本、漫画、映画のレビューおよび批評。たまにイギリス生活の雑多な記録。
Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.01.22,Tue
このところひどい天気が続いている。
雨雨雨雨雨、しかもけっこうな暴風雨。
今日は十日ぶりくらいに青空が見えたと思ったら、二時間後にはまた雨雨雨雨雨雨
本気でいい加減にせーよと言いたい。
おかげであまり寒くはないが。日本はなんかずいぶんな寒波のようですね。
昨年のイギリスの夏は記録的な大雨で、かなりの数の住居が浸水して社会的にも大問題になったんだけど、なんかまた大規模の浸水が起こりつつあるという話。こわやこわや。
中には、去年の夏に被害にあったのに、またもや・・・という人もいるみたいで、ほんとうに気の毒だ。こんなんじゃまともに日常生活を送っていられないよなあ。半年前の反省の上に立って、補償や援助のシステムが少しは整っていればいいんだけど、どうなんだろう。
最近、同居人に入れ替えがあって、新しくイングランドの子が一人とフランスの子が一人入ってきた。フランスの子はけっこう若くて、近くの見所などにいろいろ足をのばしてUK生活を満喫したいなあ、とか言って夢いっぱい。だけどあまりに天気が悪いので、どうにも外出する気が起こらないらしい。「天気がよくなったら行こうかなと思うんだよね」との彼女の声に、イングランドの子が
「七月まで待つの?」
なんて国だよここは
雨雨雨雨雨、しかもけっこうな暴風雨。
今日は十日ぶりくらいに青空が見えたと思ったら、二時間後にはまた雨雨雨雨雨雨
本気でいい加減にせーよと言いたい。
おかげであまり寒くはないが。日本はなんかずいぶんな寒波のようですね。
昨年のイギリスの夏は記録的な大雨で、かなりの数の住居が浸水して社会的にも大問題になったんだけど、なんかまた大規模の浸水が起こりつつあるという話。こわやこわや。
中には、去年の夏に被害にあったのに、またもや・・・という人もいるみたいで、ほんとうに気の毒だ。こんなんじゃまともに日常生活を送っていられないよなあ。半年前の反省の上に立って、補償や援助のシステムが少しは整っていればいいんだけど、どうなんだろう。
最近、同居人に入れ替えがあって、新しくイングランドの子が一人とフランスの子が一人入ってきた。フランスの子はけっこう若くて、近くの見所などにいろいろ足をのばしてUK生活を満喫したいなあ、とか言って夢いっぱい。だけどあまりに天気が悪いので、どうにも外出する気が起こらないらしい。「天気がよくなったら行こうかなと思うんだよね」との彼女の声に、イングランドの子が
「七月まで待つの?」
なんて国だよここは
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Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.01.19,Sat
2007年のカンヌでグランプリを取ったという、ルーマニア映画の『四ヶ月と三週間、そして二日間』(原題は”4 luni 3 saptamani si 2 zile”)を見てきましたよ。
この映画、『タイムズ』と『ガーディアン』の映画レビューがそろって最高評価の五つ星をつけたというんで、イギリスではちょっとした話題をふりまいています。両方ともめったに五つ星つけないらしい。たしかにガーディアンの映画レビューはたまに見てるけど、五つ星なんていままで一回も目にしたことなかったわ。
冷戦構造の崩壊より2年前の1987年のルーマニアを舞台に、法律で禁じられた人口妊娠中絶を違法に行おうとする若い女学生二人を描いたこのお話、確かにきわめて質の高いパワフルな出来だった。
