味しない。そうしてこのアニメでも似たようなものだったのかもしれない。制作者は単純にクモとてんとう虫のお話を作ったつもりだったのかもしれない。
だけども、問題なのは制作者の意図がどうだった、こうだったという話ではない。「そう読めてしまう」ということが重要なのです。そうして、そう読まれておかしくない時代風潮が当時あったはずだということ。さらに、そういうイメージが「子ども向けアニメ」を通じて広がっていくのだということ。そういう意味ではかなりエグい。超EGG。
まあ、戦中のプロパガンダ映画ってのはどれもこれもエグいし、性的含意についても、「敵の男にわれわれの貞潔な娘や妻が奪われる/穢される/犯される」という隠喩は、多くの国で頻繁に用いられてきたイメージではあります。そういう意味ではすごく典型的でもあると思う。
しかしまあ、この作品は表向き、子ども向けの無邪気な童話風を装ってるので、そのエグさがきわだつわけです。ほんと、見かけのラブリー路線のくせに・・・。
まあ、わたしは詳しい検討をした本を読んではいないんだけど、ディズニーキャラの造型も人種のステレオタイプをバリバリに再生産しているようなので、無邪気な童話を装った作品というのには気をつけねばならんということですな。全く。
ウィキペディアでは、「くも」が(おそらく第二次大戦中の)欧米などの外敵の隠喩と読める、と書いてあって、それは当時の日本の社会的文脈ではそうなんだろうと思います。「黒人」が邪悪な敵国である欧米全体の象徴。
だけどもそれに加えて興味深いのが、ここで用いられている黒人のステレオタイプイメージは、欧米社会の中でも十分に機能しえただろうということ。クモに狙われるこのてんとう虫をいかにも白人ぽい女の子に置き換えて、そういうアニメがかつてのUSAで作られていたとしても、全然不思議じゃない。つまりは、欧米社会で長年を通じて作り上げられてきた、人種主義的で、差別的でもあるステレオタイプを、欧米を敵国と見なしていた日本がそっくりそのまま取り込み、そんでもって「白人」の位置を「日本人」と取っ替えて似たようなメッセージを持たせている。それがこのアニメなんだなあと。わたしがもっともエグいと思ったのは、そこです。
ちなみに、Youtubeのコメントは、このエグさに対する指摘で溢れている。単純に「すごい!綺麗!」と褒め称えているのももちろんあるが、たとえば、
「技術的にすごいのは認めるけど、黒人のあまりにも醜いステレオタイプが、なんでここで使われなきゃならなかったんだ?黒人は日本に住んですらいなかったのに!なぜ知りもしない人間に対して、ここまでネガティブなイメージを持てたんだ?」
「しかしUSAの文脈でしか機能しないようなステレオタイプを、この監督はよくわきまえていたもんだよ。驚きだ」
・・・等々。USAのような場所に住む人の多くが、このアニメを見て即座にそこにある人種主義的なネガティブなイメージ操作を読み取るのだということがうかがえて、興味深い。
しかしここのコメント見てると気分鬱になるわ・・・。
ところで、戦中プロパガンダがどうやって「敵」を邪悪に描いてきたか、つうイメージ戦略を論じた有名な本をここで紹介しようと思ったんだけど、例によってAmazonには画像がないのね。どうしてわたしが紹介しようと思う本にかぎって画像がないのだ、アマゾンは?
(リンクは紀伊国屋の当該書籍のページへ。ちなみに画像もそのページから借りました。)
ちなみに2006年7・8月号の岩波の『文学』に、このアニメにかんする論考があるみたい。題して「戦中漫画映画におけるウツの用法--蠱惑する『くもとちゅうりっぷ』」。ちょっと気になる。
『くもとちゅうりっぷ』(1943)。全16分。
第二次大戦中の作品ですねえ。ちなみにリンクはYoutubeの動画ページに直接つながってます。音が出るので注意!