個人的には、映画が終わった後「この映画が全国紙の映画レビューで五つ星を取るのかあ」と、ちょっと驚きではあったのだけれども、それは作品の質にマイナスポイントがあったからというよりは、そのリアリズムのあまりの妥協のなさゆえ。物語としての娯楽性を高めるとか、聴衆を楽しませるお遊びの挿入とか、なにかストンと落ちたりぱあっと視界が開けたりする結末をつける、とか、そういうことをストイックなまでにやっていないのね。人によっては退屈だとか、いやどちらかというと「しんどい」かな、そう感じる人もいるかもしれない。起伏に乏しいわけではないんだけど、ある意味でかなりの忍耐力を要求される映画。
ちなみに、『タイムズ』のレビューの冒頭は「社会的リアリズムと政治的な訴えかけ、思わず歯がみしてしまうような緊張感とが、渾然一体と絡み合った並ぶものなき傑作」となっています。まさに手放しのベタ褒め(汗)
タイムズの「Have your say」(読者がそれぞれの記事にコメントをつける欄)には、ルーマニアの18才の女性のコメントがあって、そこには「1989年以前のルーマニアを知らない私にはとても遠いお話のように感じられるけれど、現在の私たちがどれだけまともな社会に生きているのかということを実感させてくれる。誰もが見るべき映画です」というコメントがあって、興味深い。この映画がわれわれにつきつけてくるものが、本当に「おっかない全体主義的共産主義体制」の産物にすぎないかどうかはしっかり検討しなくちゃならないと思うが(たぶん違うからね)、このコメントで興味深いのはそこじゃなくて、それだけの時代の隔絶感が、いまのルーマニアの若年層にあるんだなあということ。「世代」という概念が、一定の歴史的条件のもとにあってはじめて、きわめて重要な意味をもってくるんだということがよくわかる。いまの日本の80年代世代とか90年代世代とか、そういう世代差とは圧倒的に規模が違う、底知れない断絶。その断絶のあちらとこちらで顔をつきあわせ、さして変わりなく思える日常を隣り合ってすごしながら、人々がそこで生きているんだなあ、と。それってすごいことだよなあ。日本において「戦後世代」というものが持った意味も、かつてはそういうものだったんだろう。
いずれにせよ、冷戦構造時代の東欧社会の経験や、そこではぐくまれたさまざまな思想や文化は、その斬新さや衝撃性を失うというよりも、東西の壁崩壊20年を経た今になってようやくその内実をあらわにしはじめている気がする。——少なくとも旧「西側」諸国においてはまちがいなく。
しっかし関係ないが、ルーマニアの人はふつうに英語が上手だね。この18才の人もすごく自然な英語を書いてらっしゃる。いや、うちの学部にもルーマニアの人が一人いるんだけど、彼女も英語上手なんだよこれが・・・レポートとか論文とかは英語のほうがルーマニア語より書きやすい、とか言ってたよ。うえースゲエ。
ちなみにこの映画、邦題では「四ヶ月三週二日間」となっているのもあるようだけど、これは訳のまちがいではないかな?「四ヶ月と三週」と「二日間」は、厳密には別のものをさしていると思うのですが。日本でもこの春公開されるということですが、ちゃんと訳されるといいのだが……って、プロが訳すんだから大丈夫か。
時間があればぜひレビューを書きたいと思います。ここ二月ほどのあいだに見た映画は、マイケル・ムーアの『シッコ』とか、ヴェルナー・ヘルツォークの怪作『レスキュー・ドーンRescue Dawn』とか、かなりイイ作品が多いんですが、ちゃんとレビュー書けてないなあ。この『4,3,2』含め、ぜひ思ったことを書き留めておきたい映画ばかりです。
この映画、『タイムズ』と『ガーディアン』の映画レビューがそろって最高評価の五つ星をつけたというんで、イギリスではちょっとした話題をふりまいています。両方ともめったに五つ星つけないらしい。たしかにガーディアンの映画レビューはたまに見てるけど、五つ星なんていままで一回も目にしたことなかったわ。