こちらは『その時歴史が動いた』でも紹介されたことがあるみたいです。「戦火の中でアニメが生まれた」とかいう特集。平成12年6月の放映だとか。ていうか平成12年って何年前?なんつーか政治スタンスがどうこう言う前に、元号、いちいち調べるの面倒・・・
さて、この『くもとちゅうりっぷ』は前回紹介した『動絵狐狸達引』とは異なり、明確なストーリーラインのある作品である。ある昼間の野に遊ぶ一匹の「てんとうむし」の少女。可愛らしいその姿を見つめる「くも」男は、あわよくば少女を捕らえて食ってやろうと企む———「遊びましょう、遊びましょう、てんとうむしのお嬢さん」。しかし、てんとうむしは居合わせた「ちゅうりっぷ」の中に隠れて、くもの手から逃れようとする。くもは執拗にてんとうむしを追うが、おりしも天を覆う黒雲、轟風と豪雨がくもとちゅうりっぷを襲う。嵐が去り、夜が明けたのちに・・・というお話。原作の童話があるようです。
最初に書いておきますが、技術水準は高いなあと思いました。1943年の時点からこんなに綺麗なアニメが作られていたんだなあと。
そうして、第一印象はディズニーと似てるなあということ。小動物の造型だとか、クラシック風のBGMにあわせたキャラの音楽的な動きとか、『ファンタジア』と雰囲気が濃厚にかぶってました。とくに、『ファンタジア』のなかの、「田園交響曲」(ベートーヴェンの同交響曲にあわせてサテュロスだのディオニュソスだのギリシャ神話のキャラクターが舞い踊る)と、「時の踊り」(ワニとカバとゾウのバレエ)とかすごい似てた。また、晴れた昼→嵐の夜→すがすがしい朝、というように天候と時間の変化のなかに物語の起承転結の地盤を置き、地に生きる者の命運をそのなかに描いていく手法とかも、すごい『ファンタジア』に似てる。
まあ、『ファンタジア』の封切りは1940年、『くもとちゅうりっぷ』は1943年なので、制作者が前者をずいぶん参考にしてるのかもしれませんねえ。これは必ずしも悪い意味で言っているんじゃないです。ディズニーがいかに色々問題を抱えた会社だとしても、『ファンタジア』は傑作だし、それを思わせる内容を作れるというだけで凄いと思う。なにしろ、資金も道具も限られていた戦中だし。
しかしながら、戦時中に作られたものというのは、映像作品も文学も童話も、そりゃもうアグレッシブな戦争色から自由にはなりがたい。大戦まっただなかの時代につくられたこのアニメも、やはり当時のえぐい時代性を感じさせるものがあります。
まず、誰もが気づくことだろうと思うし、事実ウィキペディアの当該項目にも述べられているのが、「主人公」と「敵」のあまりにもワカリヤスイ造型。ぶっちゃけて言ってしまえば、主人公の「てんとうむし」は日本風の顔立ちをした愛らしい女の子で、あきらかに人間的な体型をしている(虫のくせに)。それを食べようとする「くも」は、声からして中年男、黒い肌に茶色い帽子、八本の脚をもった怪物然とした姿で(愛嬌はあるが)、そうしてその顔つきはあからさまにアフリカ系の人間、すなわち「黒人」の典型的なデフォルメとなっている。
そうして「くも」は「てんとうむし」を騙して捕まえようとしているわけだけど、その「遊びましょう、遊びましょう」っていう声とか、表情とか、性的な含意があまりに濃厚だと思うのはわたしだけではないだろう。
つまりここで描かれているのは、罪深い「黒人」男が、かよわく愛らしい「日本人」の少女を甘い言葉でかどわかそうとしているお話なわけです。エッグ。なにがエグいって、「黒人」のステレオタイプをそういう風に使いつつ、「敵はこんな顔をして、わたしたちの愛らしい幼い娘を襲おうとしているのです」というメッセージを入れてくること。
いや、実をいうと制作者はそこまでの意識はなかったかもという気もするのです。手塚治虫が初期の作品でああいうふうに「アフリカの原始人」のイメージを使ったのは、それが内包する意味や現実社会とのつながりに気づかないままに、アメリカ合州国でよく使われていたキャラ造型を取り入れただけだと思うし、それは手塚治虫がすごい偏見に満ちた人間だったということを意味しない。そうしてこのアニメでも似たようなものだったのかもしれない。制作者は単純にクモとてんとう虫のお話を作ったつもりだったのかもしれない。
だけども、問題なのは制作者の意図がどうだった、こうだったという話ではない。「そう読めてしまう」ということが重要なのです。そうして、そう読まれておかしくない時代風潮が当時あったはずだということ。さらに、そういうイメージが「子ども向けアニメ」を通じて広がっていくのだということ。そういう意味ではかなりエグい。超EGG。
まあ、戦中のプロパガンダ映画ってのはどれもこれもエグいし、性的含意についても、「敵の男にわれわれの貞潔な娘や妻が奪われる/穢される/犯される」という隠喩は、多くの国で頻繁に用いられてきたイメージではあります。そういう意味ではすごく典型的でもあると思う。