冷戦構造の崩壊より2年前の1987年のルーマニアを舞台に、法律で禁じられた人口妊娠中絶を違法に行おうとする若い女学生二人を描いたこのお話、確かにきわめて質の高いパワフルな出来だった。
個人的には、映画が終わった後「この映画が全国紙の映画レビューで五つ星を取るのかあ」と、ちょっと驚きではあったのだけれども、それは作品の質にマイナスポイントがあったからというよりは、そのリアリズムのあまりの妥協のなさゆえ。物語としての娯楽性を高めるとか、聴衆を楽しませるお遊びの挿入とか、なにかストンと落ちたりぱあっと視界が開けたりする結末をつける、とか、そういうことをストイックなまでにやっていないのね。人によっては退屈だとか、いやどちらかというと「しんどい」かな、そう感じる人もいるかもしれない。起伏に乏しいわけではないんだけど、ある意味でかなりの忍耐力を要求される映画。
ちなみに、『タイムズ』のレビューの冒頭は「社会的リアリズムと政治的な訴えかけ、思わず歯がみしてしまうような緊張感とが、渾然一体と絡み合った並ぶものなき傑作」となっています。まさに手放しのベタ褒め(汗)
タイムズの「Have your say」(読者がそれぞれの記事にコメントをつける欄)には、ルーマニアの18才の女性のコメントがあって、そこには「1989年以前のルーマニアを知らない私にはとても遠いお話のように感じられるけれど、現在の私たちがどれだけまともな社会に生きているのかということを実感させてくれる。誰もが見るべき映画です」というコメントがあって、興味深い。この映画がわれわれにつきつけてくるものが、本当に「おっかない全体主義的共産主義体制」の産物にすぎないかどうかはしっかり検討しなくちゃならないと思うが(たぶん違うからね)、このコメントで興味深いのはそこじゃなくて、それだけの時代の隔絶感が、いまのルーマニアの若年層にあるんだなあということ。「世代」という概念が、一定の歴史的条件のもとにあってはじめて、きわめて重要な意味をもってくるんだということがよくわかる。いまの日本の80年代世代とか90年代世代とか、そういう世代差とは圧倒的に規模が違う、底知れない断絶。その断絶のあちらとこちらで顔をつきあわせ、さして変わりなく思える日常を隣り合ってすごしながら、人々がそこで生きているんだなあ、と。それってすごいことだよなあ。日本において「戦後世代」というものが持った意味も、かつてはそういうものだったんだろう。
いずれにせよ、冷戦構造時代の東欧社会の経験や、そこではぐくまれたさまざまな思想や文化は、その斬新さや衝撃性を失うというよりも、東西の壁崩壊20年を経た今になってようやくその内実をあらわにしはじめている気がする。——少なくとも旧「西側」諸国においてはまちがいなく。
しっかし関係ないが、ルーマニアの人はふつうに英語が上手だね。この18才の人もすごく自然な英語を書いてらっしゃる。いや、うちの学部にもルーマニアの人が一人いるんだけど、彼女も英語上手なんだよこれが・・・レポートとか論文とかは英語のほうがルーマニア語より書きやすい、とか言ってたよ。うえースゲエ。
ちなみにこの映画、邦題では「四ヶ月三週二日間」となっているのもあるようだけど、これは訳のまちがいではないかな?「四ヶ月と三週」と「二日間」は、厳密には別のものをさしていると思うのですが。日本でもこの春公開されるということですが、ちゃんと訳されるといいのだが……って、プロが訳すんだから大丈夫か。
時間があればぜひレビューを書きたいと思います。ここ二月ほどのあいだに見た映画は、マイケル・ムーアの『シッコ』とか、ヴェルナー・ヘルツォークの怪作『レスキュー・ドーンRescue Dawn』とか、かなりイイ作品が多いんですが、ちゃんとレビュー書けてないなあ。この『4,3,2』含め、ぜひ思ったことを書き留めておきたい映画ばかりです。
レビューはこちら(長文)。2007.02.19
Posted by まめやもり - mameyamori - 2008.01.13,Sun
旅行記をちょっとお休み。
個人的な意見を言えば、ショパンの最高傑作はソナタ第二番だと思う。晩年に作曲されたショパン音楽の集大成と言われる「舟歌」は、たしかに美しく叙情的、きらびやかでもあるのだが、精神性の厳しさおよび物語としての深みにおいて、このソナタにははるかに及ばない。まあショパンはおろか音楽の専門家ですらないわたしが、音楽の「精神性」だの「物語としての深み」などを語ってもちゃんちゃらおかしいことはわかっているのだが、それはそれ、当該分野をほんの少しかじっただけのアマチュアの忌憚なき意見なるものも、世には必要なのである。
ちなみにショパンがこのソナタを作曲したのは29才の時だったということをこちらのウェブサイトを読んで発見し、驚愕した。29才にしてこの思想・・・!作曲家は短命なのが多いが(31才で死んだシューベルトはその代表だ)、音楽の哲学というものにおいては、その深さと生の経験の長さとが関係をもたないのだろうか。文学、絵画などの常識から考えてみたとき、この作品はとても20代の思想から生み出されるものではないように思えるのだが・・・
ちなみに晩年の作と言われる舟歌の作曲はそれでも36才で、没年時は39才であった。若いなあ。
もうずいぶん昔になる。友達があるCDを貸してくれた。
曲というのは演奏者によるというが、本当にそうなのか。正直言ってそれを実感したことがない。好きな曲は好きな曲。嫌いな作曲家は嫌いな作曲家。それを根本からひっくり返してしまうような演奏に、正直言って出会ったことがない。
たしかそんなことをわたしが彼女の前で言ったのだ。そうすると彼女が、じゃ、こんなのどう、と言って一枚のCDを差し出した。それがこれである。
それから十年の歳月を経たが、このソナタ第二番の第一楽章を聞いたときの感動を凌駕する音楽に、わたしはいまだ出会っていない。そういう意味では、わたしの精神史に大きな足跡を残す盤である。いわゆるクラシック音楽というものがつねに家の中に流れている家庭に育ち、自身も幼いときにピアノをそれなりに習っていながら、好きな演奏家が思いつかないほどに音楽的に未熟だったわたしが、このCDとの出会いをきっかけに「演奏の奇跡」というものが世に存在するのだと、漠然と気づいた。そういうCDである。まあ、クラシックファンとすら言いがたいくらい音楽に淡白な自分なので、こう言っても重みがないなあとは、われながら思うんだけど。
簡潔にしてドラマチックな導入からはじまる第一主題。胸に迫るせっぱ詰まった訴えかけが劇的な和音の連打で締められるさまに、まずもう何も考えられなくなる。そこから流れるように、だが百八十度の回転を見せて始まる「いかにもショパン」な叙情に満ちた第二主題。あざといまでに悲壮的な盛り上がりを経て、展開部における体を打ちつけるような演奏は、渦巻く暗闇が暴力的に盛り上がり、最高潮に達するやいなや突如としてまぶしい光へと変貌する物語的官能——とでも言ったらよいのか。通常音に用いられる単語を使って表現することをためらわせるまでの迫力である。その後、展開部をあれほど激しく「やってみせた」後にして、ここまで優しく弾きやがるか、と、もはや悔しくなるまでの再現部。もう言葉のいらないコーダの、終結の鮮やかさ。
クラシックというのは一般にはBGMの印象があるようだが、真に優れた演奏というものはBGMとして聞かれることを許さない。あまりに強烈な存在感に、否応なくひとの意識を虜にしてしまうのだ。この十年間、ことあるごとに幾度と無く聞いてきたこの盤だが、そのたびに他のすべての動きを(歩みをすら)止めて、ただただスピーカーから流れ出す魔術に聞き入ってしまう。そしてまたすごいのは、何百回となく聞いてなお、まぶしいまでに鮮烈な音楽的感動が失わわれないことである。聴く者の状態がどれだけ変わっても、つねにその耳に響く何かをもっている。音楽と自分自身との対話が同時につねにそこにある。真に特別な演奏とはそういうものである。