しかしまあ、この作品は表向き、子ども向けの無邪気な童話風を装ってるので、そのエグさがきわだつわけです。ほんと、見かけのラブリー路線のくせに・・・。
まあ、わたしは詳しい検討をした本を読んではいないんだけど、ディズニーキャラの造型も人種のステレオタイプをバリバリに再生産しているようなので、無邪気な童話を装った作品というのには気をつけねばならんということですな。全く。
ウィキペディアでは、「くも」が(おそらく第二次大戦中の)欧米などの外敵の隠喩と読める、と書いてあって、それは当時の日本の社会的文脈ではそうなんだろうと思います。「黒人」が邪悪な敵国である欧米全体の象徴。
だけどもそれに加えて興味深いのが、ここで用いられている黒人のステレオタイプイメージは、欧米社会の中でも十分に機能しえただろうということ。クモに狙われるこのてんとう虫をいかにも白人ぽい女の子に置き換えて、そういうアニメがかつてのUSAで作られていたとしても、全然不思議じゃない。つまりは、欧米社会で長年を通じて作り上げられてきた、人種主義的で、差別的でもあるステレオタイプを、欧米を敵国と見なしていた日本がそっくりそのまま取り込み、そんでもって「白人」の位置を「日本人」と取っ替えて似たようなメッセージを持たせている。それがこのアニメなんだなあと。わたしがもっともエグいと思ったのは、そこです。
ちなみに、Youtubeのコメントは、このエグさに対する指摘で溢れている。単純に「すごい!綺麗!」と褒め称えているのももちろんあるが、たとえば、
「技術的にすごいのは認めるけど、黒人のあまりにも醜いステレオタイプが、なんでここで使われなきゃならなかったんだ?黒人は日本に住んですらいなかったのに!なぜ知りもしない人間に対して、ここまでネガティブなイメージを持てたんだ?」
「しかしUSAの文脈でしか機能しないようなステレオタイプを、この監督はよくわきまえていたもんだよ。驚きだ」
・・・等々。USAのような場所に住む人の多くが、このアニメを見て即座にそこにある人種主義的なネガティブなイメージ操作を読み取るのだということがうかがえて、興味深い。
しかしここのコメント見てると気分鬱になるわ・・・。
ところで、戦中プロパガンダがどうやって「敵」を邪悪に描いてきたか、つうイメージ戦略を論じた有名な本をここで紹介しようと思ったんだけど、例によってAmazonには画像がないのね。どうしてわたしが紹介しようと思う本にかぎって画像がないのだ、アマゾンは?
(リンクは紀伊国屋の当該書籍のページへ。ちなみに画像もそのページから借りました。)
ちなみに2006年7・8月号の岩波の『文学』に、このアニメにかんする論考があるみたい。題して「戦中漫画映画におけるウツの用法--蠱惑する『くもとちゅうりっぷ』」。ちょっと気になる。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2007.07.09,Mon
★★ 概要 ★★
本や漫画や映画のレビューを中心としたブログです。
週二回の定期更新をめざす。
管理人・豆やもりは英国に留学中の大学院生。
漫画も小説も映画も専門ではなく、さして多くを知ってもいません。素人の長文レビューです。ただし、あくまで感想ではなく「批評」にしたいという意気込みだけがあります。
たまにイギリス生活についての雑多な記録が混じります。
ただし「イギリスでこんな素敵なものを見ました♪」という素敵な記録ではありません。言語も違えば一定程度社会文化も日本とは違うイギリスで、なんとか衣食住を確保せんがために怠惰な体にムチ打ってサバイバルをする記録です。
まとまった量のある文章・レビューについては、INDEX(もくじ)からたどれます。左コラムのCATEGORIESからINDEXにお進み下さい。
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の、最低どれか一つをやってください。(全部はしなくていいです)
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怠け者のちいさなやもりですが色々ぶつぶつ言うのは好きなようです。
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
A tiny lazy gecko (=yamori) always mumbling something
Please excuse my poor English -- I am still under training
時折超つたない英語を喋りますが修行中なのでどうかお許しください。
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