いま芸術でなく魔術と書いたが、ホロヴィッツは「鬼気迫る」「魔術師」「鬼才」「怪物的」なる言葉があまりにもよく似合う演奏家である。演奏家の天才にも、人道的、禁欲的、激情的、繊細かつ叙情的、などいくつかのタイプがある(と思う)が、ホロヴィッツはなかでも「悪魔的」な天才だ。その演奏にはえてして、すぐれているだけではなく「これは人間の作り出すものではない」と思わせる何かがある。ちなみに、「狂気に満ちた演奏」ではない。ホロヴィッツの演奏はおそろしい解釈とテクニックに満ちあふれ、時にはメチャクチャですらあるのに、つねにどこかしらの余裕を感じさせる。これを弾きながらホロヴィッツはたしかに笑っていたかもしれないと、そう思わせる何かがあるのだ。まさにその奇妙なバランスこそが、彼を悪魔的な演奏家たらしめているのかもしれない。
ところでホロヴィッツ本人は、超絶ワガママで扱いにくく自分勝手な奇人だったようである。やはりショパン弾きとして有名なルビンシュタインというピアニストがおり、この人の演奏はホロヴィッツと同じ曲を弾いているとは思えないほど大人しいのだが、このルビンシュタインとホロヴィッツ双方のピアノの専属調律師を兼ねたという人物の自伝を、昔読んだことがある。それによれば、二人は演奏から想像されるのと呆れるほど符合したパーソナリティをもっていて、たとえばその調律師が子どもを連れてそれぞれの家にお邪魔したとき(だったかな)、ルビンシュタインは優しさあふれる対応で子どもの相手をし、子どももルビンシュタインおじさんが大好きになったのだが、ホロヴィッツはけんもほろろに「何このガキ」という態度を隠さず、子どもは泣いてどこかに逃げてしまったという。またルビンシュタインがいつどこでもどんなピアノでも文句ひとつ言わずに笑顔で弾くのに対し、ホロヴィッツは自分のお気に入りのピアノでなければ決してコンサートを開こうとせず、毎回ヘリコプタ(トラクターだったかな)で会場まで運ばせていたそうである。なんてワガママ。ちなみにこの本、もうずいぶん昔に読んだので、ところどころがあやしくなっているが・・・詳細まちがってたらゴメンナサイ。
さそうあきらの漫画「神童」に描かれている変具合はちょっと子供っぽすぎという気がするが、それでも気むずかしい変な人だったのは確からしい。あと恐妻家だったのも。いや奥さんトスカニーニの娘だしね。奥さんのお父さんが怖いよねとりあえず。
なお言い忘れていたが、このショパンのソナタ第二番はあまりにも有名な「葬送行進曲」(デーンデーンデデーンデーンデデーンデデーンデデーン)の原曲である。第三楽章の主題がアレなのだ。これに関して言えば、昔つきあっていた相手が部屋でこのCDをかけたときに「うっはwwwコレwww」と言って笑い出したという嫌な思い出がある(主観的にとても嫌な思い出である)。第三楽章バカにすんな。
ちなみにこの「嫌さ」は、ムンク展で全身を揺さぶられるような深い衝撃をおぼえ、その後足元もおぼつかないままとぼとぼと出口に向かって歩いていて、ふと横を見ると売店で大量に「叫び」プラスチック風船が売られているのを見たときの「開いた口がふさがらない嫌さ」にすごく似ている。
ところで今回のエントリを書くにあたって少し参考にさせていただいたウェブサイトが面白い。ショパンの全作品を作曲年ごとにまとめて検討しているというもの。途中で挿入されているショパンについての、あるいはウェブサイト管理者さん本人についてのエピソードが楽しい。たとえばこのページの「舟歌」の項目。
なんちゅう適当作曲家ショパン。こんなやつだったのか!ロマンチストでメランコリックでナルシストで神経質で繊細な人というイメージが強いので(いや知らないけど音楽を聴くと)、こういう一面があったと思うと笑える。いや、曲のほかの部分についてはすごく神経質だったのかもしれないのだが。
あとこの部分も素敵。これは管理人さん本人の回想。
「弾いている最中にもかかわらず若い男がノックもせずバーンと入って来て 「そこはどういう指使いにしている?」 などと、いきなり話しかけて来るのだ」って、ああはああ!ロマーン!なんて音楽アカデミーロマン!そんなふうに話しかけられてみたーい!いや若い男がいいんじゃなくてこのピアノしか考えてない強引さが良いのよ。
そんでもってこれをきっかけに無二の親友になったり超いい関係のライバルになったりして・・・うふふ・・・って、たぶんならなかったと思うんですが、なんかいいですね。アシュケナージの息子のレッスン受けられるなんて凄いじゃないか!こう、ヨーロッパの音楽アカデミーというのはこう、のだめカンタービレも顔負けのドラマがそこここにあるわけで。いやイギリスは厳密にはヨーロッパじゃないけどさ。いずれにせよ素敵です。てかこの管理人さんいったい何者でらっしゃるのだろう?音楽のプロではないと書かれているが・・・とりあえず文章が素敵すぐる。
個人的な意見を言えば、ショパンの最高傑作はソナタ第二番だと思う。晩年に作曲されたショパン音楽の集大成と言われる「舟歌」は、たしかに美しく叙情的、きらびやかでもあるのだが、精神性の厳しさおよび物語としての深みにおいて、このソナタにははるかに及ばない。まあショパンはおろか音楽の専門家ですらないわたしが、音楽の「精神性」だの「物語としての深み」などを語ってもちゃんちゃらおかしいことはわかっているのだが、それはそれ、当該分野をほんの少しかじっただけのアマチュアの忌憚なき意見なるものも、世には必要なのである。
ちなみにショパンがこのソナタを作曲したのは29才の時だったということをこちらのウェブサイトを読んで発見し、驚愕した。29才にしてこの思想・・・!作曲家は短命なのが多いが(31才で死んだシューベルトはその代表だ)、音楽の哲学というものにおいては、その深さと生の経験の長さとが関係をもたないのだろうか。文学、絵画などの常識から考えてみたとき、この作品はとても20代の思想から生み出されるものではないように思えるのだが・・・
ちなみに晩年の作と言われる舟歌の作曲はそれでも36才で、没年時は39才であった。若いなあ。
もうずいぶん昔になる。友達があるCDを貸してくれた。
曲というのは演奏者によるというが、本当にそうなのか。正直言ってそれを実感したことがない。好きな曲は好きな曲。嫌いな作曲家は嫌いな作曲家。それを根本からひっくり返してしまうような演奏に、正直言って出会ったことがない。
たしかそんなことをわたしが彼女の前で言ったのだ。そうすると彼女が、じゃ、こんなのどう、と言って一枚のCDを差し出した。それがこれである。
それから十年の歳月を経たが、このソナタ第二番の第一楽章を聞いたときの感動を凌駕する音楽に、わたしはいまだ出会っていない。そういう意味では、わたしの精神史に大きな足跡を残す盤である。いわゆるクラシック音楽というものがつねに家の中に流れている家庭に育ち、自身も幼いときにピアノをそれなりに習っていながら、好きな演奏家が思いつかないほどに音楽的に未熟だったわたしが、このCDとの出会いをきっかけに「演奏の奇跡」というものが世に存在するのだと、漠然と気づいた。そういうCDである。まあ、クラシックファンとすら言いがたいくらい音楽に淡白な自分なので、こう言っても重みがないなあとは、われながら思うんだけど。
簡潔にしてドラマチックな導入からはじまる第一主題。胸に迫るせっぱ詰まった訴えかけが劇的な和音の連打で締められるさまに、まずもう何も考えられなくなる。そこから流れるように、だが百八十度の回転を見せて始まる「いかにもショパン」な叙情に満ちた第二主題。あざといまでに悲壮的な盛り上がりを経て、展開部における体を打ちつけるような演奏は、渦巻く暗闇が暴力的に盛り上がり、最高潮に達するやいなや突如としてまぶしい光へと変貌する物語的官能——とでも言ったらよいのか。通常音に用いられる単語を使って表現することをためらわせるまでの迫力である。その後、展開部をあれほど激しく「やってみせた」後にして、ここまで優しく弾きやがるか、と、もはや悔しくなるまでの再現部。もう言葉のいらないコーダの、終結の鮮やかさ。
クラシックというのは一般にはBGMの印象があるようだが、真に優れた演奏というものはBGMとして聞かれることを許さない。あまりに強烈な存在感に、否応なくひとの意識を虜にしてしまうのだ。この十年間、ことあるごとに幾度と無く聞いてきたこの盤だが、そのたびに他のすべての動きを(歩みをすら)止めて、ただただスピーカーから流れ出す魔術に聞き入ってしまう。そしてまたすごいのは、何百回となく聞いてなお、まぶしいまでに鮮烈な音楽的感動が失わわれないことである。聴く者の状態がどれだけ変わっても、つねにその耳に響く何かをもっている。音楽と自分自身との対話が同時につねにそこにある。真に特別な演奏とはそういうものである。
いま芸術でなく魔術と書いたが、ホロヴィッツは「鬼気迫る」「魔術師」「鬼才」「怪物的」なる言葉があまりにもよく似合う演奏家である。演奏家の天才にも、人道的、禁欲的、激情的、繊細かつ叙情的、などいくつかのタイプがある(と思う)が、ホロヴィッツはなかでも「悪魔的」な天才だ。その演奏にはえてして、すぐれているだけではなく「これは人間の作り出すものではない」と思わせる何かがある。ちなみに、「狂気に満ちた演奏」ではない。ホロヴィッツの演奏はおそろしい解釈とテクニックに満ちあふれ、時にはメチャクチャですらあるのに、つねにどこかしらの余裕を感じさせる。これを弾きながらホロヴィッツはたしかに笑っていたかもしれないと、そう思わせる何かがあるのだ。まさにその奇妙なバランスこそが、彼を悪魔的な演奏家たらしめているのかもしれない。
ところでホロヴィッツ本人は、超絶ワガママで扱いにくく自分勝手な奇人だったようである。やはりショパン弾きとして有名なルビンシュタインというピアニストがおり、この人の演奏はホロヴィッツと同じ曲を弾いているとは思えないほど大人しいのだが、このルビンシュタインとホロヴィッツ双方のピアノの専属調律師を兼ねたという人物の自伝を、昔読んだことがある。それによれば、二人は演奏から想像されるのと呆れるほど符合したパーソナリティをもっていて、たとえばその調律師が子どもを連れてそれぞれの家にお邪魔したとき(だったかな)、ルビンシュタインは優しさあふれる対応で子どもの相手をし、子どももルビンシュタインおじさんが大好きになったのだが、ホロヴィッツはけんもほろろに「何このガキ」という態度を隠さず、子どもは泣いてどこかに逃げてしまったという。またルビンシュタインがいつどこでもどんなピアノでも文句ひとつ言わずに笑顔で弾くのに対し、ホロヴィッツは自分のお気に入りのピアノでなければ決してコンサートを開こうとせず、毎回ヘリコプタ(トラクターだったかな)で会場まで運ばせていたそうである。なんてワガママ。ちなみにこの本、もうずいぶん昔に読んだので、ところどころがあやしくなっているが・・・詳細まちがってたらゴメンナサイ。
さそうあきらの漫画「神童」に描かれている変具合はちょっと子供っぽすぎという気がするが、それでも気むずかしい変な人だったのは確からしい。あと恐妻家だったのも。いや奥さんトスカニーニの娘だしね。奥さんのお父さんが怖いよねとりあえず。
なお言い忘れていたが、このショパンのソナタ第二番はあまりにも有名な「葬送行進曲」(デーンデーンデデーンデーンデデーンデデーンデデーン)の原曲である。第三楽章の主題がアレなのだ。これに関して言えば、昔つきあっていた相手が部屋でこのCDをかけたときに「うっはwwwコレwww」と言って笑い出したという嫌な思い出がある(主観的にとても嫌な思い出である)。第三楽章バカにすんな。
ちなみにこの「嫌さ」は、ムンク展で全身を揺さぶられるような深い衝撃をおぼえ、その後足元もおぼつかないままとぼとぼと出口に向かって歩いていて、ふと横を見ると売店で大量に「叫び」プラスチック風船が売られているのを見たときの「開いた口がふさがらない嫌さ」にすごく似ている。
ところで今回のエントリを書くにあたって少し参考にさせていただいたウェブサイトが面白い。ショパンの全作品を作曲年ごとにまとめて検討しているというもの。途中で挿入されているショパンについての、あるいはウェブサイト管理者さん本人についてのエピソードが楽しい。たとえばこのページの「舟歌」の項目。
タランテラの草稿をフォンタナに送ったときショパンは 「とりあえず6/8拍子で書きましたが、 ロッシーニのタランテラを調べて下さい。 6/8拍子だったらそのままでいいけれど 12/8拍子だったらこれの清書のとき変えて下さい」 と、 拍子はどうでもいいようなことを書き送っているが、(後略)
なんちゅう適当作曲家ショパン。こんなやつだったのか!ロマンチストでメランコリックでナルシストで神経質で繊細な人というイメージが強いので(いや知らないけど音楽を聴くと)、こういう一面があったと思うと笑える。いや、曲のほかの部分についてはすごく神経質だったのかもしれないのだが。
あとこの部分も素敵。これは管理人さん本人の回想。
また私事で恐縮であるが、 この曲には個人的な思い出がある。 イギリスには音楽院をノンプロにも開放する仕組みがあるが、 イギリスに住んでいた頃私もそれを利用し、 レッスンについたり練習室を借りたりしていた。 ある日練習室でこの舟歌を練習していたとき、 弾いている最中にもかかわらず若い男がノックもせずバーンと入って来て 「そこはどういう指使いにしている?」 などと、いきなり話しかけて来るのだ。 日本では考えられない強引さだが、 それをきっかけに親しくなり、 いろいろ情報をもらった。 たとえば、 その音楽院にVovka Ashkenazy (Vladimir Ashkenazyの息子) が教師として来ているから教わるべきだ、 と勧められ、 残っていた3ヶ月の滞在期間中教わることになった。 それもこの学生が強引に侵入して来なかったらなかった話である。
「弾いている最中にもかかわらず若い男がノックもせずバーンと入って来て 「そこはどういう指使いにしている?」 などと、いきなり話しかけて来るのだ」って、ああはああ!ロマーン!なんて音楽アカデミーロマン!そんなふうに話しかけられてみたーい!いや若い男がいいんじゃなくてこのピアノしか考えてない強引さが良いのよ。
そんでもってこれをきっかけに無二の親友になったり超いい関係のライバルになったりして・・・うふふ・・・って、たぶんならなかったと思うんですが、なんかいいですね。アシュケナージの息子のレッスン受けられるなんて凄いじゃないか!こう、ヨーロッパの音楽アカデミーというのはこう、のだめカンタービレも顔負けのドラマがそこここにあるわけで。いやイギリスは厳密にはヨーロッパじゃないけどさ。いずれにせよ素敵です。てかこの管理人さんいったい何者でらっしゃるのだろう?音楽のプロではないと書かれているが・・・とりあえず文章が素敵すぐる。
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